つくづく俺は夢見が悪いのだと思い知らされる。己の所業を考慮すればそれだけで済んでいるのが幸いなのだろうか。
 希望に満ち満ちた瞳はくすみ、ゆらゆらと舞っているはずの頭の翅は風に靡かれるばかりで“其れ”には生気を感じられなかった。
 項垂れた儘の“其れ”は見知った顔。名を呼んだところで返事をするわけでもなく、ふらふらと左右に体を揺らして此方を見つめているようだった。
 香りも酷く、時折蠱毒師から薫る強烈な陰の気や負の感情が混じったものに酷似しているような気がした。
 今まで見た中でも一際つまらない夢ではないか。己の弱さが招いた幻影なら、妖怪らしく無慈悲に焼き払ってしまってもいいとさえ思えてくる。
「……き………、…」
 凡そ可憐とは程遠い“其れ”は聴き慣れた声で確かに呼び掛けてくる。救いを求めているような消え入る声色で、親しみを込めた呼び名をまるで呪いのように紡ぐのだ。
 ――狐さん、狐さん、と。
 何故、このような穏やかでいられない夢ほど本人は干渉してこないのだろう。以前は幸せな夢に土足で入り込んでおいてこの仕打ちはあんまりではないか。
 か細い少女の腕が伸び、裾を掴んで縋るように見上げてくる。例え本人でなくても、僅かであろうと躊躇いが生じてしまえば小さな肢体を燃やすことも振り払うことも出来なくなってしまった。
「狐さんは自分を追い込んでしまいやすいのかな」
 そんな余計なことを尋ねながら節介を焼きに来て欲しいと柄にもなく求めてしまった。


