人間というものは実に厄介で、実際に目撃したわけではないのに誰かから聞いた話を鵜呑みにして恐怖に慄く。また別の誰かに広げて無意識の内にしがらみを与えてはやがて、見動きが取れなくなった者は強引に煙を立たせて悲劇を招いてしまうことがある。
 真実が透明であるとは限らない。それでも探らずにはいられない。所詮、他人事だから深入りすることが出来てしまうのだ。
 もし己に降りかかったものであれば悠長に構えて愉しめるだろうか。否、最早この考え方が既に他人事なのだろう。

***

 幼子の啜り泣く声が夜な夜な聞こえるという。その様な在り来りな話を道中に出逢った行商人から聞き、件の村まで遠路遥々足を運んできたものの今更ながら大切なことを思い出した。
 これが幼子の声を真似ていただけの屈強な妖だったら流石に自分だけでは手が負えないのは明白である。陰陽師の屋敷に立ち寄って一言告げていけばよかったと思いながらも実行には移さなかった。
 村外れに住む老夫婦に件の話をしたところ、嫌な顔どころか快く寝床を貸してくれるという申し出には感謝してもしきれない。いずれ御礼をする為にも正確に記しておかなければ。
 名もない海辺の村、其れがこの村である。村人の数も少なければ村自体規模が大きいわけでもない。海が大荒れになればひとたまりもないだろう。どうやら他に行き場の無い者たちが集って村を作り上げたようで、村人の訛りが各々異なっているのがその確たる証左だった。
 不思議なことに村全員、件の声を聞いているらしい。老夫婦曰く、決しておどろおどろしいものではなく、悲しげな、聞いていると心が痛んでくるような声であるのだと言う。然し、この村に幼子もいなければ赤ん坊もいない。泣き声がするのは決まって逢魔が時の海岸付近で、実際に様子を足を運んでも其処に幼子の姿は無いそうな。ならばこれは妖の類ではないか、ということだった。
 妖の問題を妖で、と言うのは実に滑稽にも思える。問題解決に訪れたわけでは無く、こちらとしては声の正体を探りたいだけなのだが。念の為に自分は妖であることを老夫婦に告げると、危害を加える類のものには見えないという実に率直な言葉が返ってきたのだった。
 この老夫婦は意外と相手を見ているらしい、などと失礼ながらも感心してしまった。


「う……うぅ……」
 床で横になっていると微かに泣き声の様なものが耳に届き、上体を起こす。音を立てないように立ち上がると簡易的な仕切りの間から老夫婦の様子を除くと二人とも静かに寝息を立てていて起き上がる気配は無かった。
 家屋から出ると声はより鮮明になり、話に聞いていた通り海岸の方から啜り泣いている様である。然し、村人全員声が聞こえると言っていたのに対して誰一人として家屋から出て来る者がいないのは不自然な気がした。
 考えられるのは、村が普段と異なっているが故に生じている現象。端的に言ってしまえば、部外者――妖である自分だけが聞こえる波長で干渉しているのではないか。何かを求めて呼び掛けているのだとすれば、想像している程脅威な存在ではないのかもしれない。
 灯籠要らずである程の月の光が照らし出している夜道を歩き、海岸へ辿り着くと其処には何かが居た。蹲りながら泣いている子供のようだった。
 姿は何と表現すればいいのか。初見で見る印象としては、魚に最も近い。とは言え、魚には然程詳しくない為に種類はてんで解らないわけだが。
「君が夜な夜な泣いている声の主みたいだね」
 声を掛けながら歩み寄ると小さい背中はびくりと跳ねる。近付いてから気付いたのだが、美しい曲線を描いた背中で頭部に括っているのは本人よりも一回り大きい何かの頭の骨のように窺える。これが魚の頭だとするならどれ程の大きさになるのか、などと今の場には相応しくない疑問が浮かび上がった。
 ゆっくりと振り返るその顔は瞼こそ閉じていたものの、悲しげな表情を浮かべている。こちらに対して警戒心を向けていないようで、どうやら敵意は無いらしい。波打ち際で佇む相手の隣にまで着いて腰を下ろす。逃げる様子は無かった。
「お兄さん、誰…? 人間じゃないのは、なんとなくわかるけど…」
「僕は書妖。見聞を広める為に方方と旅する者…と言えばわかりやすいかな。君の噂を聞いてこの村に来たんだ」
「うわさ……?」
 短い刻の内に聞き回った内容を端的に伝える。時折、言葉の意味を理解出来ないのか唸る場面が幾度か見受けられたところを見ると学問には疎そうに思えた。妖なのだから学ぶ場が少ない為に当然と言えば当然なのだけれど。
 「ごめんなさい」とか細い声で謝意を示す姿は純粋な子供そのものである。最も、其れは村人に向けるものである為に僕自身は反応し難いもので「迷惑そうにはしていなかったら大丈夫じゃないか」と気休め程度の言葉しか投げられなかった。
 事実、村人は子供の身を案ずる親のような、そんな表情を浮かべている者ばかりであった故に間違いでもない。
 それよりも個人的に気掛かりなのは、動機である。
「君はどうして泣いていたんだい。何か理由があるんじゃないのかな」
「………」
 彼はこちらの言葉で顔色を一層曇らせて黙りしてしまった。
 どうにも言い難い訳らしい。敵意の無い子供の妖が正体だと判明したという目的は達成した為、無理強いするのも僅かに気が引けた。
 注意は促したものの、自分がこの村から離れても解決しない限りは恐らくまた夜な夜な泣いてしまうのではないか。そんな人間らしい、情を抱いてしまったのか定かでは無いが何故か妙に心に突っかかりを覚えてしまう。
 ただの一介の妖に解決出来ることなんてものは限定されてくる。万事――とはいかずとも、我ながららしくないと自嘲しながら一つの案が浮かんだ。
「もし、君が良ければ頼みたいことがあるんだ」
「…頼みたいこと……?」
「難しいことじゃない。実は――」

