(やっと抜け出せた…あれほど盛大に祝って貰えるなんて思っていなかったから驚いたな)
 大きな香炉を頭上に浮遊させながら砂利が敷き詰められた道を慎重に進んでいく。高下駄でこの道を歩くのはまだ不慣れで、何度か転びそうになったことがあるからだ。
 晴明さん自慢の庭院の敷地からある程度距離をとっても妖達の賑やかな声が耳に届く。後々、都の人達からやたらと騒ぎ声がするなんて苦情が晴明さんへ向けられてしまうかも、なんて考えると少しだけおかしくて思わず顔が綻んでしまった。
 少し夜風に当たってくる、とそれっぽい理由をつけて宴から姿を晦ます主役が存在するのかと問われたら紛うことなく僕であると断言するだろう。僕が知らないだけで、もしかしたら他にいるかもしれないけれど。
 せっかくの誕生日なのに周囲からおめでとう、という言葉を贈られるだけで矢で体を射抜かれたような衝撃が走ったのが切っ掛けだと言ってもいい。本来、隣にはもう一人いるはずだったのにどう足掻いたってそれが叶わないという現実を突き付けられているようで居た堪れなくなってしまった。
 せっかくの誕生日なのだから笑顔でいなければ損だと思って、上手かはさておき僕の中では比較的穏やかに笑えていた方だったんじゃないかと思っている。晴明さんや神楽さん達のような非常に目敏い人達が出払っているのが幸いだったとも言えるのだけれど。
 五感を取り戻したと同時に、まるで胸に穴でも出来たかのように寒々とした風が流れ込んできて妙にそわそわしてしまう。何処にいても、何を行っていてもこの感覚はどうしたって消えることはなく、常に纏わりついてきて遂には不快感すら覚え始める始末だ。
 こんな状態になってからと言うものの、巡り合わせが悪いのか鬼童丸さんには一度も会えていない。晴明さん曰く、修羅鬼道という世界に彼は封じられているのだとか。僕自身、その世界に迷い込んだことは無いけれどもしかしたら僕にとっては酷な場所なのかもしれないと直感的に感じ取った。
「…でも、鬼童丸さんに会いたいな」
 明確に言葉として紡いでしまうほど心から恋しいと感じている証左であると自分の中で納得する。短いながらも旅の中で知った彼を思い返してみるけれど、募るばかりで寂しさが一層増してしまって解決には程遠い。故に、些細な願望を口に出して夜風にさらさらと流されて終わりになる――はずだった。
「いくら都だからって夜遅く一人で行動するのは感心できないね」
「え……?!」
 覚えのある声の発生源を辿って反射的に振り返る。其処にはまさに焦がれていた鬼童丸さん――ではなく、鬼童丸さんらしき姿を模した小さな紙人形が堂々と立ち尽くしていた。
 その場にしゃがみ込んで紙人形を覗き込む。夢の中で出逢った彼は夕陽のような色をしていたのに、この紙人形は灰色の髪っぽいものを頭部に添えている。でも、確かに声は彼のものであったし間違いはないはず。いくら長い間五感を奪われていたとは言え、感覚自体は衰えてはいないと思う。
 それに、この紙人形から漂うのは彼特有の、強い血の香りがするのだ。
「鬼童丸さん、暫く見ない間に随分小さくなった?」
「仮に小さくなったとしてもこんな姿なら呪いの類だろうね。…尋さんは何も変わってないみたいで安心したよ」
「ふふ、そんなに褒められると照れちゃうな」
 言いながら照れたように髪を掻く仕草を見せると「皮肉言ってるんだけど」と容赦なくつっこまれる。大して意味のない会話ですら律儀に返してくるのを見ると、この紙人形の主は間違えなく鬼童丸さんだと確信した。
 晴明さんの言う通り、彼は本当に修羅鬼道という世界に封じられているのかもしれない。直接姿を現さず、わざわざ紙人形を用いて接触してくるのだから。僕相手に警戒して顔を合わせることを避けるというのは考えにくい。
 あくまで僕が彼に嫌われていたり、距離を置かれていたりしなければというのが前提になってしまうけれど。
「浮かない顔をした尋さんに見せたいものがあるんだ」
「見せたいもの…?」
 言うやいなや、勢いよく鬼童丸さんの紙人形が僕の右肩へ飛び乗ってきた。
 落ちるような心配はないかもしれないけれど、念の為にゆっくり立ち上がれば紙人形が都から離れた聳える山々へ指を差しながら(指というよりも手なのかもしれないけど)「あの山へ行けばわかるよ」とやや曖昧な言い回しをする。それでも何故だろう、不思議と僕の心は急かされた。
 鬼童丸さんのお陰で心に蟠る鬱蒼としたものが知らぬ間に何処かへ吹き飛んでいて、その現状に安堵している自分がいた。
 彼は、というより彼の紙人形は今僕の肩に乗っているけれどいつかの――僕が五感を取り戻す以前、手を引いて導いてくれていた時のことを思い出して無性に心が擽ったくなった。


