「尋香行様、お願いがあるの」
 覚えのある物言いに誘われて瞼を開くと眼前には濃霧の中ひっそりと佇む胡蝶様の姿があった。
 僕はまだ五感を取り戻しきれていない。己の眼で世界を捉えることも、人々の談笑すらも愉しむことが出来ない状態。それに僕は鬼童丸さんと共に依頼を終えた帰路の途中、宿場で休憩する流れとなって既に眠りに就いているはずだ。
 だからこの世界が現世のものではないと直ぐに察することが出来たし、脈絡無く彼女がこうして現れたのが何よりの証と言っていいと思う。
「もちろん協力するよ。僕は何をすればいいの?」
 この世界がいつまで保たれるかは不明である故、冷静に彼女と会話を紡ごうとしているもののこうして夢の中で出逢うのは初体験となる。人々の夢路を辿る胡蝶様の役に僕がどう立てるのかは少し想像し難かったりもする。
「このまま奥を進んでいくとある人の夢に繋がってるんだけど……その夢にね、入ってほしいの」
 胡蝶様は背を向けて濃霧が広がっている奥を指差す。特に目に見える変化は窺えない。この路を辿ればそのまま夢へ入り込めるということなのかな。
「胡蝶様のその物言いだと、夢に入るのは僕だけということになるような感じだけれど…」
「そう。あたしは入れなかったから、尋香行様にお願いするのが一番って思ったの」
「夢に、入れない…?」
 夢の世界の勝手は知り得ていない為、詳しくはわからないけれど無邪気な笑顔を浮かべている目の前の少女に無茶な要求をされているのは理解できた。
「…胡蝶様が入れないのなら、それこそ僕なんて土台無理な話では…?」
「…自分の夢を認識してるみたいでね、入れる人を選んでるみたい。あたしは違うみたいだからすぐに追い出されちゃった」
 でも尋香行様は入れる、とまるで確信を抱いているような言い回しをする。僕であることに果たしてどんな意味を成すのか。対象の名前を伏せていることにも意味があるのだろうか。
 不毛な思考を一旦閉ざし、胡蝶様の言う儘に足を進めていく。不安を煽るような濃い霧は見果てぬほど続いているように思えてならない、と本来人は感じるのかもしれない。
 なんだか他人事のように心の内で語ってしまうのは、常に誰かとの会話を求めている故なんだろう。晴明さんや縁結神様、鈴彦姫様達とどれほど話を交わしても飢えてしまって仕方がない。果たして落ち着くような日は訪れるのだろうか。
 此処は夢の中。普段、話を聞いてくれている香霊もいない。それが少しだけ寂しくて、咄嗟に頭に浮かべたのは手を繋ぎながら会話に応じてくれる鬼童丸さんの姿だった。
 それが僕自身も意外で、寂しさで心に開いた穴にすとんっと嵌まる感覚を覚えてしまったことに驚いた。
 普通の人には嗅ぎ取れないほど微かだけれど怒りや悲しみを含んだ香り。それを塗り重ねるように血の匂いが一際強く感じられて、一層彼の存在を目立たさせている。あくまで僕の中で、という話だけれど。
 僕自身が自覚をしている以上に、僕は彼を識りたいと願っているのだと気付いた。


***


 どれほど歩いただろう。改める意味も含めて後ろを振り返ってみると胡蝶様の姿は疾うに捉えることが出来ず、ひたすら霧が広がっているばかりだった。
 言い切れる訳ではないものの、直ぐにこの世界が閉ざされるというような気配は感じられないのが幸いだろうか。仮に閉ざされても、存在が消失するといった物騒な事態は引き起こされたりしないだろうけれど。
 再び歩みを再開しようと前へ視線を戻せば、先程とはまったく異なる光景が飛び込んでくる。濃霧とは打って変わってそこは桜が咲き誇っていて、空には眩しいくらいのお天道様を捉えることができた。
 夢の世界であれど、唐突に自分の瞳で陽を見えるとは思わなくて刹那高揚したことは彼女に内緒にしておこうと思う。そう思ったところで、自分からうっかり零してしまうかもしれないけれども。
 どうやら何処かの町並のようで、一際存在感を放つ塔らしき建物が幾つも聳え立っている。夢を見ている者にとって季節が春であることや背景に塔があることは重要な要素なのかもしれない。
(…この強い香り、は……)
 暖かで肌を撫でるような優しい春風に混じって、この光景には見合っていないほど強烈な香りが鼻を掠める。香源の正体が何であるかは大凡見当がつくけれど、この目で確かめなければならない光景であると言い聞かせるように胸がざわついていく。
