「しばらく尋香行様の身の回りの世話を先輩に任せたいと思うのだが、どうだろう。引き受けてくれないか?」
 手入れが行き届いた自慢の庭院に喚び出しておいて早々に何を世迷い言を抜かしているんだろうか、この元弟弟子は。真上で存在を主張する天道様に見合うほどの忌々しい爽やかな笑みを見るに、本気で頼んでいるのが伝わってきていっそ愉快に思えなくもない。
 この男――安倍晴明という名の半妖は人の傍らに寄り添うことが殆どだが、妖を滅するという手段は極力選択から外す奇怪な男で大凡陰陽師としては度し難い考えの持ち主である。
 現に、私を縛する好機なんてものはいくらでもあったのだからとっとと先生に差し出せば事は単純で済む話だっただろう。それのにいつまで経ってもその気配が皆無なのだから最早手遅れなのかもしれない。
 式神という名目がある以上、多少の制約はあっても喚び出されること以外は自由とされていて他の妖らにとっては気楽な場所と言える。私自身は彼から底知れないものを感じるゆえに、正直よい心地はまったくしないのだが。
 事実、眼前にいる彼に突拍子のない申し入れをされているのだから。申し入れ、なんて表現は生緩いだろう。いくら物言いが穏やかでも煽り文句を携えて「やれ」と命じられているのだ。
「僕が断ったところで君は強引に話を進めるだろう? 確認なんてわざわざいるのかな」
「もちろん、強要しているわけじゃない。先輩には荷が勝ち過ぎているというのなら他の者に回すだけの話さ」
「随分癪に障る言い方をするじゃないか。僕に怯えた目を向けてたときの君はまだ可愛げがあったよ」
 私の言葉に一瞬だけ晴明の瞳が揺らいだような気がする。そして、私にとどめを刺すかのように彼は紡ぐ。
「そういう先輩は人として生きるのを辞めてから成長していないんじゃないか」
 鬼として生きる道を選んでから成長しているか否かなど考える余地などあらず。獲物を求め、血を求め、肉を裂く衝動を抑えることなく過ごしてきた。
 同じ半妖であるのにあまりにも異なる。私が鬼だからか、彼が狐だからか。それとも、真に人と妖の共存を探し続けている“人”だからか。
 決して孤独にはならない道を歩み続けている彼を純粋に殺してやりたい、と思った。
 手を伸ばせば届く場所に彼は居るのにそうすることを躊躇ってしまったときには興が削がれ、踵を返して「そうかもね」とだけ呟いていた。
 殺したいという本能を抑えたのは悔しい気持ちがあったからなのかもしれない。だけど、彼の前でそれを認めたいとは思わなかった。