***


 都から出て山道を入る頃には疾うに陽は沈んでいた。
 幸い満月が照らしているのもあって暗夜に比べたら不気味さは軽減されている。夜の山は何故人が寄り付かないのかなんとなく理解できたような気がした。大概の者は理由がない限り、深い闇には触れたくはないだろう。
 この山に足を踏み入れた経験はないけれど、陰の気が濃いように思える。こんな無防備に歩み続けているせいなのか、多方向から幾つかの気配を感じるのに手を出して来ないのは紙人形とは言え鬼童丸さんの気配を察するが故なのだろう。
「ほら、あともう少し」
 道の傾きが険しくなってきてから随分と経つ。山は魑魅魍魎の住処であるし、木々や花々も多い為に香りが一つに限られるなんてことはない。都や村など人がいる場所にも当て嵌まるものだけれど、そういう場所とは異なってひとつひとつの香りがはっきり改められるのだ。
 人と対話したい僕にとっては少しさみしい場所ではあるけれど、同時に心を落ち着かせてくれる静かさがある。無闇矢鱈と人の考えていることが流れ込んでくることは殆どないのだから。
(…本物の鬼童丸さんは今、どんな表情をしてどんな気持ちで僕と接しているんだろう)
 紙人形が対象である故なのか、鬼童丸さんの心がどうやっても汲み取れないし流れ着いてもこない。それが悲しくて、強風に煽られた草木のように僕の心を激しくざわつかせてくる。
 例えば、僕が此処で小石などに下駄の歯を引っ掛けて大袈裟に転んだとしたら彼はどうするだろう。痺れを切らして「尋さんは危なっかしいね」なんて言いながら姿を見せてくれるのだろうか。間違っても意図して信頼を裏切るような行いはしないけれど、少しだけ――ほんの少しだけ期待してしまう自分が確かに存在しているのだ。
「目的地はここだよ。お疲れさま」
「あ……これって…」
 山道から開けた場所に入ると其処は草木が生い茂っている様子もなく、夜空に浮かぶ月の姿を見て捉えることができた。
 恐らくはこの場所に意味があるのだろうと思う。だから先程よりもゆったりとした速さで進んでいく――と、微かに鼻を擽る穏やかな甘い香りを辿って視線を向ける。目に映り込んだのはひっそりと佇む月の光に照らされた青紫色の花だった。
 陽が沈んでから随分と経過しているため花は侵す者を拒むように閉じきってしまっている。地に膝を着いて顔を近付けてみれば先程と同じ香りが仄かに鼻を刺激した。これは確か、
「この花って、竜胆?」
「うん、そう。竜胆は強い香りを発しないとは言え、道中気付かれるんじゃないかと思って肝が冷えたよ」
 「本当は咲いているところを見せたかったんだけどなかなか上手くいかないな」、なんて独り言ちしながら肩に乗っている紙人形はやや短くて可愛らしい腕を組むような所作をする。この仕草を鬼童丸さんが行っていたらと思うと少し可笑しくて心の内で笑ってしまった。
 疑問に思うのは鬼童丸さんがこの花を探していた理由。わざわざ僕の為に、なんて考えるのは余りにも傲っている。尋ねるほどの勇気が云々、とは無縁なくらい無遠慮な奴だと散々煕に言われ続けていた僕がこんなに臆病になる日がくるなんて思いもしていなかった。
「咲いたところを見てみたいし、せっかくだから朝まで待ってみようかな」
 月の位置は真上。朝を迎えるにはまだかなり時を要する。特に晴明さんから頼まれ事もないし、用事もないのだからのんびりと花が開くのを待っているのもいいかもしれない。
 彼は僕の性格を把握している。故に察してはいたようで、特に驚愕した様子もなく「尋さんならそう言うと思ってた」と言い切られてしまった。
 鬼童丸とは会えなくてもこうして他愛のない話を出来るのならそれでもいい。
 今はただこの束の間の、彼との楽しい時を堪能していたいから。


