薄暗い室で自分と同じ年頃の少女が身悶えて苦しんでいるように窺える。俯せの為に表情はわからない。故に今にも此方に這い寄ってくるのではないかという恐怖もあれば、どうすれば少女の気が晴れるのだろうと親身になって考えてしまう。
 時間だけが去っていく。こうして見ているだけでは何も解決しない。でも、誰にこの事を打ち明ければいいのか迷いが生じてしまうのだ。
 ヤマタノオロチの件が鎮静化して間もないのに三人に持ち掛けて不安を煽るのは気が引ける。かと言って、小白を含めた式神達に話してしまえば最終的に晴明の耳に入ってしまうだろう。
 自分で解決出来れば一番良いのに。それで後々、問題になってしまって結局手を煩わせてしまうのならば早いうちから話してしまった方が気が楽なのだろうか。
 堂々巡りの考えをしているうちに急激な眠気に襲われる。この感覚は彼方の私が目を覚ます兆しだ。
 足音が聞こえる、研ぎ澄まさなければ気付き難い程の小さなものが。少女かと思って眠気を堪えて視線を向けると、其処には先程と変わること無く床に伏せている姿が映った。
 それならば、一体誰の足音なのだろう――。
 正体を確認する間も無く、彼女の意識は現世へ還っていった。

***

 晴明と出会ったばかりの頃と比べると庭院は賑やかになり、今では騒がしくない日が珍しいくらいである。式神達が静かな時は恐らく、庭院を乱して晴明の逆鱗に触れたり別の問題で彼を悩ませたりしてしまったときだろう。
 今日はその静かな日であるけれど、晴明の姿は庭院には見られない。庭には作られた小川と庭池が存在し、ちょうど中間の辺りで一人通れる程度の橋が建てられいる。晴明ではなく、静閑な領域を作り出す人物がその橋の上に在った。
 正しくは、人ではなく神なのけれど――。
「今日は曲水の宴。神楽も祓えば蠱物が落ちるかもしれぬぞ」
 歩み寄るなり、第一声がこれなのだから神様っていうのはお節介なのかもと一瞬頭に過る。彼に見透かされるのは慣れたものだけど、良い心地はしない。
「そうするとオロチも祓われるんじゃないの?」
「私が蠱物の類であると申すのか。不屈の魂を持つ者よ」
 茶化せば恐れ知らずだなと言わんばかりに彼は不敵に笑う。巫女と称してこないだけまだいいかもしれない、と思った。こんな相手でもそう呼ばれてしまうと今でもたじろいでしまう気がするから。
 邪神と呼ばれる彼がこうして会話を交わすくらい現世で大人しくしているのは、力が完全に戻っていないからだと語っていたことがある。正直に言うと信用しきれないのだけど、確かな戦力になっているのは事実で晴明は彼の申し分を聞き入れた。
 博雅や八百比丘尼は受け入れたのかと言えば、気持ちは俄然として疑心を抱いたままだと思う。私もその一人だから雰囲気でなんとなく察することができてしまう。
 彼は歓迎されていないことを理解している。当然ながら、彼からしてみるとそんな些細なこと気にも留めないし、基本的に式神達の意見を聞き入れることもない。例外は多少、あるらしいけれど目にしたことが無いのだから真相は果たしてどうなんだろう。
「五三日、目に力が宿っておらぬままだがいつまで放っておいてやるつもりなのか」
 興味が無さそうに、しかし擬、と此方の瞳の奥まで覗くように見つめてくる。獲物を狙うかのような鋭さを秘めるその瞳は人間の其れでは無く、蛇に近いものに見えた。
 ヤマタノオロチと語っていた"彼女達"とは違う目だと改めて思った。
「仮に放っておいたらどうなるの?」
「どうにもならないだろう。おまえの心が少しずつ擦り減っていくだけ」
 この邪神はばっさりと言い切る。らしいと言えばそうだけれど、もっと腹が立つくらい嫌な言い回しをしてくるかと思えば普通に問い掛けに応えてくるのだからやりきれない。
 それが一番心に突き刺さるのに。解っていてそうしているなら、底意地は相当悪いかもしれない。
「……ただの夢、ってことなのね」
「そう、夢だ。夢だからこそおまえは晴明達に言えないのではないか」
 ――嗚呼、やっぱり神様なんだ。純粋にそう感じる。
 目の前は神はそれ以降、一切発することなく庭院の小川の流れを逢魔が時になるその時まで眺め続けた。
 図星を突かれた私と言えば、返す言葉も見つからず、小川を眺める彼を縁側から見据えてた。
『脆く、儚く、美しい魂。故に巫女達は堕ちてしまったのだ』
 ――おまえも堕ちるのか?
 あの瞳は、心に確かにそう語ってきた。