 香りを辿るように足早に歩を進めて暫く。静寂が支配していたのも束の間、人々が賑わう声が耳に届き始めた。近付くにつれて香りも増し、視界が開けると同時に
異様な風景が目に飛び込んでくる。
 街道には店先で値切っている者、親子で買い物に訪れているのか母親が子供の手を引いているといった数多の人々の姿が窺える。そんな細やかな光景とは裏腹に、丁度街道の中央辺り――人が最も往来するであろう場所にはかつて人であった手が、足が、首が転がっていた。
 惨劇は正に其処で行われたようで血溜まりが幾つも出来上がっている。千切れた手首が足に引っ掛かろうが、歩いている拍子に眼が見開かれた状態の首を蹴り飛ばそうが人々には視界に入っていない様子で誰かが過ぎ行く度に亡骸は無惨な肉叢と化す一方だ。
 最も大きい血溜まりの傍らには狩衣を纏った少年の姿がある。彼の指先から滴り落ちるのは血で、惨状はこの子が引き起こしたものであると理解した。
 あの少年こそがこの夢を見ている張本人なのだと直感する。惨状同様に行き交う人々は誰も彼に声を掛けもせず、見向きもしないからだ。
 一先ず彼に話し掛けようと歩み寄っていけば、此方に気付いたようで顔を向けてくる。無の表情が張り付いた端正な顔に見覚えはないものの、少年が何者なのかは気配と香りで直ぐにわかった。
「鬼童丸さん、だよね」
 目の前まで移動すると視線を合わせるように膝を着く。現世の彼はもっと成長しているはずだけれど、何故夢の彼は少年の姿なのだろうと自然と首を擡げようとした。
 所作を中断したのは彼の狩衣が血に染まっていて、それが返り血ではなく他者から害された際に生じたものだと気付いたから。
 目線で此方の意図を察した彼が淡々とした口振りで「刀で貫かれただけ」と答える。いくら夢の中であれど、風すらも肌で感じられるほどの現実味のある夢なのだから出血事態は治まっていても貫かれた際は激しい痛みを伴ったのではないだろうか。
 今もなお血が滴り続けている左手を取る。特に抵抗らしい抵抗はなく、されるが儘の状態。此方の行動を受け入れてくれているものだと判断して掌を見てみると、全体が痛ましいほど焼け爛れていた。
 爪先を染め上げている血液は彼のものではないだろうが損傷している掌は他者から受けた術によるものか、詳しいことは知り得ていないけれどもしかしたら霊符の力かもしれない。
 彼は人と鬼の血が流れる半妖。故に時さえ経れば何事も無かったように跡形もなく回復する。これは鬼童丸さんと旅に出る前、晴明さんが話してくれた内容の一つだった。
 放置なんて選択は当然ながら僕にはなくて、何かあった時に備えておいた香り付けの手拭いで掌を覆うように巻いていく。始終、彼は不思議そうに眺めていたけれど止めるようなことはしなかった。
 右の掌を確認してみたところ、血に染まっていたものの怪我を負っている様子は無くて少し安堵した。
 ――裂かれた四肢が捨て置かれたような場所で安堵するというのは、とても変な話なのかもしれないけれど。
「どうして尋さんがこんな場所にいるの?」
 此処は僕の夢なのに。そう訴えているように思えた。
「胡蝶様が入れないから代わりに入ってきて、とかそういう感じ……なのかな」
「あぁ…そういえば見かけたような気がする。すぐ追い出しちゃったけど」
 夢を自覚していて、尚且つ外部からの侵入も認知出来ているらしい。それに招くかどうかの権限も持ち合わせているのに、何故僕は許されているのかわからない。
 言えるとするならば、彼女がこの光景を目にしなくてよかったというのは確実だと思う。多分、彼女の性質含めて動揺はしないかもしれないけどそれでも出来るなら避けたい事態だ。
「こんなものを見たら僕を拒むものだと思ってたけど…あなたはやっぱり違うみたい」
 そもそも来るなんて思ってなかったけど、と少し俯いてから独り言ちる。僕が夢へ来訪するなんて想定外で、口振りから察するにこの惨状は“見せたかったもの”ではなく“見られたくないもの”なのだと推測できた。
 晴明さん曰く、彼は他者の命を狩り取ることに愉悦を覚えると言う。故に狩りの邪魔さえなければ覗かれようと気にも留めない。仕留められる可能性はとても高くなるだろうけれど。
