「お嬢様」
 揺らめく月白の世界で慣れ親しい声が微かに聞こえてくる。背後からか真横からなのかは定かではないが距離としては近い。
 それでも、呼び掛けに意図があっても振り向く気にはなれない。いや、正しくは気力が出なくて声を発することすら苦だと感じる。
 足元は覚束ないし、思考も極端に低下しているような気がして流石にこれは身の危険を覚える。だが、靴に絡まる白銀の粉々が鬱陶しくて前進している感覚がまるでない。果たしてこれは現実なのかどうかさえ怪しいものだ。
 夢だろうとなんだろうと、ルクスリアの住民から事前に天候が悪化すると聞いているんだから早いところ帰らないと――そう考えていた矢先、次いで足を踏み込んだ先には何もなかった。
「ニア!」
 劈くかの如く声色で名を呼ばれて瞬時に我に返る。視線の先は遥か下に見える雪の絨毯である。死にはしなくとも相当なダメージは受ける、と思った途端にひゅっ、と背筋に冷たいものが走った。
 あ…と発する 間も無く、体ごと下方へ引き寄せられる――ことはなく、腹部に回された何かが後方へ誘ってくれた。
「この、間抜けが……っ!」
 怒気を帯びた声が真上から降りかかる。物言いがものすごくムカつくけど、迷惑かけちゃったから今回はしょうがないのかなぁ…。
 先へ思考を巡らせる時を与えられる間も無く、ニアの意識は暗い底へと落ちていった。


 やや不規則な振動によってニアは度々覚醒していた。
 鉛そのものにでも変化したのか、と錯覚するほど重い瞼を僅かに開く。ぼやける視界には派手に着飾った、だが決して毳々しいものではなく美々しく彩った彼の姿が映る。間違いなく自分のブレイドであるクビラだった。
 この視覚情報から大凡、抱えられているのだとぼんやり理解できたが彼らしからぬ行動に関しては疑問の言葉ばかりが浮かんだ。
 ――面倒なことを嫌う彼が何故。無理にでも自分をビャッコの背に乗せてしまえば、彼自身の手間は無くなるはずなのに。何故、わざわざ。
 先程の怒気といい、今回の行動といい。ほんの少しばかり、彼の姿が別の誰かと重なって見えた。
 それを本人に告げたら「余とあれを一緒にするでないわ」と不機嫌そうに返すかもしれない。
 考えると面白味は充分にあるが、笑う力を疾うに失った彼女の出来ることは再び意識を沈めることくらいだった。


***


「ニアはこれからどうする?」
 イヤサキ村の岬で、果ての無い水平線を眺めながらクビラは問う。ここはいつだったか、サルベージにはうってつけのポイントだとレックスが目を輝かせて話していたのをニアは記憶していた。
 クビラが小声で風がやたらとまとわりつく、などと洩らせば出現させた王座に腰を下ろしては足を組んで退屈そうに片側の肘掛けに肘をついた。
 ニアはすぐには答えない。いや、答えられなかった。
 あまりにも目の前のことが一杯すぎて、世界の危機をどうにか解決した後のことなんて真剣に考える余裕なんてものなど彼女に在りはしなかった。
「うーん……そうだなぁ…。今度は、クビラの力になるっていうのもありかもね」
 旅をする、という曖昧な答え方は中途半端な気がした彼女から咄嗟に出てきた言葉がそれだった。
 元々、彼が本気で戦闘に参加するようになったのは国の再建を手伝うという約定がある。その前に本腰を入れてクビラに関する逸話を探し当てるのが最優先なのだが、約定そのものを無下にする気など毛頭ない。
 劇的に変化を遂げた世界には多くの問題が山積みであるのも理解しているが、どこかで何か夢中になれるものが無ければすぐに疲弊してしまうような気がした。
「やっと、余の王国再建に向き合うと」
「そういうこと。いいでしょ? それともアタシじゃ不安?」
 彼のことだから即答に近い速さで返してくるかと思いきや、何を考えているのか視線は宙を漂ったまま暫く沈黙の状態が続いた。
 大した時間ではないのに、それが妙に長く感じて不安を募らせる。体感的にやや長めの間を置いてクビラは一言、
「不安はない」
 ――とだけ答えたっきりでそれ以上の答えはなく、「みなさん、ご飯の準備が出来たから戻ってきてくださいもー!」というハナの声に従って話は唐突に終わりを迎えた。
 先程の物言いは"されども不満はある"――そんな風に捉えることのできる言葉だ。
 彼のその対応が、なんだかこちらの気持ちを見透かしているようでニアの心にちくりと鋭い痛みが走った。
 嘘はない。協力したいと思っているのは確かな事実。だが、自分の後先を考えることを拒んでその場凌ぎの返答をしてしまったのも偽りのないものだった。
 もやもやが胸に漂っていたせいか、その日の献立が何だったのかあまり覚えていない。


