大凡現世ではお目に掛かれないほどの美しい光景が眼前に広がっている。少なくとも己の記憶には全く無い未知の世界で、これが他者の記憶から象られたものであるというのはすぐに理解できた。
 逢魔が刻は疾うに過ぎ去っている頃らしい。夜の帳には点々とした煌めきが散りばめられ、この世界を照らしている。付近に川でもあるのか水のせせらぎが聞こえ、耳障りな声色は差し当たって耳に届いてこない。現状では特に目標も確認できない為、一先ずは音の発生源へ向かうことにした。
 人の往来が多い道を進めば進むほど、すれ違う度に「外から来た人だ」と声を掛けられる。外とは果たして現世を示しているのかは不明であるが、滅多に旅人が訪れるような場所ではないのはなんとなく察することが出来た。
 話すついでに土産を矢鱈寄越してくるのは、皆そういう性格だからなのかはさて置き。誰も彼もが香を体に纏っているのが特徴と言える。それこそ香りに違いはあるが、物珍しいものを見たといった風に都度近寄られると此方の鼻を擽ってくるという点は一貫しているものだった。
「尋さんの夢……、か」
 香という言葉と繋がる対象と言えば自然と彼が連想される。何しろ普段履いている高下駄にすら棒香が立てられているくらいだから強烈な印象は与えてくれたと思う。
 此処は彼の故郷といったところだろうか。悪神とやらに一族の者らが囚われることもなければ、もしかしたらこのような活気が潰えることも無かったのかもしれない。
 彼はどんな想いで一族の魂を解放したのだろう。解放とは即ち、私達の世界で言うならば“死”であり、それが何を意味するのかは本人も理解しているはずだ。
 彼は死に近しい存在。故に私は彼に対して親近感を覚えるている――かもしれない。本人に伝えたら果たしてどんな顔をするだろう。否、少なくとも私が望んでいるような反応は得るどころか斜め上なものであるような気がしてきた。
 渡された土産で一杯になった両手を交互に見やる。夢である為か元々重さは感じられなかったが、知らぬ間に溢れそうになっていた品々が消失していて不思議な心地だった。これが私ではなく、どこぞの神様だったらさぞ落胆していたことだろう。
 既にすれ違った者達の香りは記憶から失われつつあるが、未だこの世界で出逢えていない彼の香りは強く感じられる。今まですれ違った彼らは記憶の中の旅人であり、尋さんのように現世に身を置いて生きる者ではないという境目が生じている故なのかもしれない。
 これは叶わぬ願いで出来た、悲しく虚ろな夢であると本人は自覚しているようだ。


