※スカウト!エキセントリックのネタバレがあります
彼は突然、私の前から姿を消した。
といっても、それは失踪とかそんな物騒なものではなくて、『私の知る朔間零』という人物から本人が遠退いただけである。
可笑しな事に、彼は私のことを名前ではなく、嬢ちゃんと呼ぶようになった。更に、その口から「我輩」なんて語られた時はイメージとかけ離れすぎて意識が遠くなった。
弟である凛月くんも、お爺ちゃんのような零さんを少し嫌悪している様子であった。……いや、彼の嫌悪は元からだったかもしれない。
私はというと、確かに驚きはしたものの、嫌悪にまでは至らなかった。
気紛れな彼の事だ。次の日には私を顎で使うくらいには、あの頃の図々しい彼へと戻っているはず。そんな願望にも似た希望は、一瞬にして砕け散ってしまったわけだけど。
「嬢ちゃんには、気になる男なんかはいないのかえ?」
「……え?」
何を言ってるんだと、その時は本気で認知症を疑った。口調だけではなく、頭まで年をとってしまったのかと。
だって、私と彼は一年前から付き合っていて、それなりに嫉妬心も独占欲も強い彼がそんな話を振ってくる日が来るなんて考えもしなかったのだ。
「嬢ちゃんももう高校三年生なんじゃし、彼氏なんかも作ったりしてもいい年頃で……」
「ま、待ってください、零さん!」
先へ先へと進んでいく話に、置いていかれている気がしてならない。いや、絶対にそうだ。ゆるりと、緩慢な動きで首をこちらへと向ける彼と目を合わせながら、私はなんとも奇妙な質問をした。
「私たち、付き合ってましたよね?」
今まで一度だって揺らいだことのないその事実に、初めて疑問を抱いた。本来なら、疑問を抱くまでもないのだ。
結ばれた日、時刻、デートの回数は、全て覚えている。記念日をやたら意識する私に、彼はいつも呆れては面倒クセェと文句を言う癖に、いざその日になると用意していたプレゼントを渡してくれる。
それでもらった髪留めは、今、私が付けている物だ。それは彼も見えている筈なのに。どうして。
「いいや」
──どうして、そんなこというんですか。
返ってきた無情な言葉に、視界が歪む。
その時、彼は一体どんな表情をしていたのか、揺れた視界では、彼の顔を伺うことはできなかった。
***
不器用な男であることは理解していた。
私との関係を清算したことは、彼にとって何か意味があったのだろう。何方にせよ、私が愛した人は今の朔間零ではない。そう言い聞かせては、未だに消せずにいる彼へと繋ぐ連絡先と睨めっこしていた。
当時は頑なに携帯電話を拒んでいた彼だけど、遠くにいても声が聞きたいと強請った次の日にはもう持っていた、なんてエピソードはまだ記憶には新しい。彼との記憶はいつだって直ぐ思い出せるよう、記憶の引き出しの中にしまっているから、そう錯覚しているだけかもしれない。
掛け方は分かんねーから、用があるときはそっちから掛けろ、と。そんな前置きとともに交換した電話番号が未だに彼から掛かってきた事は一度もない。多分、これからも。
早く消してしまえばいいのに、自分の女々しさに嫌気がさす。写真は、あんなにも簡単に消せたのに、何が違うというのだろう。自分の心に問い掛けたいが、その返事は聞きたくない気もする。
電源を落とした真っ暗な液晶には、酷い顔をした私の顔が映っていた。それを見てブサイクだと笑う男がいない事を実感すれば、恨めしい筈の言葉が途端に愛おしく思えてきて、それに少し腹が立った。
──やっぱり、消そう。
そう決意して、電源ボタンへと指が触れた時。
着信を知らせる軽やかなメロディーと共に、液晶にとある文字が浮かび上がった。こんな時に限ってと、顔を顰めたのも束の間、その文字を見て目を瞠った。
『朔間零』
出るか否か、それは何とも浅い葛藤であった。
微かに震える手で通話を繋げれば、スマホを耳元に当てた。ひそひそと遠くで聞こえる声は彼以外の声も含まれていて、近くでは「余計な世話を焼きやがって」と恨むような彼の声が聞こえてきた。それに、まぁまぁと返したのは恐らく渉くんだろう。勝手に推測していると、間近で声が聞こえてくる。
『あ〜、俺だけど……』
「俺じゃ分かりませんけど」
