彼は景色を眺めることを好む。彼曰く、自分を満足させるような景色はこの世界に存在しないらしい。そんなことを豪語するほど風景に対して理想が高かった。
 口ではああ言いながら、見晴らしのよい場所に訪れればそこから見える広く狭い世界に入り込む――そう窺える機会が何度かあった。
 特に雲海が見渡せる場所では頻繁で、景色よりもむしろ雲海ばかりに目を向けていたように思える。雲海が海となってからもそれは変わらないのだ。
 イヤサキ村で話をしていた時も、彼は確かに海を眺めていたのを記憶に留めている。彼の中でその行いは日常で、ある意味で彼らしさを誇張するものとも言えた。
 アタシは知っている。雲海を――海を見据えているのは遥か昔、一夜で雲海の底へ沈んでいったリジデリアと呼ばれる国に思いを馳せているんだってことを。
 眺めている彼の瞳には何が映っているのだろう。どんな情景が描かれているのだろう。
 アタシは彼の多くを知らないのだからわかるはずもない。同じように果ての無い海を眺めることくらいしかできない。彼はアタシを多く知っているのに。ドライバーとブレイドは対等だと考えていながらこんな調子では堂々と彼のパートナーとは言い難い気がした。
 いつかの、これからどうするかと問われたあの日。その場を凌ぐ返答をしてしまったことを後悔した一方で、彼の力になることは結果的に彼を知るきっかけをたくさん作れると前向きに捉えるようになったのはつい先日のことだ。


***


「レックスのご友人が訪れていると存じていながら挨拶も儘ならず、誠に申し訳ない」
「い、いえ…!アタシ達の都合でこちらに来たのでどうかお気になさらず…」
 レックス達がいない状態でルクスリアの王宮に足を運ぼうとは想定していなかったニアは少し緊張していた。
 彼女に限って単独行動で王宮に用事、なんてことはまず皆無である。今回はクビラの付き添いというかたちで足を踏み入れたわけなのだがどうしてだろう、些細なものだが何か王宮に対して違和感を覚えた。以前よりも少し雰囲気が物々しい気がする。
 王が穏やかな対応であるのに対し、ニアはまさに蛇に睨まれた蛙状態で背筋をぴーんっと伸ばす。無論、王に対してというよりも所謂"こういった雰囲気"がそうさせている。王宮に入ってから強張った表情を貼り付けているニアと比べ、クビラは王座に腰掛ける王が目の前にいても落ち着いた様子なのだから大したものだと半分感心してしまう。もう半分は言うまでもないのだが。
 王の傍らにいる宰相は訝しげな表情でド派手な装束を纏う長身の彼を凝視しているものの、話に介入する気配は感じられず静観を貫くようだ。
 ルクスリアの王とは顔見知りであるとは言え、ただでさえ鎖国を解いて間もないというのに今度は各国が一つの大陸と繋ぎあうという劇的な変化を迎えてしまったのだから、王は多忙の身であるに違いない。だから今回は流石に無理では、と内心諦めていたニアにとってあっさり受け入れられたことには衝撃的であった。
「突然の訪問でありながら快く迎え入れてくださったことに感謝を申し上げます、ゼーリッヒ王」
 クビラが胸に手を添えて深々と頭を下げる。それに続くように隣のニアも軽く頭を下げ、ゼーリッヒ王の「そなたは…」と問い掛ける声を合図に下げていた頭を上げると彼は続けた。
「私の名はクビラと申します。自らが国の王であるという記憶を保有した状態でこのアルストに生まれし者……しかし、遺憾ながら国そのものについては一切記憶を持ち合わせておりません。ドライバーの協力を得て御国の図書館で文献を調べていたのですが、それらしいものには行き当たりませんでした。そこで王宮ならば街に出回っていない古い文献を保管しているのではないかと考えまして、こうしてお時間を頂いている次第です」
 普段の彼、いつかのハナが言っていた所謂"ダウナー感"とやらはどこへ隠したのか。非常に丁重なその姿をニアは一度目にしているが、こういう時のクビラはまったく別の存在なのではないかと錯覚することがあった。
 焦がれているような、寂しいような。そんな気持ちを抱きながら、ニアは二人のやりとりに茶々を入れまいと静かに見守ることにした。
「そうでしたか。クビラ殿、これは失礼を…」
 王座から立ち上がるなり、ゼーリッヒ王は先程の彼と同様胸に手を添えてから軽く会釈する。それから顔を上げ、言葉を続けた。
「我が国ルクスリアの歴史は古いものですが、ブレイドが王としての記憶を持つというのは私の智識にはありません。とは言え、私も王宮の文献全てを把握している身ではございません故…クビラ殿が納得なさるものが果たして在るのかわかりかねますが、それでもよければお好きに調べて頂いて構いません」
 王も普段の言葉遣いよりは随分丁重なもので、それはクビラを一国の王として扱っているようにも見えた。
 王が果たして彼の話を信じているかどうかは見た限りでは判断がつかないけれど、件に関して真摯に対応しているという事実だけはニアもすぐに理解した。
 こういうところは親子だけあって随分似ている、と言ったら放蕩王子はどんな顔をするだろう――ふとそんなことが頭に過った。
「度重なる御厚情、二度に渡り感謝申し上げます。今の世情…大きな変動によって王も多事多忙であられると思いますが、御国のご発展をお祈り致します」
「此方こそクビラ殿のお心遣いに感謝します。本来ならば私自ら案内するのが礼儀…お恥ずかしい話でありますが各国の代表と比べ、国際交流や交易に関して私は片生である故…手に余るのが実情。申し訳ない」
 やはり彼にも思うところはあったのだと内心安堵するものがニアにはあったが、それを踏まえて王様に頼み込むくらい切羽詰まっていることがあるのかという疑問も抱いてしまう。
 自惚れているわけではないけれど、この間の自分が消滅することを恐れていることに関係しているのだろうか。それとも全く別の問題すら抱えていて、それで――。
 ぐるぐると答えの出ない問いを幾度も己の心の内で繰り返す。彼のことで悩むとすぐにこんな調子だから自分でも困ってしまう。深く考えるなと言われても性分なのだから嫌でも時間を必要とするものだとニアは思った。
 そんな中でニアとクビラは謁見の間で見張りをしていた兵士の一人に客室を案内され、「文献をお持ちしますのでお待ちください」と言ったきり中々戻って来なかった。