***


 山道を一歩、また一歩と進む度に土を踏みつけているとは思えないような少々の高音が背後から聞こえてくる。振り返ると頭上に掲げた風呂敷で包んだ荷が傾きそうになって踏み止まった。
 大きな香炉を頭上に浮かべた美しく、しかし何処か幼さが残る面立ちの青年が道から踏み外さないよう慎重に歩み進んでいく姿が視界に入る。血が通っているのか不安になるほどの真白い肌、見慣れない杖のようなものに灯火が備わった独特な高下駄を履いているのを改めると“普通の人間”とは異なる存在だと理解してしまう。
 彼が晴明の言っていた尋香行、という名の者。なんでと長い時を香行域なる場所で過ごしたことを考慮し、現世で見聞を広める為のちょっとした遠征――が今回の目的らしい。
 まったく理解が出来ないわけではない。彼の境遇を思えばお人好しな弟分が案を出すのは自然なことだろう。ただ、私がその尋香行様の世話役に抜擢された理由は未だに明かされていないし、問い詰めても答える気配は一向になく不満だけが残されて共に過ごす体となってしまった。
 彼が私の傍まで辿り着くと、ふわりと香辛料のような香りが鼻を擽る。香りの源は彼の髪から、という話を事前に晴明から得ていたものの実際に体験すると不思議な心地だ。
「尋香行様は疲れてない?」
「うん、大丈夫。君がこうして待ってくれてるから道を間違えずに進むことが出来てる。ありがとう、鬼童丸様」
 決して親切心などではない。これは晴明の煽りによって生じた些細な出来事の一つに過ぎない。大したことなんてしていないのにわざわざ礼を言ってきて、この人も大概お人好しなんだろうかなんて思う。
 晴明が語るに、彼は五感の殆どが消失している状態だという。既に問題は解決している影響からか次第に取り戻していくとも言っていたが今はまだその兆候を確認できていないという報せも受けている。幸い、嗅覚だけはすべて失うことは免れていたようでそれだけを頼りに香行域の中を歩み続けていたのだとか。
 実際に対面するまでは半信半疑だったものの、初めて顔を合わせたとき確かに彼の瞳は私の姿を映していたけれど捉えている様子はなかった。
 更には声を発することなく、心中で伝えたい言葉を思い浮かべるだけで話を交わすことが出来るのだが時折会話の流れが乱れる瞬間がどうしても生まれてしまう。
 それでも徒然の癖というものは抜けないもので、無意識に言葉を直接相手に届けようと声を出してしまうし彼自身も声を発して語り掛けてくる。こうして接すれば接するほど、力を持たない弱い者から見れば“普通の人間”ではないのかもしれない。
「……この先は少し道が険しい。手を貸すよ」
「ありがとう。それじゃあお言葉に甘えて……先導、お願いするね」
 彼は屈託のない笑顔を向けて私に礼を言ってくる。醜い中身を隠すように金糸で縅した人間とはまるで異なる存在。ああ、しかしまた礼を言われてしまった。
 不思議と少しばかり尾を引く感覚に陥るのは何故か、と考える前に彼に気取られたくない思いでどうにか頭の隅に引っ込めることが出来た。
 気を取り直して彼の間近で手を差し出せば、手繰るように手を宙に舞わせてから此方の腕を捕えてくる。どうにもか細い手では掴み難そうに見え、仕方なく腕を掴んでいた手を丁重に解いてから彼の手を握るとぎゅっと握り返してきた。
 薄い布地の手袋越しから伝わる彼のぬくもりは、どういう訳かむず痒さを覚える。
 このぬくもりは慣れてしまえば後々苦しくなってしまうものだ――そう自分の本能が内で叫んでいるように感じた。


