一言で説明するのなら、その男はストーカーだった。
 本人は否定しているようだが、教えてもない名前や住所などの個人情報を当たり前のように把握している。これをストーカーと言わずして何と言うのか。

 意外なことに、顔はアイドルみたく整ってはいるが、こんな行動をしている時点で彼への好感度はマイナスに振り切っており、顔を見たって何とも思わない。寧ろ、足が震えるくらい恐ろしいものだった。
 自衛もロクできない私に取れる行動といえば、逃げる以外にないのだが、今回は私が借りているアパートの部屋の前に居るのだから逃げようにも逃げ場がない。ぶるりと、背中に氷でも入れられたかのような寒気がした。

「……どうして、私なんですか」
「どうして、かあ」

 彼は、困ったように笑った。本当に、どうしてかわからない。そんな風に、眦を下げて。
 その様子を見て、私は絶句する。……有り得ない。この男には、善悪の区別がついていないのだろうか。

「もう、やめてください。
辛いです、迷惑です、……これ以上、私の日常を無茶苦茶にしないで」

 彼に残る良心を信じて、心の底から懇願した。彼は相変わらず困った表情をしていたが、その瞳には確かに哀愁が宿っていた。
 どうして彼の方がそんな表情を見せるのか全く理解できなくて、喉に小骨が刺さったような、何処かもどかしい気分になる。それでも私は、見ず知らずの人間に移す情なんて一片たりともないのだから、ただいつかの平穏を望んで、頭を下げた。

「どうして、」

 ──こんなことになったんだろうなあ。
 それは、聞き逃してしまいそうなくらい、小さくて、今にも泣き出してしまいそうなくらいか細いものだった。

 彼は、ひょっとしたらほんとうに私のことが好きなのかもしれない。愛してだって、いるのかも。でも、相手の気持ちを汲んだ物でなければ、それは愛とは言わない。一方的に押し付けたところで、それは成立しないし、愛が道を外したものがストーカーと言っても過言ではないだろう。
 道を外した愛に追い詰められ、人が死んでしまったというニュースを今まで何度も見た事がある。そう考えると、愛は凶器であり麻薬だ。真っ当な恋愛しかしてこなかった私には、そんな愛が存在すること自体理解できない。まともな人間の持つ思考ではないと思うが、十人十色とは名の通りで、それと同じように愛の種類も人それぞれだ。

 例え、道を外した愛こそが真実に近い嘘偽りない感情だったとしても、矢張り私にはそれを受け入れられる器がないので拒絶するしかない。

 つまり、これは、道を外した愛の話。



***



「そんなに、一途な男だっけ」

 それは素朴な疑問だった。
 正直言って、男の話になんて興味はないんだけど。……ないけどさ、何となく、聞いてあげないと、という使命感のようなものがあった。あの時の俺には、反対方向から歩いてくる彼を無視する選択肢もあったんだろうけど、まぁ兎に角、その時の俺は偶然にも暇だった。それだけの話。そして、現在。その延長戦に、俺は対峙していた。

「……薫さんは、恋人の記憶が無くなったら、どうする?」

 居酒屋で話すにしては、少しばかり重い話題につい苦笑してしまう。酒が不味くなったらどうすんの、そう言おうとしたけど、彼と一緒で美味しい酒が飲めるわけがないから、その文句はアルコールと一緒に喉の奥へと流し込む。

「えぇ〜、どうするって、どうにか出来る問題じゃないでしょ、それ。というか現在直面してる問題の答えを俺に求めないでくれる?当事者ですら分からないのに、俺が分かるわけないんだからさぁ」
「起死回生!案外、他人の何気ない言葉が突破口を開く可能性もあるだろう?」

 随分と、ポジティブな言葉を選んだものだ。一片の曇りもない澄んだ色をした瞳は、眩しいくらい真っ直ぐだったが、此の期に及んでそれは些か可笑しな話だ。

「……ごめん。俺はさ、やっぱり、どうしようもないと思うんだ」
「そうだなあ」

  ──不幸な、事故だったんだ。
 途方も無いみたいに、彼は呟いた。そうだろうね、それ以外の言葉が見つからず、俺は敢えて沈黙を貫いた。

 最愛の人の記憶から、自分だけが綺麗さっぱりいなくなるだなんて、なんだか三文小説みたいな展開だと思う。それでも、この物語はそんな安い結末にすら辿り着かないんだろうな。
 ならさぁ、もう、いいんじゃないかな。君、十分頑張ったよ。頑張ったから、さ。
 心中で、彼を激励する自分に馬鹿みたいだと溜息を贈った。可愛い女の子なら未だしも、野郎にまでお節介を焼くなんて自分が自分でなくなったみたいだ。それでも目の前の男は、俺が本気で心配しちゃうくらいには、どうしようもない道の上を歩いていた。



 片方が拒絶するから、それは愛にすらならない。
 これは屹度、彼と云う名の、愛の一人歩きだ。
君の知らない愛の話