私は相模国サーバの審神者だった。初期刀は加州清光で、初鍛刀は秋田藤四郎。私が頼りないせいか、二振りとも他の個体と比べるとしっかりしていたように思う。
 運も実力もない審神者で、就任から2年が経ってもいない刀の方が多かった。けれど、刀剣たちとの仲は良好で、新顔を迎えられないことの罪悪感を、彼らはいつも「気にするな」と笑い飛ばしてくれた。そこには、主と従者という関係だけでは収まらない、確かな温もりがあった。それが、戦績もあまり良くなく、同期の中でも落ちこぼれであった私の唯一の誇りだった。

 だが、ある日、いつものように自室で目を覚ました私は、その全てを失っていた。
 それは、私の就任2周年を祝う宴が開かれた翌日であった。2年間で積み上げたものは、まるで最初からなかったのように消え失せていて、惚ける私の前に、見慣れた獣が鎮座していた。

「はじめまして、私はこんのすけと申します」

 私がそれを聞いたのは、二度目であった。
 これは歴史修正主義者の仕業か、はたまた政府か、私には何もわからなかった。わからないまま、全てを失っていた。

 今の私は、武蔵国サーバの審神者である。




 その審神者が優秀な主であることは、本丸の誰もが認めていた。
 これまで、戦績に傷をつけたことがない審神者の実力は政府のお墨付きで、定期的に行われる審神者会議には新人にも関わらず特例として呼ばれることが多かった。
 本丸の刀剣たちは、そんな主を誇りに思っている。だから、刀剣たちは修行に出て、審神者のためにもっと強くなる気でいた。そのための条件はとうに達してしていて、修行道具だって余るほどあった。あとは審神者がその背を押すだけ。だが、肝心の審神者は未だ誰一人として修行に出したことがなかった。

「なあ大将、頼みがあるんだが!」
「だめです」

 なんでだよ!と、もう何度目かもわからない厚の絶叫が本丸中に木霊した。それを聞いた他の刀剣たちは、またやってるよと呆れながらも笑った。毎日最低一回は、厚は審神者の部屋まで来て修行のお願いをする。そして、審神者がそれを一刀両断する。この一連の流れはもはや定番と化していた。
 修行に出られる練度に達した刀剣たちは、皆等しくすでに一度断られている。そんな中、厚だけはめげずに何度も頼みに来てはまた断られてを繰り返していた。

「まだ懲りねぇか、厚」

 今日も見事に玉砕し、気落ちした様子で部屋から出てきた厚に、薬研は揶揄うように話しかけた。厚はどちらかと言うと一人になりたい気分だったが、少し早足気味の厚に合わせて廊下を歩く薬研の姿に、これは無理なやつだと早々に諦め、厚は渋々と口を開いた。

「だって悔しいだろ、理由も分からないんだぜ?」
「そうさなぁ、まぁ、今に始まったことじゃねぇが」

 薬研が修行に出たいと言った時も、審神者はさっきのような調子で断った。理由も知らされず拒否されたことに、どちらも納得はしていなかったが、薬研の方はとっくに諦めていた。練度が上限に達しても審神者は相変わらず自分たちを戦場へと送り込んでくれたので、戦場育ちの薬研はそれで十分だと、自分の中で折り合いをつけたのだ。

「二人とも何の話?」

 執務室から離れた先の廊下で話していると、乱がやってきた。修行の話だと薬研が簡潔に説明すれば、それだけで全てを理解したように乱はあぁ、と呟く。それくらい、厚の修行の申し出は恒例のことであった。

「懲りないね、厚」
「なっ」
「二人してうるせぇな、頼むくらい俺の勝手だろ」
「でも山姥切さんも断られたんだよ?いくら初鍛刀とはいえ、厚だって難しいと思うけどな〜」

 この本丸の初期刀は山姥切国広で、初鍛刀が厚藤四郎だった。だが山姥切も厚も、その肩書に特別なものは抱いていない。審神者は就任した日から近侍は日替わりで変えていたし、本丸の誰かを特別視するような言動も取ったことがない。いつだって審神者は、刀剣たちに対して平等だった。

「そもそも、主さんが修行に行かせたいと思うくらいの人って、誰だろう?」

 だからこそ、その乱の疑問に応えられるものはいなかった。

「さぁな、そんなの、本人にしかわかんねぇだろ」
「えー、でも知りたくない?」
「どんだけ探っても、腹の底までは見せてくれない。俺らの大将は、そういうお人だよ」

 やけに達観したような薬研の言い分に、乱は黙り込んだ。それは、何度も思い知らされたものだった。出会った頃から、審神者は自分たちとの間を鉄の壁で隔てていた。それは審神者が自分の領域へと踏み込ませないために作ったもので、刀剣たちはその意図を汲み取った上で、その壁を見ないようにしていた。当然、厚もその存在には気付いていた。けれど、厚はその壁の向こうにあるものにも気付いている。それは、主が厚を見るとき、たまに厚ではない誰かの影を追っていることだ。だから厚はその壁を壊そうと奮闘している。審神者にとっての厚藤四郎は自分の他にいないだと、その事実を、審神者にも気付かせてあげたいのだ。