罪悪感が見受けられるその言葉を撥ね除けるように冷たく言い放つ。これは相当怒ってるヨ、と。夏目くんと誰かが話す声が聞こえた。『もう心が折れそうなんじゃが……』『しっかりしてください、まだ星砂糖の効果は切れてませんよ』なんて会話を聞いては、首を傾げる。星砂糖?効果?一体何の話をしているのだろうか。私が疑問を口にする前に、話はどんどん進んでいく。
『……俺だよ、朔間零』
「そうですか。……それで、何の用ですか」
『分かっちゃいたけどその対応は結構クるな……いや、ほら、今日って初デート記念とかいう奴だろ?だから、今日くらいは、って』
あと、星砂糖が……なんてぼやく彼。
さっきからちょくちょく訳の分からない言葉が入ってくるが、結局、何が言いたいのだろう。
「私たち、もう付き合ってないんじゃなかったんですか?」
言葉にするだけでも辛いのに、態々言わせる彼が大嫌いだ。
顔も伺えない通話では、続く沈黙は痛いだけで、もう切ってやろうかと思った時、その思いが彼にも届いたのか「待て待て」と慌てるような声がスマホから聞こえた。
『今日だけって言っただろ〜が』
「……調子良くないですか?」
『今更』
随分とあっさりと告げられたその言葉。悪びれもしない態度は、まぁ、知ってるけど。
溜息を吐けば、軽快な笑い声が電話越しに聞こえてくる。それに、すっかり朔間零のようだと、訳の分からない事を考えた。
『愛してるぜ、名前』
「はいはい」
『おいおい、今日だけなんだから、そこは私もとか言えよな〜』
今日だけだから。だからこそ、言わないんじゃないか。これが電話越しでよかった。そうじゃないと、濡れた袖の存在がバレてしまうところだった。
あの頃に戻ったように、軽口を叩く彼。
声の震えを気にする私は、それに相槌を打つことで精一杯だった。
「おはよう、嬢ちゃん」
次の日、学校に行けば、彼はすっかり似合わないお爺ちゃん口調へと戻っていた。いつもは無視していたその挨拶も、今日は気まぐれに返事をしてやる。
それに、彼は少しばかり驚いた顔をした後、心底幸せそうな笑みを浮かべた。
そういう所は、やはり私の愛した朔間零とよく似ていた。
彼は突然、私の前から姿を消した。
といっても、それは失踪とかそんな物騒なものではなくて、『私の知る朔間零』という人物から本人が遠退いただけである。
可笑しな事に、彼は私のことを名前ではなく、嬢ちゃんと呼ぶようになった。更に、その口から「我輩」なんて語られた時はイメージとかけ離れすぎて意識が遠くなった。
弟である凛月くんも、お爺ちゃんのような零さんを少し嫌悪している様子であった。……いや、彼の嫌悪は元からだったかもしれない。
私はというと、確かに驚きはしたものの、嫌悪にまでは至らなかった。
気紛れな彼の事だ。次の日には私を顎で使うくらいには、あの頃の図々しい彼へと戻っているはず。そんな願望にも似た希望は、一瞬にして砕け散ってしまったわけだけど。
「嬢ちゃんには、気になる男なんかはいないのかえ?」
「……え?」
何を言ってるんだと、その時は本気で認知症を疑った。口調だけではなく、頭まで年をとってしまったのかと。
だって、私と彼は一年前から付き合っていて、それなりに嫉妬心も独占欲も強い彼がそんな話を振ってくる日が来るなんて考えもしなかったのだ。
「嬢ちゃんももう高校三年生なんじゃし、彼氏なんかも作ったりしてもいい年頃で……」
「ま、待ってください、零さん!」
先へ先へと進んでいく話に、置いていかれている気がしてならない。いや、絶対にそうだ。ゆるりと、緩慢な動きで首をこちらへと向ける彼と目を合わせながら、私はなんとも奇妙な質問をした。
「私たち、付き合ってましたよね?」
今まで一度だって揺らいだことのないその事実に、初めて疑問を抱いた。本来なら、疑問を抱くまでもないのだ。
結ばれた日、時刻、デートの回数は、全て覚えている。記念日をやたら意識する私に、彼はいつも呆れては面倒クセェと文句を言う癖に、いざその日になると用意していたプレゼントを渡してくれる。
それでもらった髪留めは、今、私が付けている物だ。それは彼も見えている筈なのに。どうして。
「いいや」
──どうして、そんなこというんですか。
返ってきた無情な言葉に、視界が歪む。