***


「これほど広い部屋を借りてしまっていいのかな」
 几帳越しから彼が八重畳に腰掛けながら少々落ち着きのない様子で室内を見回す姿が伝わってくる。私には知る由もないが、目が見えない代わりに香りで部屋の広さや造りを把握しているのかもしれない。
 今回の遠征は名ばかりの旅ではなく、周辺の山一帯の地主からの依頼を受けてのもの。当然ながら地主や集落で暮らす者達は普通の人間で、妖がそこらを闊歩している光景とは無縁だろう。
 そのような場所で小鬼を連れ回すなど言語道断。残念ながら今回は晴明に預ける羽目になり、服装すらも指示された狩衣を纏う流れとなった。
 先生の元で陰陽道を学んでいた故に狩衣は着慣れた装束ではある。けれど、久しく袖を通していないのと学び舎で過ごした日々を思い返すために束の間躊躇いが生じたのは語るまでもない。
 私の見てくれは正に陰陽師の其れに当て嵌まる、らしい。らしいと言うのは晴明含めた他者からの意見を参考にしてのことで確信はない。ただ、尋香行様が容姿や言動含めよい意味で浮世離れしているお陰もあってすんなりと地主はこちらが“依頼を受けて足を運んできた件の陰陽師一行”であると受け入れた。
 従って地主の屋敷へ快く招かれ、解決するまで滞在を許されたわけだけど。別々に行動する事態は避けられたものの、同じ部屋で私と共に過ごすというのは彼自身どう感じているのか。申し訳程度の間仕切りがあるとは言え、顔を合わせてからさほど時を要していない間柄ではあるのは違いない。
「ごめん。気を遣わせてしまって…僕は大丈夫だけど鬼童丸様は平気?」
 私の心の内を読み取っての問いかけだろう。つくづく己よりも他者を優先するのが好きらしい。いや、そういう気質なのか。
 風呂敷に包んだ荷を解きながら「平気だよ」と短く答えて中身を畳の上に並べていく。着用するものとは別に用意しておいた狩衣の一式を手に取り、徐に立ち上がると几帳を避けて尋香行様の傍まで近付いてから透き通った白い腕に軽く触れた。
「…鬼童丸様?」
 視覚や聴覚だけではなく触覚も殆ど皆無であるが、多少触れられているというのはどうやら伝わっているらしい。そういえば山道で手を握り返されたことをふと思い出して、一人心の内で納得してしまった。
 彼は顔を此方に向けて「どうしたの?」と小首を傾げてくる。これで全く視えていないのだから末恐ろしいものだ。
「尋香行様の狩衣。寝るとき、その服装だと寒いだろうからって弟弟子が用意したみたいだよ」
 言いながら腕に触れていた手を退け、彼の隣に畳まれた狩衣一式を据える。まだ袖も通されていない未使用のもの故か何者にも染まっていない生地本来のよい香りが鼻を刺激してきた。
 当然ながら尋香行様も香りで感じたようで、
「その為に新しいものを僕に…? ありがとう。晴明さんにも後でお礼を言わないといけないね」
 指先でそっと狩衣に触れて何処か嬉しそうに目を伏せた。
 確かに彼の衣装は掛け物にするには少々薄手であると窺える。正面から接していると気付き難いが、横から話し掛けた際に脇回りが露出されているのが目に止まりえらく肌寒そうに思えた。
 だけど。それにしても、だ。あれのことをわざわざ“さん”付けして呼ぶのは如何なものなのか。
「尋香行様に申し入れするのは失礼なのかもしれないけど。鬼童丸“様”って呼ぶの、出来ればやめてもらいたいな」
「…? もしかして、嫌だった?」
「嫌ってわけじゃない。でも僕は“様”って柄ではないよ」
 それに晴明のことは晴明さんって呼んでるみたいだし、と付け足せば先程発した己の言葉を思い返したのか「そうだったね」と苦笑いをして見せた。
「それじゃあ、鬼童丸さん…でいいかな。呼び捨てるのは抵抗があるから」
「“様”でなければなんでもいいさ」
 私の言葉を聞いて、というより実際は読み取って彼は安堵したのか胸をそっと撫で下ろす。それから間もなくそわそわとした様子でこちらを伺い、
「もし鬼童丸さんがよければ、僕のことは“尋香行様”じゃなくて“尋”って呼んでほしい」
「……ひろ?」
「うん、尋。一尋の尋」
 彼は言いながら両手を大きく広げて見せる。成る程、長さの尋を表していて理解しやすい例え方なのではないだろうか。
 尋というのは“尋香行や神の子としての彼の名”ではなく“彼自身の名前”なのだろう。彼が香行域を旅する間、名を呼ぶ者など悪神以外に果たして居ただろうか。
 ――尋。その名前を知り得ることが出来ただけで、随分近しい存在に思えてならない気がした。
 実際、すぐ手に届く距離にはいるのだけれど。
「それならお言葉に甘えてこれからは尋さんって呼ばせてもらうよ」
「いいの? ありがとう…改めてよろしくね、鬼童丸さん」
 邪気が吹き飛ばされそうなほど童子のように笑う尋さんの姿に、毒気を抜かれる思いだったことはなんとなく本人には伏せておこうと心の内でひっそりと決めた。
 認めてしまえば、どうしても尋さんの雰囲気に引き摺られてしまう気がするから。