***


 過去の記憶を断片的に抱えた状態のブレイドが稀にいる。身近にもその存在は確認できていながら、自分はその中の一人に属さないことに対し素直に首を頷けるほど世界の理を許容しているわけではなかった。
 それでも、如何様に他のブレイドと異なる考えを抱いていようと自分は数多くのブレイドの一人。特別な存在だと自己認識していようとも、天の聖杯の前では所詮ただの一ブレイドに過ぎないのだ。
『不満があるの?』
 店のテラス席でアマミツティーを口に運んだ後、あどけない表情でこちらに問う。普段の大人びた姿とは異なって、好奇心を剥き出しにしている彼女からは少女のような幼さを感じることがあった。
『不満、あるわよね。そうでなければ、私にあんなことは頼まないだろうし』
 言葉の先を紡がずとも、眉間に皺を寄せてこちらを見据える物言いたげな表情が物語っていた。
 彼女は自分よりも他人を優先する。それはどんな事柄に於いても。ただ、自己犠牲精神という極端なものではなくあくまで親切やら気遣いなどの域を脱さない程度。これもその内に入るのなら、相当なお節介であることは確定していると言える。
『確かめる術はまったく無いけれど、時々考えることがあるの』
 カップをソーサーに置くと同時に、はたと気付いたように唐突に話を振ったと思えば彼女は頬を緩めて呟く。
『ニアが言っていたわ。アナタがね、ブレイドになる前は王だったって。アナタがブレイドになる前はどんな姿で、どんな性格で、どんな風に過ごしてたのかって話もした』
 その頃のニアとは決して折り合いが悪かったわけではないものの、事毎にこちらの態度に対し随分不満そうな表情を浮かべていたのは記憶にある。故に、己の認識出来ない所でそんな話を広げていたのは正直意外だった。
『……して、余はどのような生を送ったとお主は考えている?』
 問い掛けられることを想定していなかったのか一瞬瞠目する。それから間も無く、表情は柔らかのままにその瞳はどこか悲しみを宿らせているように見えた。
『王だったアナタが死んだ後にブレイドになったとしたら、アナタがブレイドになったのは必然性があったからじゃないかしら』
 軽率な愚問に対して随分と機転の利いた答え方をする――そんな皮肉めいた言葉を投げられるような立場ではない。大真面目な彼女の考えのひとつを受け取ったからこそ、言えなくなってしまった。
 可能性を肯定することも否定することもできず、確信を得られるわけではない。この先、それを求めても手に入る確率自体が他のブレイドと比べて圧倒的に低い。
 赴く先々で既視感を覚えることも無ければ、自分を知る人間にすら出逢っていない。
 以前の自分を知ることに固執せず、鉱石で今のドライバーとの絆を形に残すことができた彼女が少しだけ異なるいと思った。