その時、彼は一体どんな表情をしていたのか、揺れた視界では、彼の顔を伺うことはできなかった。
***
不器用な男であることは理解していた。
私との関係を清算したことは、彼にとって何か意味があったのだろう。何方にせよ、私が愛した人は今の朔間零ではない。そう言い聞かせては、未だに消せずにいる彼へと繋ぐ連絡先と睨めっこしていた。
当時は頑なに携帯電話を拒んでいた彼だけど、遠くにいても声が聞きたいと強請った次の日にはもう持っていた、なんてエピソードはまだ記憶には新しい。彼との記憶はいつだって直ぐ思い出せるよう、記憶の引き出しの中にしまっているから、そう錯覚しているだけかもしれない。
掛け方は分かんねーから、用があるときはそっちから掛けろ、と。そんな前置きとともに交換した電話番号が未だに彼から掛かってきた事は一度もない。多分、これからも。
早く消してしまえばいいのに、自分の女々しさに嫌気がさす。写真は、あんなにも簡単に消せたのに、何が違うというのだろう。自分の心に問い掛けたいが、その返事は聞きたくない気もする。
電源を落とした真っ暗な液晶には、酷い顔をした私の顔が映っていた。それを見てブサイクだと笑う男がいない事を実感すれば、恨めしい筈の言葉が途端に愛おしく思えてきて、それに少し腹が立った。
──やっぱり、消そう。
そう決意して、電源ボタンへと指が触れた時。
着信を知らせる軽やかなメロディーと共に、液晶にとある文字が浮かび上がった。こんな時に限ってと、顔を顰めたのも束の間、その文字を見て目を瞠った。
『朔間零』
出るか否か、それは何とも浅い葛藤であった。
微かに震える手で通話を繋げれば、スマホを耳元に当てた。ひそひそと遠くで聞こえる声は彼以外の声も含まれていて、近くでは「余計な世話を焼きやがって」と恨むような彼の声が聞こえてきた。それに、まぁまぁと返したのは恐らく渉くんだろう。勝手に推測していると、間近で声が聞こえてくる。
『あ〜、俺だけど……』
「俺じゃ分かりませんけど」
罪悪感が見受けられるその言葉を撥ね除けるように冷たく言い放つ。これは相当怒ってるヨ、と。夏目くんと誰かが話す声が聞こえた。『もう心が折れそうなんじゃが……』『しっかりしてください、まだ星砂糖の効果は切れてませんよ』なんて会話を聞いては、首を傾げる。星砂糖?効果?一体何の話をしているのだろうか。私が疑問を口にする前に、話はどんどん進んでいく。
『……俺だよ、朔間零』
「そうですか。……それで、何の用ですか」
『分かっちゃいたけどその対応は結構クるな……いや、ほら、今日って初デート記念とかいう奴だろ?だから、今日くらいは、って』
あと、星砂糖が……なんてぼやく彼。
さっきからちょくちょく訳の分からない言葉が入ってくるが、結局、何が言いたいのだろう。
「私たち、もう付き合ってないんじゃなかったんですか?」
言葉にするだけでも辛いのに、態々言わせる彼が大嫌いだ。
顔も伺えない通話では、続く沈黙は痛いだけで、もう切ってやろうかと思った時、その思いが彼にも届いたのか「待て待て」と慌てるような声がスマホから聞こえた。
『今日だけって言っただろ〜が』
「……調子良くないですか?」
『今更』
随分とあっさりと告げられたその言葉。悪びれもしない態度は、まぁ、知ってるけど。
溜息を吐けば、軽快な笑い声が電話越しに聞こえてくる。それに、すっかり朔間零のようだと、訳の分からない事を考えた。
『愛してるぜ、名前』
「はいはい」
『おいおい、今日だけなんだから、そこは私もとか言えよな〜』
今日だけだから。だからこそ、言わないんじゃないか。これが電話越しでよかった。そうじゃないと、濡れた袖の存在がバレてしまうところだった。
あの頃に戻ったように、軽口を叩く彼。
声の震えを気にする私は、それに相槌を打つことで精一杯だった。
「おはよう、嬢ちゃん」
次の日、学校に行けば、彼はすっかり似合わないお爺ちゃん口調へと戻っていた。いつもは無視していたその挨拶も、今日は気まぐれに返事をしてやる。
それに、彼は少しばかり驚いた顔をした後、心底幸せそうな笑みを浮かべた。
そういう所は、やはり私の愛した朔間零とよく似ていた。
愛してるよ、ファジー