***


「屋敷から卯の方角はこの辺り、だけど」
 生い茂る草木ばかりが視界に広がる道なき路を踏み外さぬよう、尋さんの手を握り先導していく。彼にとってはこの様な助力など不必要だろうが、本人に訊ねたところ肯定の意を示してきたので今に至る。
 散策などではなくこれも陰陽師の仕事の一環で、弱まっている結界を強固にするため特定の位置に呪符を飾るというもの。地主含めここら一帯で暮らす者達は霊力など皆無で、妖の存在を認識出来ないのだからそこまで神経を尖らせる必要はないだろうに。妖から接触するにしても、精々直接的に害を及ぼさない程度の悪戯をする小鬼くらいの霊力しかこの山から認められないのだから。
「…他の場所と違って此処は少し陰の気が強いみたいだね」
 私が歩みを止めるのと同時に、独り言ちるよう呟きながら尋さんも足を進めるのを止めた。
 そこには風化して見る影もない鳥居が聳え、奥には本殿らしき社の姿が窺える。鳥居はお世辞にも美しいとは程遠く、長年人の手入れが行き届いていないのか塗料は所々剥がれ落ちて木材が剥き出しとなっている。柱はひび割れ、本来二本あるはずの笠木は一本しか見当たらない。鮮やかな朱い色は何処かへ消え失せ、最早ただの残骸と化しているようだった。
 尋さんが言うように此処は随分陰の気が立ち込めている。かつて信仰し、祀っていた神聖な場所であった故の影響だろう。祀られていたその者の気配は微塵も感じられないのは救いか、浄化さえ行えば対処の仕様はあるかもしれない。
 散々神頼みしておいて人間はなんて勝手な生き物だろう。自分に都合のいいものしか見ようとしない。己が見方がすべて正しいと思い違いをし、曲解して悪であると決めつけ他者を排そうとする。人間の綺麗な部分なんて結局は――。
 一時的な感情任せで浮かんだ思考をどうにか飲み下し、気を取り直して尋さんの方に顔を向けると私の意図を汲んだのか彼は緩やかに破顔した。
「鬼童丸さんが呪符を貼ってる間、僕は香でこの辺りを清めておくよ」
 言いながら名残惜しそうに繋いでいた手を離し、頭上の香炉を手に持つと装束が汚れることなどそっちのけでその場に座り込み香炉を据えた。
 浄化は彼に一任し、私はさっさと呪符を貼り付ける作業を済ませてしまおう。陰陽師の仕事なんて面倒なものは残しておきたくないし、何より此処に長居したいとは到底思えないのだから。


 鳥居を捉えてからだろう。鬼童丸さんの香りに変化が生じたと同時に、彼の記憶が僅かに見えた。
 同じ学び舎の人達に刺される直前の、内で抑えた本能も垣間見えて人間をどのように見ているのか。少しだけわかることが出来た、と思う。
 相手の記憶が見えるのは、感情を香りで知り得るというのはその人を理解できたというわけじゃない。それで驕るのは浅ましい行いであると心に留めているつもりだけど、自分の気付かぬ間に犯していたらと思うと胸が詰まるようだった。
 土足で彼の過去に触れてしまった以上、いずれ話し合わなければならない。仮に熙が生きていて鬼童丸さんのことを相談することになるのなら、必ずしも真実を伝える必要はないのだと僕を諭すのだろうか。
 彼の心を揺さぶることになっても、僕自身の心が苦しくなることがあろうとも鬼童丸さんのことを知りたいと切に願ってしまう自分の気持ちに少しだけ驚いてしまっていた。