***


 彼の紙人形と些細な話で盛り上がっているうちに月が少しずつ傾いていったところまでは記憶がある。ただ、自分がいつから泥沼へ引きずり込まれるように眠り落ちたのかは全く覚えが無かった。
 自覚が無かっただけでもしかしたら疲労が溜まっていたのかもしれない。休息なしなんてことはなかったけれど、主に内面的な問題の方が大きいんじゃないかと情けないけど我ながらそう感じ取れた。
(この、温もり……それに香りは……っ?)
 恐らく自分は眠ってしまって、誰かの肩にでも寄り掛かっているような状態。それでも起き上がれないのは体が鉛の様に重くて微動すらも困難であるからだ。
 それでもこの覚えのある香りの正体はなんとしても突き止めたい。そう思ってどうにか瞼を開いた時には汗ばんでいたことも忘れ、声を上げそうになる。上げられなかったのは、寝起きだったからとかそういう言い訳が通用してもいいんじゃないかと思うんだ。
「……鬼童丸さん…?」
「そうやってあなたに呼ばれるのも久しく感じるよ」
 まだ意識が混濁していて鮮明ではないものの、この声色に強い血の香りは本物の鬼童丸さんに間違いない。何故此処にいるのかと尋ねたいけれど、その前にどうしても容姿の変化に目を向けてしまった。
 以前はまだ幼さが残っていたのに今目の前にいる鬼童丸さんは凛々しい顔付きになっている。髪だって夕陽から鈍色になっているし、衣装だって随分落ち着いた色合いだった。
 予想は当然していたのに自分の知らないところで彼が大きな変化を遂げていたことには少なからず衝撃を受けてしまって、それ以上言葉を紡ぐことが出来ない。此方の心中を察してか、鬼童丸さんは目を真っ直ぐ見つめて「大丈夫だよ」と呟けば視線を竜胆の方へ向ける。竜胆の花はまだ、開いていないようだ。
「鬼童丸さんは修羅鬼道に閉じ込められているんじゃないの?」
「そうだね。でも、ただ休んでいるだけで出る気ならいつでも出られる。晴明だって僕が容易に突破出来ることには気付いているんじゃないかな」
 まだ晴明さんと知り合って間は無いけれど、彼の性格を踏まえての結界だというのなら対象を傷付けるようなものではないだろう。敢えて鬼童丸さんが簡単に出入りできるような力で形成したのかもしれない。
 晴明さんや鬼童丸さんの先生はそれに気付いているのか定かではないのだけれど。
「なんだかそれを聞いて安心したよ。会えないんじゃないかと思ってたから」
 「この話を聞いて安心するのは尋さんくらいだろうね」なんて言いながら穏やかに笑う鬼童丸さんは何処か嬉しそうに映る。変化しているところはあっても、変わっていないところも少し改めることが出来て正直安堵した。
 焦がれていた相手と顔を見て話すという行いが影響しているのか、胸が鳥の羽みたくふわっと軽くなって漸く鉛のような重さから解放される感覚を覚える。流石にこのまま寄り掛かっているのも悪いと思い鬼童丸さんの肩から離れようとすれば、不意に腰に手を添えられるとぐっと引き寄せられて更に彼との距離が縮まった。
 突然のことで目を丸くして見上げると、口角を吊り上げて妖しい笑みで此方を見据える彼がそこに在った。
 もしかしてこれが鬼の顔というものなんだろうか。それとも、彼の側面のひとつなのか。そんなことを暢気に考えていると唐突に端正な顔が近付いてきて体が硬直してしまった。
「き、鬼童丸さん……顔、すごく近いよ…」
「こうでもしないとあなたに触れることができないからね」
「触れるって今も触れて……、んぅ…っ」
 拒むような隙を与えて貰えず、彼の唇が頬に触れると擽ったさと心地良さが僕の中で同時に襲い掛かった。
 それだけでも胸が破裂してしまいそうなくらい脈打っているのに、位置を僅かに変えてはちゅっと音を立てて僕の頬に唇を押し当ててくる。鬼童丸さんの唇の感触が、僅かに頬に当たる彼の吐息が言葉では形容し難いほど気持ち良くてもっとしてほしいなんて不覚にも思ってしまった。
「あなたが本当に嫌ならすぐに止めるよ」
 彼の甘い声色が僕の聴覚を支配しようとする。まるで此方の心を見透かしているような感覚に陥りそうになるけれど、多分これは本心なんだろう。
 だって彼は今こうしてる間も何も考えに耽っていなくて、僕の視線を逃さないまま燃えるような情熱的な瞳で捉えてる。
 今日くらいは心から彼に寄り添って甘えてしまってもいいんじゃないかとさえ、考えてしまった。
「…触れてくれるのなら、唇がいい。唇に……」
 此方が言い終える前に鬼童丸さんの唇で塞がれた。
 お互いの唇が重なるだけで柔らかくて、温かくて。充分気持ちいいけれど当然その程度で終わるわけもなく、音を立てて吸い付いたり舌先で僕の唇をなぞったり。その都度、何故か腹部の奥が疼くのを覚えて自らも求めて鬼童丸さんの唇に吸い付いた。
「尋さんって、結構積極的なんだね」
 からかうような彼の言葉にすら翻弄されて頬が紅潮するのを感じているほんの僅か一瞬の間、心地良さに呆けていた隙を突かれ口に舌を差し込まれて中でお互いの舌が絡み合う。生きてきた中で感じたことのない昂ぶりが僕を侵していき、先程から感じている疼きが一層強くなるのを感じた。
 草木を吹き抜けていく風の音も、生き物の鳴き声も聞こえてこない。今の僕の聴覚を支配するのは互いの吐息と貪るような口吸いの音だけだ。
 竜胆の花が咲くのを楽しみに朝を待ち遠しく感じていたはずなのに、今では朝が来なければいいなんて考えてしまっている自分がいた。
 でも、限りがあるから鬼童丸さんを恋しく想うことが出来るのかもしれない。きっとこの時を終えてしまえば再び寂しい気持ちを募らせるだろうけれど、彼がこんな風に埋めに来てくれるのならそれも悪くないんじゃないかと思えた。
「生まれてきてくれてありがとう、尋さん」
 祝言を告げる鬼童丸さんの瞳は、少しだけ揺らいでいたような気がした。


end

 


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