***


 目が覚めて早々、ニアは自分のブレイド達から随分と心配されていたことを知って申し訳なさと有り難さが募りぎこちないながらも礼を述べた。
 ビャッコから聞いた話によれば、五日ほど寝込んでいたらしくルクスリアの流行り病であると医師から診断されたという。雪原で意識を失って以降の記憶はからっきしであるニアにとって五日も経過していることに驚愕したが、マンイーターである自分がこうして病に伏したことが何よりも驚きだった。
 ただ、人の症状と異なって比較的軽度であったのと潜伏期間がほぼ存在せず発症したのもあって薬を飲んで安静にしていればすぐ完治するとのことらしかった。
(何の為にここに来たのかよくわかんなくなっちゃったな……)
 宿屋のベッドの上で天井を眺めながらニアは心の内で自責の念に駆られ、ブランケットに潜り込んで猫のように体を丸めた。
 ルクスリアに足を運んだのは文献を調べたいというクビラの申し出があったからだ。以前は各国へ赴くのに雲海を渡っていたが、大陸が繋がった為に陸路での経由が容易となったのは金銭的にあまり余裕がないニアとしても有り難かった。
 ただ、道中はどうしても人の手が加わっていない故に整備されていないものだからそのことでクビラが文句でも言ってくるんじゃないかという予想は外れ、存外大人しかったのは彼女としても新鮮だった。
 着いた矢先、偶然にもルクスリアで病に伏している住民を多く見掛け、人手不足の中で医師の手伝いということで薬の材料を採取しに雪原を探索しに出てこのザマなのは今更語るまでもない。
 手伝いどころか迷惑を掛けてしまった上、五日も経っているとなると恐らくクビラも自分だけで文献を探し始めているに違いない。
 あのイヤサキ村での、唐突に話が終わってしまって聞きそびれたことに関して改めて話せる機会だと思っていたのに自ら無下にしてしまったのが悔しい思いである。いや、正直こうなっても聞きたい気持ちは少なからず存在する。半面、傷付くのを恐れてもいるのだけれど。
 ――こんなお荷物状態なドライバーっているのかな。
 善意という名の自己満足によって手間をかけ、マンイーターのくせに人間の病にかかって寝込み、自分のブレイドからは間抜けと罵られて散々である。罵倒に対しては反論する余地もないから悲しくて仕方がない。
 病気になるだけでこんなに心細くて寂しいのか。自分はいる意味なんてあるのかとかそんなことすら考えてしまうのか。自由でいいと理解しているはずなのに、こんな状態になって漸く自分から枷を作っていると気付いてしまうじゃないか。
「虎が猫のように丸まっているのか」
 こういう時に限ってタイミングよく現れる高飛車な男。足音なんて聞こえないくらい考えることに没頭してたらしい。もしくは、不調からまだ呆けているせいもある。
 今回は控えめなのか、普段よりもやや穏やかな声色で、
「ニア」
 と、呼んだ。
 雪原で聞いた彼の切羽詰まった呼び声が頭に過る。あの時、クビラが支えてくれなければクレバスの底へ落ちて大怪我を負っていたかもしれない。そう思うと、寝たふりよりも顔を合わせたい気持ちが強くなった。
 ブランケットから顔を覗かせると、ベッドの真横に置かれた椅子に腰掛けていた。肩や腕の装飾、襟を外した彼の姿は普段のきらびやかさとは違う印象を与える。
 首もとの小さな王冠に填め込まれたコアクリスタルが一際目立つのだ。いつもは自然と装備に目に向けてしまうが、こうして見ると強い輝きを放っているのだと気付かされる。
「ごめんね、色々迷惑かけちゃって…」
「詫びと礼なら他の者達に言うがいい。特にムスビとビャッコは付きっきりでお主を看ていたからな」
 ――まぁ、今は別室で休んでいるから無理だろう。と彼は付け足す。それから他のブレイドらは引き続き医師の手伝いや病人の看病などを率先して行っていると適当に説明も入れてくれた。
「そっか…みんなお節介だからなぁ……でも、ちょっと嬉しいかも。後でちゃんとお礼しなきゃね」
「そう思うなら後でハナビの手料理でも食らうがいい。ニアの為に作ったものの、病人に辛いものは駄目だと医師から言い切られて少々気を落としていたからな」
 数秒後には元に戻ったが、とクビラは小声で溜め息混じりに吐いた。
 なんとなく言葉だけで彼女の様子が想像できてしまい、ニアは苦笑いを浮かべる。ハナビの料理は激熱か激辛なものばかりで、とても病で寝込んでる者に勧められるものではない。癖になる辛さであるし、料理そのものが美味しいのは間違いないのだが強引に食べさせられることがなくてよかったと少し思った。
「クビラは食べたの?」
「うむ、業火タルタリ焼きなるものをな。余の他に暑苦しい男とむさ苦しい男も食べていた」
 クビラの言う男達はグレンとヂカラオのことである。男に対してやや扱いが雑になってしまうのか名前ですら呼ばないことが多いのはお馴染みだ。
 それにしても何度か聞いた覚えはあるが改めて突っ込みどころが満載の料理だな、とニアは心の中で囁く。タルタリ焼きで業火とはどれほどの火力で焼いているんだろう、なんて野暮なことを本人に聞いても大雑把な説明が返ってきそうだと考えを巡らせるだけで終えることにした。
「クビラもありがとね。落っこちそうになったアタシを助けてくれたし」
「…………」
 唐突に相手が反応を示すことを止め、それまでの緩い空気はどこへやらで瞬く間に静寂が襲う。表情を見ても変化は微々たるもので読み取ることができなかった。
 説教でもされるのだろうか。だとしたら、今回は自分に非があるのだから甘んじて受けるしかないのだと自然に受け身の考え方で先へ向かってしまう。
「余は伝えたではないか。何度も」
 彼の掌が頬に触れる。火を司るクビラの手は随分と温かく、レックスやメレフとは違って大きく、けれどもしなやかで、大人の男の人の手だと感じられた。
「無理はするな。いつでも助けられるわけではないのだ、と」
「うっ…!ごめん……気を付ける」
「ならばよい。余とて毎度お主に気を配っているわけではないのだから、ブレイド達ではなく自分を守ることに集中せよ」
「それはそれで、気になっちゃうんだけどなぁ…」
「…であれば、もう少し気を楽にして受け止めておけ。まったく難儀な性格をしているな、ニアは」
 辛辣な物言い以上にぐっさぐさと胸を抉るように刺さり、ニアの心情が表れたかのようにへなっと耳が垂れる。耳を含めて巻き込んで撫でてくる手付きはえらく繊細で戸惑いが生じ、あう…と変な声が出てしまった。
 あの日――夜空の下で励ましてくれた日以来、彼はこうして元気がないとき頭を撫でてくれる。それがむず痒くもあり、有り難くもあった。
 レックスへ向けていた感情に似た、けれど少し違う好意のようなものを少なからず抱き始めていることにニアはまだ気付いていない。