***


 気晴らしの散歩に適した晴天の下、庭園の片隅で平包みを敷いて日和を楽しむ姿が目に入った。
 遠目である故に確信は持てないが、珍妙と呼べる組み合わせに興味を惹かれてゆるりと歩み寄る。その珍妙な組み合わせの一人である少女がいち早く気配を察したのか、此方を振り返るなり笑顔を向けてきた。
「狐さんもよかったら一緒に食べようよ」
 胡蝶に隣へ座れと手で促され、腰掛けるとずいっと椿餅を乗せた小碗を差し出される。餅が椿の葉に包まれている見目も香りも楽しめる甘味。胡蝶の前に置かれた山皿の上には大量の椿餅が隙間なく敷き詰められていた。
 胡蝶の奥にひっそりと佇んでいる男は椿の葉を除いた餅を一口含んではゆっくり咀嚼している。いつも頭上で鎮座するように浮遊している香炉は男の目前に置かれていて、大きさは普段より小振りのような印象を受けた。
「あなたと胡蝶に接点があるのは意外だな」
 声を掛けると男は咀嚼していた餅を飲み込み、屈託のない笑みを浮かべて、
「とても素敵な香りに引き寄せられたから。それに、晴明さんが気に掛けている玉藻様がどんな人なのか興味あったんだ」
 なんて躊躇う素振りも見せずに答える。まるで俺が此処へ足を運ぶのを理解している口振りだな――頭の隅でそんなことを思い浮かべると、男は「うん、なんとなくだけどわかったんだ」と言い終えると再び餅を食し始めた。
 以前、晴明が話していた記憶がある。彼は思念で会話する方が得意だというのを。妙な企みを抱く性格でも存在でもないから特別警戒を抱く必要はないが、心の中身が見通されているというのは妙な心地だ。
「胡蝶の心はどんなものなのか気になってくるな」
「あたしの心を見てもたぶん、面白いことは何もないかも。狐さんみたいにいたずらとか考えないもの」
「それだとまるで俺が童のようじゃないか」
 胡蝶は「そうだよ」と悪意なんて微塵も感じさせない口振りで答える。はて、俺は彼女に何か妙なことでもしたのだろうか。己の行動をたまには振り返ることも大切なのかもしれない。覚えていれば、の話だが。
「……ごめん。読もうとして意識しているわけではないんだ。こうして話をしていると、流れ着く心の言葉と混ざり合ってしまうことがあって」
 申し訳無さそうに眉を下げ、此方に向けて浅く頭を垂れる。一体俺のどんな言葉が彼に流れ着いているのやら。好奇心のまま尋ねたら手痛い一撃を喰らってしまいかねない。勢い任せを阻止するように、椿の葉を剥がして餅を口へ運んだ。椿の風味が微かに香り、堪能しているとふと食欲がそそるような香りが何処からか漂ってきていることに気付く。
 これは胡椒、だろうか。希少な調味料の類のはずだが発生源は――香りの元を辿ると行き着いたのはやはり彼、尋香行である。彼から、というより彼の髪からふわりと香ってきていた。
「椿の香りは心が華やぐけれど、尋香行さんのはお腹が空いてくる香りみたい」
「ありがとう。まだ早い時間なのに今から夕餉が楽しみになってしまうかな」
 胡蝶と尋香行が穏やかに笑い合う。和やかな談笑を間近で眺めながら椿餅を口に運んでいく。こういった平和な光景に対しむず痒さが以前は募っていたが、今は不思議と落ち着いた心持ちで見ることが出来る。これも晴明達の影響なんだろうと思うと少々悔しい気がしなくもないが、元々は気晴らしがてらの散歩の途中。ある程度は得をしているという解釈に落とし込むことにした。
 現世の胡蝶は生き生きとしていて、翅も忙しなく舞っている。目に捉えることで内の蟠りを解消しようとしたものの寧ろ増す一方で、隅にあったものが少しずつ拡がっていくのを覚えた。
「狐さんは夜ご飯、何がいい?」
 散々彼と話していて、唐突に彼女が問い掛けてくる。いや、俺は眺めているだけで実際直近の会話は耳に入っておらず、そういう流れだったのかもしれないが。
「俺は汁物が好きだからそれに合ったものがいい」
「狐さん、なんだかおじいちゃんみたいね」
「おや……今日はやたら言葉に棘があるじゃないか」
 胡蝶は間髪入れずに「思い過ごしだよ」だなんて切り返してから餅を口に含んでもぐもぐと咀嚼する。彼女から発せられる言葉の鋭さも反応も普段以上だが、突っ込んだところで同じ様な答えしか得られないだろう。今日は言葉で勝る気配が一向にない。
「胡蝶様は何を食べたい?」
「うーん……色々あるけど、蒸しあわびとか?」
「胡椒が微塵も関係なくなっているな」
 まるで当然かの如く「海の物が食べたい気分なんだもの」と答える胡蝶と呆れ顔の俺をよそに、尋香行は愉しそうに笑って見守っていた。
 それから暫くして、大量の椿餅を胡蝶に贈った張本人である博雅が様子を見て更に騒がしくなったのは語るまでもないことだ。


