なんてことはない。ただ、食事の為に適当であろうと狩りを行う程の気分が沸き上がらなかった――という言い訳を心の中で繰り返しながら月山習は自動販売機の取り出し口から缶コーヒーを取り出した。
 自分の後ろに人の姿が無いのを確認する。その場で迷うことなく蓋を開け、喉を潤した。苦味が口内に広がり、鼻へ抜けていくと珈琲の香りが一層強まった。
 缶の無機質な感触は未だに慣れない。むしろ、珈琲を自動販売機で購入して済ませるなど今までの自分からは想像し難い行動であると月山は思う。少し前ならば行きつけの店で豆を購入するか、人気作家の高槻泉が通う喫茶店で一息を入れるかくらいの拘りはあるはずなのに一人の存在によって随分食に関することが雑になったものだと己に呆れながら胸が昂っているのが大半を占めていた。
 ――金木研。元人間の喰種。一時期的に鋭さを備えていたものの、元来人の生き死に嘆き悲しみ、お人好しとお節介さは変わることはなく人の為に心身を疲弊させて戦う様は美しく映えた。同時に脆く不安定にも映り、こちらの気を狂わせる。
 彼に近付いたのは間違えなく喰らう目的であったのに、気付けばそれ以上の何かを彼から感じるようになってしまった。レストラン及び教会での一件で彼から信頼を得ることは不可能であると心の何処かで諦めていた分、仲間だと認識された瞬間の衝撃はとてつもないものだった。
 それはたった数日前の話であり、今でも思い返すだけで胸の鼓動が速く脈打つ。数多の言葉があろうと形容するにし難いallegro(昂り)をどう鎮めればよいのだろう。
(僕はカネキくんに何を求めているのだろう。戦友、親友、右腕、剣……fm…)
 今この場で答えが出そうに無い自問を巡らせながら空になった缶を自動販売機の隣に設置されたダストボックスに投げ入れ様に踵を返す。と、右端の建物の角から影がちらりと蠢いた。
 その動きに妙な感覚を覚えて暫し眺めていると、おずおずとした様子で影が出てくる。無意識にカッと目が見開き、見慣れた白髪と眼帯にどくり、と胸が大きく高鳴った。
「カネキくん…?! こんなところで何を…」
 足音を極力立てずに駆け寄る姿に驚愕していると本人は「なかなか帰らないので迎えに来ました」とさも当然のように語った。
 このような経験は今までに無い。数日前の話からHumpty Dumpty(丸くなった)と肌で感じたが、今回は際立っていてこれが現実なのかすら疑心を抱いてしまう。
 夢ならばどうか覚めないで欲しい――それが露骨に顔に出たのか、怪訝そうに眉を寄せながら「何かありましたか?」と彼に尋ねられ咄嗟に話題にしたのは珈琲であった。
「前にカネキくんが美味しいと評していた缶コーヒーを飲んでみたんだけれど、口に含んだ瞬間に風味が広がってとても美味であったよ」
 偽りではない。実際に感じたままの感想を大袈裟なジェスチャーを交えて彼に伝える。それ故に、缶であるのは惜しいと思ったことも包み隠さず告げると彼は同意するように頷いた。
「月山さんもそう思ったんですね。手軽ですぐ買えて飲める強みはあるけど、マグとかティーカップで飲んだらもっと美味しいんだろうなって僕も思っちゃって」
 ――でも、月山さんが飲むなんて思ってなかったから意外でびっくりしちゃいました――と付け足してはにかむ彼に月山習の胸に更なる衝撃が走り自然と胸元に手を添えた。
 自分にこんな笑顔を向けてくれる日がやってくるとは。作戦の話ではなく、ただの談笑が彼と出来るようになるとは己でも考えられなかったのにいったい全体誰が想像するだろうか。
 自分が求めているのはこういうことなのだろうか、と脳裏に過る。それをパズルのピースのように当ててみると、不思議とぴったり嵌まるような気がして徐々に昂りが鎮まっていくのを感じた。
「もしよかったらアジトでコーヒー淹れる練習をしようかと思うんです。あんていくに帰るわけですし……月山さん、よかったら味見してくれませんか?」
 そんな金木研の誘いを受けて断る理由など皆無である月山は秒速で承諾した。


***


 アジトへの帰路を辿った記憶も、到着してからリビングのソファへ腰掛けるまでの記憶も月山習には無い。らしくないほど上がりきっていたと言えるし、夢見心地であったのかもしれない。
 それでも、彼の隣でゆったりした雰囲気で珈琲を味わうこの時間は紛れもなく現実だった。
 アールデコの模様が描かれたティーカップに注がれた珈琲は湯気を立てていて芳醇な香りが鼻を擽る。珈琲を淹れた本人も同じティーカップを使用しているが、少しばかり緊張した面持ちであるのが窺えた。
 それもそのはず、カップもテーブルに置かれたポット含めたティーセット一式は月山個人が独断でアジトに置いておいたもの。値段を口にするような不粋な真似はしないが、金木は価値くらいは理解しているのだろう。故に、傷付けないように集中しているのかもしれない。
 強張るくらいならわざわざ使わずとも普段使用しているマグカップで事足りるはずなのに、何故己にとって扱いにくい物を選択したのか月山は不思議でならなかった。
「そういえば今更だけれど…レディ達は留守なんだね」
 周囲を見ていなかったにせよ本当に今更だな、と内心自分に突っ込む。至って普通の問い掛けをしたつもりだったのだが――ほんの少し、彼がぴくりと体を揺らしたような気がした。
「あ…はい、万丈さん達と息抜きに買い物へ出掛けるって言ってたので…暫くは帰ってこないんじゃないかと思います」
「カネキくんは一緒に行かなくてよかったのかい?」
 戦闘に不慣れなレディの身を考えると真っ先に付いていきそうなものなのに、やはり数日前の件で遠慮しているのか。問いに対して彼はかぶりを横に振ると珈琲を一口啜った後、
「こういうときでもないと月山さんとゆっくりお話しできませんから」
 そう答えた。敵を欺く為に稀に行う猫被りをしていない、屈託の無い笑顔をこちらに向けて。
「完全に信用はできていないんですけど、月山さんの言葉で救われたことがあるから……なんていうのかな、そういう優しさは信頼しているというか」
 ――だから、月山さんが死んじゃったりするのは嫌なんですよね。
 後半、間を置いて吐露した彼は照れでも生じたのか、ふいと顔をテーブルが位置している正面へ戻してやや俯いた。
 それを追うように見据えると、彼の横顔は強張った顔から親しい者らに向ける穏やかな、柔らかい表情へ変化を遂げた。
(ほんの僅かだけれど…なんとなく、理解ったような気がするよ)
 自分が求めているのはなんなのか――。
 気持ちを吐き出したくなる衝動を抑え込むように温くなった珈琲で渇いた喉を潤した。
 冷めても彼が淹れた珈琲は今まで飲んだものよりも美味だと思った。



end

 


ALICE+