***


 暫く足を進めていると小川が視界に入り、踏み入れた途端に静寂が襲い掛かった。
 先程まで聞こえた人々の活気も、小川のせせらぎも何かに遮られたかのようにまるで聞こえない。振り返れば遥か先の市に人の姿は視認出来るのに。このような現象において私が干渉する余地はないのだろうと見通し、小川の方へ改めるとそこは既に景色が一変していた。
 無。正しくは感覚的に無に近いもの、だろうか。
 すべてが闇で覆われて最早何も認めることが出来ず、光も影もない。幸いなのは自身の姿ははっきりと視界に捉えることが出来るということ。心に迷いが生じるようなことが無ければ恐らく狂うことはないと思う。
 試しに歩を進めてみる。しかし、どれほど歩いても段差に躓くことも無ければ冷ややな小川に足を浸す感覚も一向にやってこない。おまけに景色もないし、音もない。こんな場所は常人ならば気が遠退いてしまうことだろう。
(…これは誘われているのかな)
 風すら感じられないのだが、不思議なことに彼から発せられる香りが何処からか薫ってくる。次第にそれは濃くなっていき、ひたすら導かれるまま進んでいく以外の選択はなかった。
 自分の性質上、敢えて乗ってやろうくらいの気が無ければ普段は大抵の物事に対して抗うことが多い。ただ少なからず、この世界においてはそういう類のものを一切含まずに行動してしまっている己が存在している。まぁ、退屈なのが苦痛だからというのも勿論あるけれど。
 夢に関することは学び舎で得てはいるものの決して詳しいわけではない。大凡夢というのは本人の心が大きく影響され、願望などが大半を占めているという。その願いが必ずもよい意味で表現されるとは限らないわけだが。――なのに、自ら明確な境界線を張って無の側にわざわざ帰しているのは罪の意識から来ているのだろうか。
 本人にそのつもりは無いのだろうけれど、振り回される側はたまったもんじゃない。厄介なのは自分のことになると後回しにしがちなきらいがあるということ。声を上げて助けてだなんてまず言ってこないし、仮に伝えてくるとしても遠回しな物言いが良いところだろう。彼が自ら助けてと発するとき、大抵他者の助力無しでも凌げるような状況であることの方が多いのだから。
 心の中で噂されていると気取られてか否か。不意に香りが濃くなるのを感じるのも束の間、
「あなたが来るなんて思ってなかったな」
 聞き覚えのある声と共に主が眼前に普段と変わらぬ姿のまま、彼は武器となる杖を倚子代わりに寛いでいる状態で現れ出る。頭上に浮かぶ巨大な香炉は彼自身を照らす灯火の役目も担っているように映った。
 しっかりと此方を見据えているのを確認すると夢の中では五感は消失していない状態なのだとわかる。何処かもの悲しげな笑みを浮かべる相手を見るに歓迎の雰囲気ではないのだが、こうして対面しても拒絶の意思は伝わってこないのは結果としては良いのかもしれない。
「…あれだけ人がたくさんいるのに、あなたはこんな退屈そうな場所で何をしているんだ?」
「ぼーっとしてるだけで特に何もしてないよ」
 緊張感が欠けているあまり当然のことように捉えてしまいそうな返しをしてくる。所謂、そう、例えば昼下がりに彼が庇で茶を嗜んでいて私が尋ねてみたら「お茶飲んでるんだよ」と返事をされているような――そういう感覚だろうか。
 彼らしいと思考を一蹴してしまえばそれまでのこと。それでも閉じ籠もっていることに対しては、彼なりの頑なな想いのようなものが感じ取れた。
「こんなところでぼーっとしてて楽しい?」
「…楽しくはない、と思う。何も見えてこないし、聞こえてもこないから」
「じゃあ、歩ければいい。歩いていればいずれ景色だって変わるかもしれない」
 此方の言葉に尋さんは「それは……」と何か紡ごうとしたけれど結局口を噤んでそれ以上続かなかった。
 彼の髪から発せられる香りは彼の感情に左右されるものだが、この世界では一定して変化していない。現世では忙しないくらい変化が生じているだけあって妙に感じてしまった。
 尋さんはただ、この場所から動きたくないだけで歩みを自ら止めている。嗚呼、またわかりたくもないのに理解してしまったような気がする。
 他者の余計なものなんて抱えたくないし、進んで首を突っ込んで厄介事に巻き込まれる何処かの陰陽師の様に、ましてや己の狂気をひた隠すため善人振るあの人みたいになる気はないのだけれど。それでも、矛盾するように揺さぶられるこの感覚は放っておくには余りにも――。
「尋さんが嫌だって言っても無理矢理連れて行くよ」
「…鬼童丸、さん……」
 か細い手首を掴んで手前に寄せると僅かな抵抗を見せるものの、此方の力に任せて彼が座していた杖から降りる。手首を捕えていた手は尋さんの掌へ移して離れぬようしっかり握り締め、再び闇へと歩んでいく。勿論、高下駄を履いた彼が躓くことの無いように細心の注意を払って。