 これは本人にとって見られては都合の悪いものと認識していて、その感情すら潜ませる様子を微塵も感じられないことが疑問で仕方ない。あるとするのなら、僕からしたら希望的観測に当て嵌まるものになってしまう為に問うのは少々憚られた。
「…僕はあなたのすべてを知っているわけじゃない。だから断言はできないのだけど…今の鬼童丸さんは欲求自体満たしているはずなのに元気がないから。何か理由があるのかなって思ってしまって」
 直接問わずやや遠回しな物言いになってしまったものの、彼は僕の言葉に対して視線を横に流すというあからさまな反応を見せてくれた。
 鬼童丸さんの内で告げたい気持ちと吐露を拒む感情がぶつかり合っている。無理強いさせる心持ちは欠片もない為、両の手を包むように柔く握ると「言いたくないなら無理には聞かないから大丈夫だよ」と念を押した。
 僕よりも少し小さな手。後々、僕の手よりも大きくなって導いてくれているのだと思うとなんだか不思議な心地になってくる。
「…尋さんは綺麗な心で接していたのに、こいつらは穢れた心で群がってたから」
「…え、僕……?」
 此処は夢の世界。それも僕ではなく鬼童丸さんの夢である為、鬼童丸さんの思考を読み取ることは現世の時よりも遥かに難しい。だから自分が関与しているなんて微塵も予想していなかっただけに場違いなほど間の抜けた声を出してしまった。
 直近の出来事となると帰路の途中で香を人々に配していた時のことだろうか。確かにあの時、たくさんの人に囲まれてる感覚はあったし理由は定かではないけど人の多さに乗じて触れてくるなんてこともあった。
 ――特別な力を持つ者は己が人と異なるということを自覚しなければならない。
 神に欺かれていた頃、告げられた言葉を此処で思い返してしまうのにはきっと理由があるのだろう。実際、手の施し様がない状況に陥ってからそれに気付いたときに無知は大罪であると“自覚”もした。
 縋るように僕を囲んだ人達は求めてきたのだろう。ほんの一時の安らぎを、救いを。それを否定するつもりもないし、余程度の過ぎたものでなければ拒みもしない。
触れてくるのも仕様がないものだと思っていた。
「こいつらは自分が弱者だからと言い聞かせて、尋さんから一方的に与えられるのが当たり前だと思ってる」
 最早人の原型すら留めていない肉叢を横目で睨みつけながら吐き捨てるように鬼童丸さんは呟く。声色には怒気が含まれていて、荒んだ鳥居を前にした時の感覚に似ているような気がした。
「慈悲を受けても敬うことの出来ない愚か者共を殺めても愉しみなんて見出せない。だからこんなもの、尋さんに見せたくなかったんだよ」
 話をしているだけなのに肌でひりひりと感じ取れるほど、彼は確かな憤りを覚えている。ほんの僅かな時から解放される為に求めてきたこの人達にも、それを拒まなかった僕にも。
 これは夢の中の出来事であり、現世に影響のないものだとしてもこの状況を生み出す切っ掛けを作り出した要因に僕も関わっているのは紛れもない現実。此処に足を運ばなければ、彼はもしかしたら心を読まれることを予想して夢に関して思案すること放棄する可能性がある。僕はそれを存ぜぬまま、明日から鬼童丸さんと過ごしていたかもしれない。
 彼は現世で殺めてしまわないように、夢の中でこの人達を殺めて清算した――なんて捉え方は余りに希望を見出し過ぎてしまうのだろうか。
「僕の行動で、結果的にこの世界で望まない殺戮を強いてしまってごめん。鬼童丸さん」
 彼の背中に腕を回して引き寄せると「尋さんが穢れてしまうよ」と言いながら身を引こうとする。それを阻むように抱擁してみれば、観念したように鬼童丸さんの体から力が抜けていくのが肌に伝わってくるのを感じた。
「僕の夢で僕が行ったことに杞憂する必要はないのに。言ったところで尋さんは気にしてしまうんだろうけどね…」
 鬼童丸さんは呆気に取られたように零すと抱き返すことはしないものの、此方の肩に顔を寄せて凭れ掛かる。緋色の髪を優しく撫でながら「やっぱり、よくわかってる」なんて返せば聞こえるくらいの大きな溜め息を吐かれてしまった。
「……これだから内側も外側も綺麗な人は厄介だな」