 それからまた厚は何度だって審神者に修行の話をして、何度だって断られた。繰り返されるその無意味な問答に、ずっと呆れていた刀剣たちも厚の情熱に負けたのか、やがて応援するようになり、執務室の前には野次馬の如く刀剣たちが集まるようになった。

「何度言われても、行かせることはできません」
「だからなんでだよ、それを言ってくれないと諦めようもないんだ」

 その日の厚は、いつもよりも頑固だった。いつまでも理由を明かさない審神者に、いい加減痺れを切らしたのだ。言ってくれるまで動かないと、座布団の上であぐらをかけば、審神者は初めて困った顔を見せた。

「……行かせる理由が、ないからです」

 そして、観念したようにぽつりと呟いた。執務室の前で騒がしくはしゃいでいた刀剣たちも今は黙って審神者の話に耳を傾けている。

「厚は今のままでも十分強い。厚に限らず、それは、他の刀剣たちも同じことです。厚が練度の上限を迎えることにより自分が戦に出られなくなることを危惧しているのなら、それは杞憂です。私は厚の成長が止まっても変わらず戦場には送り出しますし、現にそうしているでしょう」

 それは最もらしい言い分だった。実際に、外の野次馬共の何人かは納得しているだろう。けれど、厚にはそれが審神者の本心でないことなどわかりきっていた。

「極なんて目指さなくても、厚は強い。みんなもそれを認めています。それで、いいではありませんか」

 諭すような審神者の声に、厚は吠えるように叫んだ。

「それじゃ、だめなんだ!」

 力いっぱいの大きな声が、静かだった執務室に響いた。駄々っ子のようなその言葉に、審神者はぱちりと目をまばたかせる。通常、厚という個体は聞き分けのよく、粟田口の中では比較的大人びていて頼りになる短刀であった。少なくとも、かつて自分が顕現させた厚藤四郎は、そのような性格をしていた。
 だが、思うとこの厚藤四郎は少し強引で、中々に諦めが悪いところがあった。そこでふと、審神者はかつての厚藤四郎とこの厚藤四郎が全く違う別人のようであることに気がついた。

「強いだけじゃだめだ!俺が一人でも大将を守れるように、大将が、俺の知らない誰かと俺を重ねないように、見違えるくらい、俺が強くならないと、そうじゃないと大将は、」

 戦闘でも見たことがない切羽詰まった表情で、厚藤四郎はまた叫ぶ。

「大将は、俺を見てくれない!」

 ぼろりと、ついに厚の目から涙が零れ落ちた。
 その言葉は、まさしく図星であった。審神者は二度目に立ち上げた本丸の刀のことなど、誰一人として気にかけていなかったのだ。どれだけ今の戦績が優秀でも、当時は顕現させることができなかった刀が揃っていたとしても、審神者の大切なものは、かつて相模国のどこかにあったあの本丸だ。
 仮にこの本丸か相模国の本丸、どちらかを選べと言われたら、審神者は迷わずこの本丸を捨てる。当然だ。いつかその選択をするために、審神者はなるべくこの本丸に思い入れをもたないようにしてきたのだから。
 だが、厚藤四郎は、そんな審神者の意図を無意識に読み取り、そして、それをどうにかしようと足掻いた。
 審神者は、この本丸か相模国の本丸なら、まだ相模国の本丸の方が大事だ。だが、かつての厚藤四郎と今、目の前で自分こそが審神者の刀であると訴える厚藤四郎では、目の前の厚藤四郎に軍配が上がった。それに悲しいやら寂しいやら嬉しいやらと、わけのわからない感情が一気に押し寄せて、審神者はみっともなく声を上げて泣いた。厚藤四郎は溢れ続ける自身の涙は拭いもせず、泣きじゃくる審神者の背を摩った。
 審神者の泣き声を聞いて、執務室の前にいたものたちが一斉に部屋へと入ってくる。皆、困ったように審神者を慰めては、その騒ぎを聞きつけたものたちがまた一人、また一人と狭い執務室へと集まってくる。人が増えるごとに、審神者は一層声を大きくして泣いた。
 かつての本丸を塗り替えた存在は、まだ、厚藤四郎だけだ。けれど、いつの日か全てが覆るときが来る。その時が来たら、審神者が初めて修行に出すのはきっと厚藤四郎だろう。
 審神者はその日が来ることを、恐れながらも待ちわびている。

 これは、相模国から武蔵国の審神者になってから、もう三年が過ぎ去った春の出来事。
 この日、止まっていた時計の針が、今、ひとつ進んだ。
いつか残滓になる日まで