***


「そういえば、ニアちゃんが倒れた時に一番慌てていたのはクビラさんでしたねぇ」
 夜更け前。ニアが眠る部屋の隣室でムスビは寝入っているハナビやウカのはだけたブランケットを直しつつ、ふと思い出したようにクビラに声を掛ける。他のブレイドが寝入っている為、彼は自分に向けられたものだと理解したものの、文献を読み耽っているのもあって内容に関しては反応を示さないように努めた。
「…そう、だったか…?」
 どれだけ本人が平静を装うと努力しても、それを無に帰すように動揺が声に表れて言葉が濁ってしまう。
「はい。ニアの容態はどうなのだ?!問題はないのか?!って、すごい形相で医師の方に問い詰めてるときなんておじいちゃんの目が点になってたくらいですよ」
「ビャッコ、の……」
 クビラ本人にはそこまで狼狽した覚えがない故に、衝撃が大きかった。
 医師に問うたのは確かである。ムスビの言うおじいちゃん――ビャッコがそのような反応をしていたなんてことも知るはずもない。断定しようがないが、周囲の様子なんて目に入らなかった。
 ビャッコがそうなら他のブレイドもそれに近い反応を見せていたのだろうか。そう考えると、周囲がそのことに対して自分に何も言わなかったのは要らぬ気遣いをしていたからか。
 それを自分で自分に突き付けて初めて理解できるのは、自身が感じていた以上に狼狽えていたという事実だった。
「クビラさんは周りのことが気にならないくらいニアちゃんのことが大好きなんですね」
「そんなこと、余は知らぬ!」
「あら、王国再建の為じゃないところをみるとあながち間違えでもないってことじゃあないですか」
「この女……故意か、故意でやっているのか…?!」
 またも慌てふためている彼の様子を見て小さく笑みを洩らし、
「私はただ、思ったことを言っただけですよ」
 ――と告げ、ムスビはさっさと自分のベッドへ移動すると横になるなり「おやすみなさーい」の一言で会話を強制終了させた。
 他に有無を言わせぬ。そんな印象を与える、彼女にしては珍しい、いっそ清々しいほどのぶった切り方であった。
 それから少し経って、すーすーと安らかな寝息が聞こえてくるのだから大した女だ、と呆れながらもクビラは妙に感心してしまった。
 突発的かつ予想外過ぎる出来事が起きてしまったせいで文献をどこまで読んでのかすっかり記憶が抜け落ちてしまい、ページを捲って戻しては読み直すという作業だけで夜が明けていった。



end

 


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