「え……内側が綺麗ってどういうことだろう。鬼童丸さんが言う内って言うのはあちらの意味のように感じるけれど…」
 確かにある程度は体調には気を遣ってはいるよ、と付け加えてみるけど「外れでもないけど正解でもない」と非常に曖昧な答えを与えられてしまって胸に蟠りが残った。
 いつか答えを求めてもいいのだろうか。仮に僕の解釈の通りに捉えられているのだとしたら、彼はそういう意味で接しているということに繋がる。それで僕が色を失うようなことはない。けれど、親しくなりたいという心持ちがある故に寂しいと感じてしまうと思う。
 少し乱され気味である僕の胸中とは裏腹に、前触れなく夢の世界に変化が訪れ始めた。


 肉叢に加え、行き交う人々や建造物が緩やかに流れる風へ乗るように光の粒となり消失していった。
 晴天の空は絹の如く柔らかな乳白色で塗り替えられ、大地は空を映す水面のように僕と鬼童丸さんを中心にして波紋が幾つも生まれて広がっていく。彼の遥か後ろには燦めく光の道が続いていた。
 景色そのものは異なれど、なんだか香行域が脳裏に過ぎって不思議な心地になる。
「潔く僕の負けを認めるしかないじゃないか」
 幾許かの抱擁の時を終えて鬼童丸さんは僕に背を向けて光の道を真直ぐに眺める。負けとは何に対してなのかは把握し難くも、恐らく鬼童丸さん自身に何か変化が生じたのだろう。それこそ、心――とまではいかなくても気分程度くらいは。
 その証左と言わんばかりに貫かれた傷によって血に濡れた彼の狩衣は汚れの一つも無い状態――も束の間、少年の姿から齢にして青年ほどに成長した姿へ変貌を遂げる。先程の纏っていた狩衣と異なって傷みが激しく禍々しさが際立っていた。
 僕よりも背が高く、僕よりも少し大きい手。眼前の彼が恐らく現世で生きる彼の姿。僕の手を取って導いてくれる人。
「やれ人様の夢を見るだとかやれ人様の心を読むだとか。そういう人ってみんなお節介な気がするよ」
 言いながら彼は振り返り様に僕の手を捕えて引き寄せる。引力の成すまま踏み出す拍子に高下駄がぐらつき、倒れまいと彼の袖を掴めば此方の腰に手を回して支えてくれた。
「鬼童丸さん…?」
「此処では尋さんが責任持って僕を引っ張ってくれると期待しているんだけど」
 少年の姿での無表情は何処へやら、鬼童丸さんは期待と悪戯心を含んだ童のように笑む。責任とは言わずもがな、彼の夢の世界へ踏み込んだことに加え口を出したことを指しているのだと思う。でも、その意味はつまり――
「…鬼童丸さんの夢にまた来るってことになるけど、それでもいいの?」
「あんな無様な世界を見られたんだから今更気にしないよ」
 無様、というのは何れを示しているのか測り兼ねるけど反応を窺うに晒してしまった以上開き直っているのかもしれない。
「導くのは嫌いではないでしょう、尋さん」
 やや畏まった言振りで腰を支えていた手を退け、するりと僕の手を握るもそこから動き出す気配はなかった。
 僕が一歩踏み出すのを今かと待ち侘びている、そんな眼差しを向けてくる。夢だけれど僕や鬼童丸さんは確かに此処に存在していて、彼からの香る感情は紛れもなく本物だ。
 僕の中にある何かを彼は探っているのかもしれない。それは善意か悪意か。まったく別のものなのかは定まらないし、問い掛けても満足出来る言葉は返ってこないだろう。
 何であれ贋物だろうと本物であろうと、僕が選ぶ路は一つだって既に決まってしまっているけれど。
「現世で鬼童丸さんが僕を導いて歩んでくれるように、この世界で僕はあなたを導いて歩み続けるって約束するよ」
 握られた手をやんわりと握り返し、燦めきへ続く光の道に足を踏み出す。少し遅れてから彼も倣って前進した。
 そこからは彼の手を引いて歩をゆっくりと進めていく。歩んでいる最中、声を求めて話し掛ければ彼はいつものように応じて乗ってきてくれる。時々、鬼童丸さんの方へ目を向ければ不満を漏らさず見つめ返してくれた。
「こっちでもよろしくね。鬼童丸さん」
「お手柔らかによろしく願うよ」
 まだ、彼との夢の旅路は始まったばかり。


end

 


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