***


「………?」
 待ち草臥れて眠りに落ちる寸前だったニアと、シックな色合いの日記帳に黙々と文字を綴っていたクビラの元へ大量の書籍が届いてからどれ程の時間が流れただろう。数人の兵士が積まれた本を抱えてぞろぞろと波のように部屋に押し寄せる光景は滅多に見れるものではないなぁと他人事な気持ちで眺めていた気がする。ぱらぱら、とページを捲る音が止んでいたことに気が付いてニアは本の文字列から彼の方へ視線を移した。
 其の心、此処に在らず。そんな印象を抱く。確かに目の先には文字があるのに、存在しないかのような扱いに窺える。彼にしては随分珍しいのではないか――そう思うと居ても立ってもいられず行動したくなって彼女は静かに歩み寄った。
 近付いてみても此方にも動じないし、視線も固定されたままだ。こうならば、と物理的に刺激を与えることを思い付いてページを摘まんでいる手にそっと触れる。やっとのことで此方に気付いたのか、やや見開いた眼で彼女を見据えた。
 それから数秒ほど間を空けてから、ニアと小さく名前を呟いた。
「こんだけの資料を前にして、らしくないじゃん。日記書いてたときもぼーっとしてる感じだったし……なにかあった?」
「………」
 クビラとニアの瞳が交じり合う。彼の澄んだ海の色をした眼に捉えられると胸がそわそわとするのを覚え、奇妙な心地になった。
 何か言いたいことがあるような、そんな空気を肌で感じる。内容こそ予測出来ないものの、直感的に此方が答えにくいことを尋ねるような気がして緊張から背筋を伸ばした。
 今日のクビラは雰囲気が違う。たまに、というよりこの前の件から目に見えて優しく接してくれるようになった。大きな変化だけれど今回感じているものはそれとは異なるような気がする。――それよりも以前から彼は不器用ながら優しくしてくれていたのだから。
 上手くは言えないけど、今の彼はグレン的な表現で例えるなら内に熱いものを秘めてる――そんな感じな気がする。
「……ニアは、グーラの領主にマンイーターにされたのだったな」
 彼からマンイーターという言葉を聞いた時――どくり、と鼓動が一瞬だけ大きく鳴った。
 向き合えるようになってもこの話題を身内から出されると心が僅かに揺らぐ。体に刷り込まれたみたいに弱腰になって望んでいなくとも震え出しそうになる。
 どうにか問い掛けに対して小さく頷けば、彼は本を閉じて積み重ねられた本の山の上に乗せると暫く――十秒前後だろうか。少々長い間隔を置いてから続けた。
「ニアはマンイーターとして、成功例の部類に属するのか?」
 意外な内容だな。それがニアの印象だった。
 人喰いと散々決め付けられ、マンイーターであることに苦しめられて逃げ続ける日々の中で成功だかどうだかを考えようとは思わなかった。
 まさか人に言われて気付かされるとは。それにしたって自分自身のことなのに一切考えが及ばなかったなどと言える訳もなく。途端に羞恥が込み上げてきて、上手いこと言葉が見つからないなりに答えようと必死になってしまう。
「…わ…わかんない。マンイーター自体そんなに多くないから……ただ、力が制限されてたりとか身体が成長しているとかそういうのは特に無い…かな」
 とは言ったものの、脳裏に過るだけでもマサムネやベンケイ、シンという3人も浮かぶ。最もシンの場合は特殊な例故に枠には当て嵌まらない気がするし、マサムネとベンケイに関してはそれほど親しく接していた訳でもないから話題を出すことに対して躊躇いが生まれた。
 マサムネとベンケイはブレイドとして今活動出来ているけれど、マルベーニによって酷い方法で一度殺されている。シンはもう、この世界にはいない。彼も、彼のコアも消滅して存在しないのだ。
 じゃあ、アタシはどうなんだろう。シンのように消滅するのか、それとも――。
「…一人のエゴによって他者の生を狂わせる行いは業が深い。当人が既に亡き者なら尚更のこと」
「……クビラ……」
「それが無ければニアと出逢うこともなかった故…余はその者に感謝もしているが、例え怒りを覚えるなとお主に言われても土台無理な話だろうな」
 言いながらふい、と彼は顔を背けてしまう。やや怒気を含んだ言い回しは、忠実に彼の心を表面化しているからだと思えた。
 合理性を語る彼が感情を言葉として吐き出す行為は意味があるのだろうか。無意識にマイナス寄りの感情を吐露したとするなら、心が痛がっているからかもしれない。
 出来る限りの感謝と詫言を交えて「ありがとう」と伝えると、彼は向き直って泳いだ目で此方を見据えてきた。
「クビラと同調できてよかった」
 続けて言いながら少し照れくさいなぁなどと考えつつ、今度は此方が背を向けるとすぐ真後ろで彼の声が聞こえてくる。先程の怒気を含んだ声色とは異なる、穏やかな、嬉々を孕んだ声で。
 ――それは余の台詞である、と。
 この優しい王様の為にとことん力になってやろうと心に決めた瞬間だった。



end

 


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