***


 少々強引な方法であったかもしれないけれど、やっと彼の髪から香る薫りに変化が生じたことに対して少しだけ安堵する。夢であろうと、本人にとって予測のない行動を起こしても、表情や言葉などの表面上の変化だけでは意味を成さないのだから。
「何処を目指してるの…?」
「さぁ。何があるか全然わからないから適当に進んでるだけだけど」
「そうなの…? 迷いなく進んでるからてっきりあるものだと思ってた」
 足を止めることなく進みながらも背後から戸惑いを声色を感じる。五感を失った状態で長い間旅をしてきたあなたがそれを言うのか、と指摘しようかと思ったけど止めておいた。
 普段なら問い掛けを行いつつ此方の思考を読んで話を続けることがあるのだが、夢の中ではそういった力は遮断されてしまうのかもしれない。現世で見る反応が偽りだとかそういう意味では決してないけれど、物事について躊躇いや怖じが生じる姿を見るにこの世界の彼は一段と子供らしい一面が窺えた。
「鬼童丸さんって結構強引なところがあるんだね」
 時折、後ろから突っ掛かりを覚え歩む速さが一定しないことも儘ある。今が丁度その時で、進行するのを止めてから手は離さぬまま向き直ると彼が此方の顔を下から覗き込んできた。
「尋さんに比べたら軽い方なんじゃないかな」
「……あれ。鬼童丸さんにそんな無理なお願い事とかしたかな…?」
「僕にって言うより、晴明を巻き込んだ時は相当だったって話は聞いてる」
「あぁ…、うん。それはそうかも」
 思い当たる節が多々あるのか彼は困ったように眉間に皺を寄せて笑いながら、「途中まで騙してたりしてたから」とばつが悪そうに零す。当の晴明自身は実際、然程気に留めていなかったし尋さんに騙されたことは彼の範疇では許容範囲なのだろうと思う。何しろ、己の為ではなく皆の為に世界をひっくり返すようなことを仕出かすとんでもないお人好しなのだから。
「あの、言われて早々にって思うかもしれないけどお願いしたいことがあるんだ」
 様子を窺うように見上げてくる姿は子供ながらの幼さを残しつつも美しいと思う。それが尋さんだからというのもあるけれど。所謂甘えるような言い回しで頼み事をしてくるのは随分珍しいような気がした。
「……おぶって…、欲しいなって」
 少し口籠っていたのは恥じらいが生じた故なのかもしれないと思うと少し可笑しくて笑いそうになった――とは本人には決して言えない。別に怒るだとかそういう反応はしないのだろうけれど。
「疲れたの?」
「うーん…疲れてはいないけどさっきから足が重いんだ。僕が少しでも迷うと止まってしまうから、鬼童丸さんが僕を抱えるなりおぶるなりしてもらえると助かるというか……わっ」
 彼が言葉を紡ぐ最中、最後まで聞くのも億劫になって一言も入れず唐突に手を腰に添えて引き寄せる。その流れで屈んで相手の膝裏へ腕を回せばされるがままに少し驚いたような声を上げながら彼の体は倒れ、支えるように背と膝裏に腕を差し出し横抱きの状態を維持してどうにか立ち上がることが出来た。
 見た目通りの軽さと言ってもいい。健康的な女人よりもその身は羽のようで不貞な輩に拐かされても不思議ではない。まぁ実際のところ、力は強いしむしろ相手を返り討ちにしそうだからその心配はあまりしていないんだけれど。
 彼が製作した自慢の高下駄は鼻緒に掛けている指の間だけで支えている状態となり、不安定に揺れている。同時に、突然抱きかかえられて動揺しているのか彼の瞳も何時になく揺れ動いていた。
「確かに抱えてもらえるのは有り難いけど……これは少し、恥ずかしい」
「尋さんもそういう感情があるんだ。安心したよ」
「鬼童丸さんは一体僕をなんだと思ってるの?」
 言いながら此方の首に腕を回して身体を安定させるのを改めてから移動を再開する。その後も「夢の中でよかった」だとか、「熙に見られたらからかわれそう」なんてぶつぶつと呟いてはちらりと見つめてきたりして落ち着かない様子だ。
 どうやら恥じらいが生じているだけで特に嫌悪感などは抱いていないらしい。男に抱き上げられれば不満くらいは持たれそうなものだけど。――そういえば以前、尋さんの指を舐ったとき抵抗されなかったのも恥じらったが故なのだろうか。
 あの後、衝動的に尋さんの血を求めて指を傷付けてしまったがそれさえ無ければ再び行っても問題無いということなのか。何を考えているんだろう、僕は。これじゃあ人混みに紛れて尋さんに触れた奴らと一緒じゃないか。
「……鬼童丸さん、険しい顔してる。怒ってる…?」
「さぁ、気の所為じゃないかな」
 苛立つと意図せず表情に出るのは中々の弱点であると思う。それに、本人の前で舐ることを考えて自分勝手に嫌悪に陥っていてこの表情になったなんて言えるわけもない。余りにも愚行すぎて私は存外大したことのない半妖なのかもしれないとすら感じる始末だ。
「むすっとしてたらせっかくのかっこいい顔が勿体ないよ」
「……? 何を言って…」
 不意に彼が顔を近付ける。毛先から甘い香りが漂ってきて嗅いだ経験の無い類だなと矢鱈暢気なことを考えていた、頬に柔らかくて温かいものが触れた。
 それが唇を押し当てられたものであるということを理解するのに少しばかり時を要してしまう。痺れを切らした尋さんは唇を離すと、瞳を大きく揺らしながらぽつりと呟いた。
「これは夢の中だけど…嫌だったら忘れてほしい」
 先程の苛立ちは闇の中へ飛んで消えていってしまったらしく、唐突な出来事に思わず全身の力が抜けそうになってしまった。
 それから尋さんは気まずいのか単に照れ臭さが上回っているだけなのか、一言も発してこない。普段お喋りな分だけ沈黙が多いと余計意識を向けてしまいがちだがこれももしかしたら彼の策の内なのかもしれない。
 晴明はとんでもない御人と引き合わせてくれたものだなと思う。このような言動を取ることを読んでいなかったら後輩以上に尋さんが上手であるということだけれど。
 彼に深入りしたことを後悔しているということはない。だが、まんまとしてやられた気がして納得出来ていないし、現世に戻ったらどうしてやろうかと思案しながらこの世界を乗り切ることに決めた。

 


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