***


 逢魔ヶ時が過ぎ、月が顔を見せる刻限となった。
 今日は特に大きな事件は話題などは乏しい為、屋敷に滞在している式神の大半は既に就寝している頃だろう。陰陽師も然り、であるが。
 胡蝶は今宵も誰の為に夢の世界へ、尋香行は晴明と共に香行域へ。留守の間、屋敷を晴明に任されたものの蛙達は各々勝手に過ごしているし朧車は澄んだ夜空を駆けていて完全に暇を持て余している始末だ。
 床へ就く気には一向になれず、屋敷の釣殿でのんびりと月を眺めていると珍しい気配を背後から感じ取れた。ただ、聞き馴染みのある鎖を引き摺る音が一切届いてこないのはどういうことだろうか。
「…お前が来るなんて珍しい。残念だけど晴明ならいないよ」
「そうだろうね。あの弟弟子はお人好しすぎていけない。だから数多の妖狙われる」
 半ば呆れたような物言いをしつつ暗闇からぬっと出て、月の光によって照らされた鬼童丸が姿を見せる。囚われの小鬼の姿も無ければ、小鬼を囚える鎖も見当たらない。代わりに、その片手にあるのは大振りの箱膳だった。
 怪訝な此方の視線に気付いた彼は「お茶の道具一式が入っているんだ」と答える。思わず「は?」なんて素っ頓狂な声を上げてしまった。
 我ながらなんて酷い反応か。優雅なんてあったものじゃない。どん底に突き落とされた心地だ。腹いせに蛙どもを弄り倒してやりたい気分になってくる。それはそれで、後で胡蝶に「もっと優しくしてあげて」と叱咤を受けそうだけれど。
「以前貰った甘味のお礼だから勘繰る必要はないよ。本当は彼女もいればよかったけれど、それは次の機会だね」
 鬼童丸は臆することなく俺の隣に腰掛け、箱膳の蓋を開く。茶器の他に火起こしの道具も出てきたものだから興味本位から中を覗いてみると、箱膳の中は仕切りによって分けて納められているようだった。
 持ち運びに適していそうな大きさの火起こし器につけ木と火口を乗せ、密着するかしないか程度の距離で火打ち石を火打ち金に打ち付けていく。たかだか数回ほどで火口に火花が移り、種火を消すまいと息を吹き込む。
「手慣れているんだな」
「先生に教わったから。お茶を愉しむ為にはこれくらいできないと不便で仕方ないし」
 彼の言う先生、と言うのは育ての親である賀茂忠行のことを指しているのだろう。学び舎の大半は彼によって惨殺されたが保憲や晴明、そして忠行は現存している。鬼童丸からすれば、忠行は生まれ持った本能を抑圧を強いた者として捉えることができる。手に掛けなかったのは情からなのか、或いは気紛れによる一時のものか。
 慣れた手付きで燻っていた火は見事につけ木に燃え移り、小さな灯火としても役割を担う。月明かりがあるとは言え、表情を窺い知れなかったが火起こしによる灯火によって明るみに出る。彼には馴染みが無いくらい、穏やかな笑みだったように見えた気がした。
「彼女が君のことを案じていたよ。夢見が悪そうだって」
 言いながら安定してきた火に釜を乗せ、水指から柄杓で水を掬って少しずつ釜へ足していく。湯を作る間、棗から丸形に圧した植物のようなを取り出して茶器に一つずつ入れる。実際、話を聞いた程度で口にしたことはないがこれは花茶というものだと察することが出来た。
 夢見が、とは。既に庭院で出会ったときには気付かれていたということか。胡蝶は敢えて触れず、ああいった態度を見せていたのかもしれない。
「彼女に限った話じゃない。尋香行様や晴明だって君のことを随分気にかけている様子だった」
「まったく…余計なことをするな、彼らも」
「晴明に関わるとみんなお節介になりがちだからね」
 お前もその一人に加わっているのでは――とは伝えずに飲み込んで仕舞い込む。態々気分を害する言葉を投げ掛けても茶が不味くなるだけだろうし、こうして鬼童丸とまともに対話をする機会は滅多にないのだから。
 釜から湯気が立ち上り、柄杓で掬うと丸形の其れに掛けるように茶器に湯を注いでいく。少しずつ元の形が解き始め、やがて器の中で花が咲き誇った。
 「どうぞ」と彼に促され、茶器を口元に運ぶ。ふわりと花の薫りが香って、胸にすっと花が入り込む感覚に陥りよい気分になっていく。茶と口に含むと、体中が一層花の香りで包まれた。
「本当は俺じゃなくて晴明と茶を愉しむ為に来たんじゃないのかい?」
「うん。陰界から訪れてやっと着いたと思ったら早々に晴明が香行域へ向かうなんて言うものだからさ。君がいてちょうどよかった」
 一切悪びれもせずに月を眺めながら茶を吟味しつつ鬼童丸は返答する。彼が完全な親切心で行っている、などと答えてきた方が寧ろ胡散臭さが増す一方だろう。だから彼は答えには安堵した。
 それにしても、今日は随分様々な香りに関わっているような気がする。
 今夜は夢見がいいんじゃないか。不思議とそんな心地にさせてくれる香りばかりで気持ちがよかった。