***


 夕餉は貴族並の豪華なものだったが、つくづく私には合わない味だと思い知らされる。強飯、甘味、香物、四種器などに文句はない。ただ、どうしても魚の塩漬けは口に合わなかった。
 決して味自体に問題があるとか不味いだとかそういうわけじゃあない。幼少時から辛いものは得意ではなくて、それには塩辛いものも含まれている。とは言え、もてなされている以上餉を残すという非礼な言動は極力控えなければならないという厄介な思考が拒むという選択を妨げてくる。相当の時を要して完食したものの、気分は当然ながら優れなかった。
「…鬼童丸さん、大丈夫? 麦湯貰って来たんだけど飲める?」
 庇で夜の帳を堪能しながら丸火鉢から立ち昇る蚊遣り火を眺めていると、尋さんが山茶碗を乗せた宗和膳を私の傍らへ置いてその場に腰を下ろす。麦を炒った特有のよい香りが多少気持ちを落ち着かせてくれているような気がする。香りの強い餅茶を選ばなかったのは彼なりの配慮なのかもしれない。
 軒先に等間隔で吊るされた釣燈籠が儚く照らしてくれているものの、その光はお互いの表情を露わにするには余りにも不足していて彼の美しい容貌が闇に溶け込んでしまっている。尋さんの顔を見慣れ始めている影響もある故か、純粋に目に留めることが出来ないことを惜しいと感じた。
「僕は鬼童丸さんの顔知らないのに、狡い」
 私の思考を読み取った尋さんが我を前面に出してくる。声色から察するに不貞腐れている様子のようだ。
 不意に暗闇からぬっと手を伸ばされて一瞬驚愕したことをひた隠すように不動を徹し、されるがまま頬に手を添えられる。手袋は夕餉の時に外したままらしく、幾度かその手を握ろうともむず痒くさせてくる掌の感触には未だに慣れない。
「僕に触れてみて、どんな顔をしているのかわかった?」
「…あまり。感覚がまだ戻ってないから、かも」
 恐らく触れる前から本人は接していただろう。行動に出たのはあくまで突発的なもので、深い意味はないのかもしれない。尋さん自身が自覚しているか否かは不明だが、私としてはやっと彼の感情的な言動を目の当たりにしたのだと実感できて不思議と心地よかった。
 だから、と言うわけではない。それでもこの機を逃すのは余りにも惜しいと本能が五月蝿いくらい訴えかけてくる。
「尋さんの肌は血が通っているのかわからないくらい白くて綺麗だね」
「そんなことはな…い…、…んっ…」
 彼の手首を捕えて頬から掌を引き剥がし、透き通るような白い食指の腹に舌を這わせれば反射的に相手の肩が跳ねる。特に手を引っ込める様子は非ず、抵抗する素振りがないのをいい事に指先に吸い付いてからねっとりと咥えるとそこから躊躇という言葉が一気に吹き飛んだ。
 尖った歯先で指を挟み込んで力を込めると容易くガリッ、という音と共に口内に血の香りが充満していく。透かさず舌先で傷口に触れればとくとくと鼓動と血の流れが伝わってきて気分は自然と高揚した。
 痛みはなくとも害されたという感触は本人も自覚があるはずなのに、尋さんは抗わずこの行為を感受している。時折くぐもった声が漏れ、甘ったるい香りが彼の髪から漂ってくるのが証左と言ってもいい。
 この儀式めいた行為は暫く続いたものの、唐突に終息を与えてきたのは一際強い夜風が吹き抜けて草木を靡く些細な音だった。
「…鬼童丸さん、明日も朝早いから…」
 尋さんの聞き慣れない声色に応じるよう反射的に食指を開放すればすっ、と彼の腕が引いていく。彼は徐に腰を上げると声を掛ける暇もなくひたひたと足音を立ててその場から離れて行ってしまった。
 ぽたり、ぽたりと床に血が滴る音が響くも本人は意に介さず二つの音色は遠ざかっていく。あれでは装束も汚れてしまうのではないか、と他人事のように暢気な考えが浮かんだ。
 先の高揚に惹かれて行ったが故に明日はどのように接すればいいだろう、などと思考を巡らせながらすっかり冷めてしまった麦湯を啜る。あの行為で調子が優れた為に喉を潤すだけのものと化してしまった。