***

 自身が横たわっていると自覚した時、神楽は同じ夢を見ていると察した。
 室で少女が苦しんでいる。目に映るというよりも、逸らす事が出来ないのだと今更ながら気付く。だからと言って何か行動に移せる訳でも無かった。
 体が全く動かせないと言うことはないのに、何故か微塵たりともそこから動く事が出来ないでいる。私はこれを見なければいけないとすら思えてきてしまうのだ。
 ただの言い訳にしかならない。行動しない理由を適当に付けているだけじゃないのか。じゃあ、どうしたらいいのだろう。弱音を吐けば自由になれるのかな。
(助けて、晴明。助けて、お兄ちゃん)
 その言葉は喉に突っかかって這い出てくることはない。決して紡いではいけない。少しでも"ここ"で私以外の名前を言葉にしてしまえば、巻き込んでしまう気がするから――。
 すると何処からかとん、とん――と静かな足音が聞こえてくる。眠気に襲われると同時に聞こえてくるものが、今回に限ってはっきり意識を保っている状態である。それ故に、普段と異なっている状況には些か不安を覚え始めてしまった。
 いつもなら眠気に勝てず、結局この足音の正体が何者であるのか存じないまま終わるばかり。仮に他の、苦しんでいる少女とは別の少女の足音であったらどうだろう。こちらに意識があると分かれば何かしら干渉してくるかもしれない。
 考えるだけで背筋に冷たいものが走る。これが現実であったなら、情けなくもきっと汗で着物もぐっしょりと濡れているに相違ない。
「……おまえは随分、陰の気が強い夢を見る…」
 聞き覚えのある声に一瞬、何が起きているのか理解が追い付かず"ここ"は何処だったかな、なんて気の抜けた疑問が頭を支配した。
 どうして此処に?――という問い掛けを投げようにも上手く言葉を発することが出来ない。ぱくぱくと口を開閉していると、その間の抜けた行動に気付いた彼は屈むなりぬっと腕を伸ばしてこちらの頭を撫でてきた。
 髪越しに伝わるひんやりとした感触が今は安堵することができる感覚となり得ている。強張っていた体が急に力が抜け始めて、理由も無くほろほろと涙が溢れ落ちていく。止めどなく溢れ出てくる涙で歪む視界の中、彼の方へ視線を向けると彼の掌がそれを阻止するように覆った。
 そこからはいつものように強い眠気に襲われ、記憶が少しずつ途切れていく。これは彼の術によるものなのか。
 そんなことを考える間もなく、眠り落ちる――手前で彼は耳元で囁いてきた。
「どうしておまえの魂は穢れないのだろう」

***

 朝鳥の鳴き声によって目を覚ますと、僅かに開いている御簾の間から体に重ねていた着物の上に日差しが掛かっているのを視認することができた。
 いつの間に開けていたのだろう、なんて暢気に上体を起こしてみる。寝ぼけ眼なことが起因していた、と後々悔やむことになるけれど気配に気付かなかったこともあって一瞬だけ時が止まったような気がした。
「和やかな現世に戻ることができて満足か、神楽」
「……なんで、寝床に…」
 成る程、彼が開けたのか――と直ぐに理由は判明したのだが、そんなことよりも。今大事なことはただ一つ。
「……今、見た…?」
「さて、何のことやら」
 ふい、とわざとらしく顔を逸して視線は庭院の方へ向ける。反応を見て態々こんな対応しているのかと思うとやっぱり腹ただしい。
「……そのとぼけ方、見たのね…」
「見たところで何の情も生まれぬのだから言葉にしたところで仕様が無いのではないか」
「あるの。ある。いろいろ、たくさん……。よりによってオロチに見られるなんて…」
 夢の中で助けてくれた彼は何処へやら。今はただ不貞寝して今日という日が過ぎ去ってくれるのを待っていたい。そういう訳にもいかないのは知っていても、我儘を叶えてくれるなら今すぐそうしたい。
 重ねた着物に潜り込んでいれば外から「晴明ならば問題ないのか?」なんて聞いてくる。傘がここにあるならぶっ叩いてやりたい気持ちになってきた。
(せめてありがとうの一言くらい伝えたかったけど、それを言えるのは先になるだろうなぁ…)


 その日、オロチが神楽の室から離れることがなく彼女が諦心で不貞寝に徹していると博雅が駆けつけてやたら心配されたとかなんとか。後に、事の顛末が博雅に伝わってオロチに決闘を申し込みそうになったという話はまた別の物語である。


end

 


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