***


「狐さん。今日はいい夢だね」
「ああ。何しろ夢の世界で久し振りに会えたからね」
 見始めたばかりの夢に対して、その問い掛けに肯定をするのは当然かもしれない。此処のところ薄気味悪く、胡蝶も死に瀕している光景が常々であっただけに彼女から明るく話し掛けてくるだけで晴れやかになる思いだった。
 風景から察するに、此処は見慣れない山のようだ。
 黒夜山とも異なるが夜空に翳す月は現世で見た時と同等の明るさを保ち、胡蝶と俺を照らしてくれていた。
 夢であるが故に瘴気も無ければ陰気も感じられない。不気味なほど澄み切った風が肌を撫でるだけで、草木以外の生き物の気配は無かった。
「狐さんがね、無意識に拒んでたから入れなかったの。あたしに関する夢だったから仕方ないのかもしれないけど」
 彼女が歩く度にしゃんしゃんと音が鳴り、頭の翅は忙しなく羽搏き続けている。やや脳裏に焼き付いてしまった弱々しい“其れ”の姿が、瞬く間だが目の前にいる胡蝶と重なったように見えてしまって息を飲んだ。
 その一瞬を見逃さなかったのか、胡蝶はずいっと俺の眼前に寄るなり人差し指をつきつけてくる。表情だけでも怒りに満ちている様子は明らかだ。
「勝手にあたしが出てくる夢を見て、勝手に気落ちして引き摺るなんて失礼にも程があるよ」
「そうは言っても夢は対処の仕様がないだろう?」
「大妖怪ならそういう夢、吹き飛ばすくらいのことはできるでしょ?」
 なんだそれは。無茶苦茶ではないか。彼女にしては珍しい程の強引な要求だと思う。
 あくまで俺の勝手な見解になるが、「でかい図体してずるずる夢を引き摺るなんてどういうことだ、ちゃんとしろ」という励ましの類なんだろうか。
 もし此処に晴明がいたとして、俺に問われて胡蝶の言葉を理解していながら「さぁ、どういうことだろうな」と一蹴されそうな展開に思えてしまった。
「狐さんは独りじゃないもの。いろんな人に支えられているんだから不安になることないのよ」
 そんなことは存じている。痛いほど頭では理解しているのだから。改めて己以外の言葉でぶん殴られると思いの外損傷が激しいと認めることができた。主に心の方が、だけど。
「いろんな人…か。例えば、誰がいるかな」
「陰陽師さんとか、あたしとか、尋香行様に鬼童丸さん……蛙さんたち、朧車さん……縁結神ちゃんとかも!」
「縁結神…? 貧乏神の間違いじゃないか?」
 冗談混じりに言えば、直ぐさま「縁結神ちゃんの悪口言うのだめ!」と一喝されてしまう。“ちゃん”付けは敬っている気配のない呼び方だけどそれは問題無しなのか、と問うのは余りに不粋だろうか。
 ただ、俺の反応に対して彼女は先程と打って変わって満足そうに窺える。怪訝そうな顔をしたり、怒ったりしている姿は見ていて愉快だが笑っている顔が一番愛らしいと思う。勿論、真顔で本人に伝える気は皆無だが。
「それだけ悪口言えるくらいならもう大丈夫ね。心配して損しちゃった」
「辛辣さは変わらぬままなのか」
「狐さん、よく意地悪してくるからそのお返しだよ」
 彼女がふいっと顔を逸らす。やることが子供の様で面白いものだと受け取るが、本人からしたらこれは不服なんだろうな。
 もしかしたら俺の夢の世界へ入る為に早めに切り上げてくれたのかもしれない、など自惚れた考えが過る。非常に傲慢な思考だが、彼女の優しい一面を考慮すると否定はし難いものだ。
 此方の心を知ってか知らずか、胡蝶は月の下でひらひらと蝶のように楽しげに舞う。
 胡蝶の羅から馨る香が風に乗って鼻を擽った。


end

 


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