***

「やあやあ、この前の。あれからあの村には行ったんで?」
「もちろん。そうしたら本当に幼子がいたからね、噂は本当だったよ」
 山道を進んでいる中、偶然出逢ったのは件の話を教えてくれた商人だった。
 淡々と顛末を語れば商人はぎょえー!なんて驚嘆の声を上げる。こういう反応をする者がいるから人と話すのは楽しい。と言っても、子供に出逢ったとは伝えても妖の子供であることは伏せていたわけだけれど。
「それでその子供はまだその村に…?」
「別の村へ案内したから村にはもういないさ。結局のところ、どうして泣いているのかは聞けず仕舞いだったけれど」
 合間に合間に偽りの情報を入れ込んでも商人は「そうですかぁ」と残念そうな、安心したような表情を浮かべた。どういった意味で安心しているのか尋ねてみたい気持ちを抑える。村にいると告げてしまえば好奇心に駈られた者が目撃して悲劇的な結末になりかねないのだ。
 少しだけ申し訳ないと感じながら、猫車を引きながら山道を下っていく商人に別れを告げた。また何処かで出逢う可能性があるのだから名前くらい尋ねてもよかったかもしれない、と思った頃には商人の姿は見えなくなっていた。
 またあの村へ足を運ぶのだから出来るだけ、無関係の者には伏せていたい。あの子と妙な約束を交わしてしまったから。


『僕はこの村から離れるけれど、またここへ訪れた際にこの浜辺の貝を集めていた欲しいんだ』
『貝を集めるだけでいいの?』
『ああ。貝合せという遊びがあってね、お互いに貝を見せ合ってどちらが珍しい貝かって決めるものなんだけれど…僕はこの近辺はあまり探索していないからどういう貝があるのか気になっているんだ』
『そんな珍しい貝、あるかわからないけど…お兄さんが来るまでに探してみるよ』
『ありがとう。僕も遠方の浜辺へ足を運んだから探してみるから楽しみにしているといい』
『うん……わかった。貝を集めておくから、お兄さんも集めてきてね』
 約束だよ、と指切りでも交わそうかと小指を差し出すと彼は不思議そうに首を傾けて見様見真似でおずおずと小指を絡めた。
 これで少しでも悲しい気持ちが紛れればいいなぁ、なんて考えている間に険しい山道を抜けて平地に辿り着くと書妖は次の目的地へと足を進めていった。



end

 


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