 ふと、暗闇に溶け込んだ“其れ“に視線を向ける。芳しい彼の血の香りに誘われたのか、床に這いつくばってずずず、という耳障りな音を鳴らしながら舌を這わせている無様な姿は興醒めするのに充分なものだった。
「ぎゃっ…!?」
 麦湯を啜りながら宙に現れ出た鎖が“其れ”の首に絡みつき、ギチギチと肉が食い込むよい響きが耳に届く。苦しさと痛みで悶えるようと美しくないものの苦悶に抗う姿を見ても昂らないし退屈が心を支配するばかりだ。
 やや気怠さが勝るも、仕方なく立ち上がって庇に踏み込むと無遠慮に“其れ”の頭を踏み付けてやればやっと大人しくなる。圧倒的力の差を感じたようで恐怖から震えているらしかった。
 晴明に小鬼達を預けてからご無沙汰だったけど醜いものの肢体を踏み荒らすのは愉しい。傍観よりも直接手を加える方が性に合っていると改めて思う。
「強者である僕がいるのにさ、御馳走に有り付けられるとでも思った? 君は綺麗じゃないんだからあの人の血を求めてはならないんだよ」
 烏滸がましい、と一言付け足してから鎖の力を強めてやると死を悟ったのか手足を激しくばたつかせる。こんな状況下でも未練がましく生に縋るとはなんて浅ましいのだろう。
 あと少し力を加えてやれば首が千切れるだろう。鎖に力を加えようとした矢先、決断を遮ったのは瑣末な感情。
 殺めてしまえばいち早く勘付くのは彼。血の香りは他の香りを掻き消してしまうほど強烈なもの。知ってしまった後、彼は私に対してどのように振る舞うのか興味もあるがそれ以上に――。
 ほんとうに煩わしい。人が執着するものほど不快であり、持ち合わせている私もまた忌まわしくて苛立ってくる。
(嗚呼、だから悪であることを選んだのに)
 曖昧な情を抱き続けるくらいならばいっそ憎まれてしまえば楽じゃないか。
 憎悪に支配され、殺意を向けられた者を相手にする方が余程扱い易いものじゃないのか。
 私が一方的に幻想を抱いているのかもしれない。それでも彼は何方にも当て嵌まらないような気がした――いや、当て嵌まらないでほしいと願ってしまっている。
 彼に何かを求めている時点で迷いは既に生じ、殺す気力は消え去ってしまった。なら、最早成すことは限られてくる。
「ほら、殺されたくなかったら君の友だちのところへ案内してよ。どうせ他にもいるのはわかってるから」
 そういえば土足で床を踏んでしまったな、などと今更気付いたものの既に遅い。踏み付けていた足を退ければ
、小鬼は何故自分は開放されたのかまるで理解出来ず困惑している様子のように見える。庇から庭に出ると同時に鎖を勢いよく引くと小鬼を庭へ引き摺り下ろしてやった。
「全員仲良く縛ってあげる。大丈夫、無駄な抵抗さえしなければ命は奪わないよ」
 よろよろと起き上がれば慌てて嚮導の意を示すように私の前へ移動し、卯へ向けて指を差す。その方角は逢魔ヶ刻を迎える前に尋さんと訪れた――朽ちた鳥居があった場所。普段は人が寄り付かないあの周辺を住処にしていて、前触れなく私達が現れたものだから不安に駆られた“此れ”はこの屋敷付近まで逃げてきたのかも知れない。
 それにしても香りで人の居場所を探ったり感情を読み取ることが容易い彼ならばこの程度の妖、直ぐに感知しそうなものだが。もしや、阻害したのは言わずもがな私だろうか。主に先程の行為が原因で。
 推測で考えに耽っていても残念ながら仕事が捗るものではない。仮に私の後ろ暗さが絡んでいるのなら彼の手を煩わせるのは気が引けてくるというものだ。
 日の出を拝む頃合いには終わらせて尋さんとの今後を考えなければ、などと思案しながら暗夜の中を進んでいった。


***


「はい、出来たよ。これで遊んでおいで」
「わあぁっ、ありがとう尋香行様! みんなと遊んでくるね!」
 夜の帳が幕引く前に妖どもを全員締め上げて縛り上げ、日の出と共に地主に報せると大層安堵したらしい。結界や陰陽寮関係者へ妖の引き渡しを行うのは後日となり、今日の仕事は村民に鍼灸の施術が主となった。
 地主の屋敷から道形に下っていくと民家が点在しており、その途中で道の傍らに山畑が設けられており収穫を行っている村民がしばしば認められる。とある山畑の一面の隅、尋さんが敷かれた茣蓙の上でみすぼらしい格好をした村民の子に何やら手渡しているのを改めていると子供は駆け出して間もなく私の横を通り過ぎて行った。
「鬼童丸さんも竹とんぼ、飛ばしてみる?」
 まるで当然の如く声を掛けられて驚く刹那、尋さんは「結構難しいんだよ」と悪戯を企てている無邪気な子供のように笑って見せる。昨夜の件を気に掛けていないように窺えるのは彼なりの気遣いによるものだ。
 私の思考を読み取ってか、隣へ座るように手で促されるとされるが儘に茣蓙の上へ座り込む。このような場所で何をしていたのかと彼の方へ視線を向ければ、尋さんの手前に切り取られた竹の一部分と錐や小刀が置かれていて削り作業の際に生じた竹屑などがそこかしこに散乱している状態だった。
「手先が器用なんだね」
「うん、元々木工なんかも好きでたまにやってるんだ。でも竹は割れやすいから結構難しいみたい」
 言いながら傍に置いていた割れた竹の残骸を見せる。それでも残骸の数よりも加工の形跡が残っている竹の方が圧倒的に多く彼がいかに器用人であるか窺い知れた。
 差し詰め、村の仕事を手伝った後に子供の世話を自ら受け持ちその過程で手作りの玩具を贈る流れに発展したんだろう。
 視界が閉ざされていてもこれ程の芸当を熟せるのなら私は不必要なのではないのか。それを汲んだ上で彼と引き合わせたというのなら、苛立ちを覚えるほどあの後輩は食えない輩に成長したということだ。
「尋さんは何でも一人で出来るから本気で他人に頼ることなんて殆ど無さそうに見えるけど」
 特に深慮のない紡がれた言葉。対象を捉えていない眼が此方に向けられていて妙な心地になった。
 私は彼と違って大衆同等、人の考えを読むような力は持ち合わせていない。それでも、僅かだけど言い淀んでいる様子が見て取れて失言をしてしまったと自覚した。
「本当にそうだったら、山道で鬼童丸さんの手を借りたりなんてしないよ」
 尋さんの華奢な手が私の掌にそっと触れた。
 昨夜、一方的な行為によって傷付けられた食指が私の肌と接する。触れられた箇所が少しだけ熱く感じるのは私の意識が作用しているが故の錯覚なんだろうか。
「光や音が無くても路は見える……それでも、怖いと感じる刹那はある。香行域では持国天に隙を見せない様に恐怖心とか孤独に囚われないことを努めていたけど、現世で独り過ごすのは僕にとって大きな心労に繋がってしまうから」
 対象を捉えることの出来ない彼の瞳は、曇りなど皆無で赫きを常に放っている。その瞳から逃れること叶わず、僅かに揺れ動いた内を隠伏するように私の掌に触れていた手を包むかの如く握れば、尋さんは目を細めて緩やかに微笑んだ。
 その行動と呼応するように彼の髪からは山に吹く風のようなあたたかな香りが漂う。
「鬼童丸さんに不都合がないなら、晴明さんの不明瞭な企みより僕の澱みのない言葉を優先的に昇華させる…というのはだめかな…?」
「……なんだって?」
 私の晴明に対しての心根を読み取っているのは前提として。あまりに平然とした態度でとんでもないことを述べるものだから、自然と怪訝な表情を浮かべてしまったと思う。自分で澱みないなんて言い切る人物を見たのは生きてきて初めての経験だ。
 驕っているわけでも慢心しているわけでもない。ただ、実直に自負しているだけでそれが至極当然であると尋さんは認識している節がある。彼の性か、咎か――両方が綯い交ぜになっている結果なのだろうか。
 更に此方の考えを読んだのか、「僕の考え方って変なのかな」と少々気落ちした声色で浅く溜め息を吐いた。
 なんとなく、永らく彼を堕とそうと目論んでいた悪神が不憫に感じてほんの少しばかり同情した。 





 些細なものであるが彼と行動を共にして気付いたことがある。
 彼はただ居るだけで人目を惹き、瞬く間に周りに人集りが出来る。それは彼自身から発せられる香りによるものもあるが、儚さや美しさ、人らしからぬ神性を間近で見えたいというものもあるのだと知り得た。
 依頼を終えて帰路の途中、立ち寄った活気のある村で彼の香りに惹かれて香を求める者が後を絶たなかった。次第に群れと称するのが遜色ないほど人が集まっていく。
 少々離れた場所からその光景を眺めていた私は、喧騒紛れて彼に触れる不逞な輩を捉えてしまった。
 そこまで如何わしいものではない、腕に軽く触れる程度のもの。だからこそ醜悪である。本人は素知らぬ顔をして香を配ることに徹底していたが、触覚が鈍かろうと疾うに気付いていただろう。
 彼の香りに、美しさに肖りたいと渇望する者らが彼を取り囲う様はまるで身に余る光を求めて貪ろうとする――
 穢れたものに触れられても赫きを保ち続ける彼を尻目に、逢魔ヶ時を迎えつつある空を眺めて内で燻る殺意を抑え込んだ。
 私自身、不逞な行為を働いて彼に赦された身である以上身勝手な振る舞いは私が思う礼節に反する。
 人集りの間から此方を覗く彼の瞳に気付くことなく、帳が下りて月が顔を見せ始めた頃には再び彼の手を引いて忌々しい後輩の屋敷へ辿り着く為に歩を進めていった。


end

 


ALICE+