火遊び

初めて会った時、その美しさに目を見張った。男性なのに端整な顔立ち。でも、それでいてどこか男らしい。
立ち振る舞いは紳士的で、時折イタズラっぽい笑みを浮かべるのに育ちの良さを伺わせる。

これが、名前が神永という男に抱いた印象だ。

街の一角、軍の要人や政界の人間が利用する、料亭に名前は勤めている。そこで話されたことは、お得意様でも口を噤む、それが暗黙のルール。だからこそ、多くの人間に利用される会議場となっていた。

お偉いさんには隠し事が多い。
軍内部の人事、これからの外交政策というお堅い話から妻との痴情や外の女の話まで、内容は多岐にわたる。

(疲れないのかしら)

毎晩、酒を飲みながらそのような愚痴を垂れ流す要人に名前はそんなことを思った。しかし逆に、疲れているからそんなことをペラペラ話すのだろうと首を振る。

どちらにしろ、自分には関係のないこと。

そんな日々を過ごしていた中、ある日変わった客がやってきた。

「すみません、空いていますか?」

のれんを分けて顔を出したのは一目でわかる美男子だった。端整な顔立ちに、名前は思わず目を見張った。
見れば、彼以外にも何人かいた。いずれも美男子揃い。

(どこかの会社の方かしら。こんなにたくさん)

ぽかんと見ていると、後から来た女将に、失礼だ、と小突かれた。慌てて居住まいを正し「すぐに」と部屋の準備をする。

(お客を楽しませるのは芸者の姉さん方の役目だけれど気になるわ)

名前の役目は料理を出したり下げたりの雑務だ。その雑務の中でも客の愚痴はよく聞こえてくる。表舞台に出る芸者たちはそれ以上によく聞くのだろう。

この人たちはどんな隠し事を晒してくれるんだろう。

そのワクワクを抑えながら部屋の準備を整えた名前が部屋を出て廊下に行くと、たまたま、美男子たちがやってきた。
すぐに廊下の端に寄り、頭をさげる。
彼らが通り過ぎるほんのわずかな時間、名前はちらりと美男子たちに視線をやった。ジロジロと見ては失礼だ。見るのは一瞬、気づかれないように。
背の高い端整な顔立ちの男性、背の低い可愛らしい少年のような人。
初見の通りなかなかの美男子だ。
最後の1人が通り過ぎる瞬間、視線を向けたその時、

(え)

ピタリとその人が止まった。
頭を下げたまま驚く名前に彼はニヒルな笑みをうかべて、耳元で囁いた。

「あんまり見られると、照れてしまいます」

ほどほどに、と付け加えてその場を後にする男に、名前は頬に熱が集まるのを感じた。

(いやだわ)

今までどんな相手にも気づかれたことがなかったのに、洞察力の鋭い男性だった。
気づかれてしまったことのバツの悪さに加え、名前が感じたのは、悔しさ。

(そんなにジロジロとは見ていなかったのに)

悔しい、と口を真一文字に結ぶ。
そして、アッサリと気づかれてしまったその事実に名前の中で一種の対抗意識が生まれた。


ーーーーーーーー


数日に一度の頻度で彼らはやってきた。
やってくるたびに顔ぶれは違った。しかし、必ずその中に入っている男性がいた。

「こんばんは、名前さん」
「いつもご贔屓にありがとうございます。神永さん」

初めて会ったあの日、名前の視線に気づいた男性、神永だ。
あれから、来るたびに顔をあわせるようになった2人はお互いの名前を覚える間柄となった。

「最近、お仕事がお忙しいんですか?」
「ん、何故だい?」
「ここ最近随分とお疲れのようなので」

名前がそう尋ねれば、そんなことないさ、と肩をすくめる神永。
そうですか、と名前もそれ以上は聞かず大人しく部屋へと案内した。

(つい先日、座敷でお仕事が忙しいと仰ってらしたのに)

はぐらかされたのか、と名前は拗ねるように口をすぼめる。

ここ数週間、彼らの会話を名前はつぶさに聞いていた。仕事は貿易関係の小さな会社。従業員は50名ほど。最近は米国と鉄鋼製品のやり取りを始める予定など。
しかし、名前は彼らの話を聞きながら違和感を覚えた。

(綺麗すぎるわ)

大なり小なり、ここに来る客が吐き出す、愚痴や痴情、噂話。取るに足らない内容から、知られれば大問題の話まで様々。そんな話を聞くこともこの仕事の、面白さだ。
それを話す本人達から滲み出るのは、下卑た匂い。それが、彼らからは感じられないのだ。

(不思議ね。まるで全部、本当じゃないみたい)

今日も、彼らからは綺麗な匂いしか感じられないだろう。
そう思い、部屋から離れて仕事に戻ろうとすると、パタン、と目の前の障子が開いた。
出てきたのは、神永だ。

「あぁ、すみません。名前さん」
「なんでしょうか」

何事だろうと首を傾げた名前に、神永は恥ずかしそうに頭をかくと、名前に近寄り耳打ちする。

「今日は吸ってはダメな人がいてね。一服するところはないかい?」

ここでは少し、と困り顔を浮かべる神永に名前はそんなことかと笑みを浮かべ、どうぞ、と後を付いてくるよう促した。

名前が案内したのは、料亭の玄関である表通りとは真逆、裏口付近だ。

「すまないね」

そういう神永に、お気になさらず、と返しその場を去ろうとした名前はある違和感に足を止めた。


(…何故、いま?)


客人と料亭に来ているのに今、一服?

例えば取引先の重役、もしくは懇意にしてもらっている相手が来た場合、まずは部屋に通してもてなすのが一般的、少なくとも名前が見てきた客は全員そのようにしていた。

神永のように、よく気がつく人間がこんな非常識とも取れるような行動を取るものかと。

(一服しないといけない理由、いえ、違うわ)

「神永さ、」

振り返り神永の名を呼ぼうとした名前の口は、呼ぼうとした相手に塞がれた。
ほんの一瞬だ。すぐさま名前は口を押さえて神永から離れた。

「な、」
「静かに」

人差し指を口元に当てて、相変わらず笑みを浮かべる神永だが、まとう雰囲気はいつもの、紳士的な神永、とは違っていた。

「君はここに来る人間のことを、隠し事をよく話すお喋りだと思っているみたいだけれど」

ジリ、と後ずさった名前へと距離を詰め人差し指を彼女の口元に当てる。

「君のその口も災いの元かな」

神永のその一言に、名前は思わず彼の目を凝視した。そして、その意味をさとり諦めに似た心情を抱いた。

(この方は、全部お見通しだったのね)


初めは遊びのつもりだった。
まるで映画で見たスパイのようだったのだ。内容は、ただの痴情や浮気話から人事の内容や仕事先の情報。
ありとあらゆる情報が交錯するこの仕事場、その情報をとても気に入ってくれた人達がいた。
ある時は新聞記者、ある時は水面下で左翼運動を展開する人。
人に気づかれない自信があった、気づかれないように情報を流す自信があった。
ある時は昼時のレストランで、ある時は街中のベンチで。知り合いを装い本を渡してその中にメモを忍ばせる。伝票とメモを取り替えて店員に渡す。
そんな日々で出会ったのが彼らだった。

今回のターゲットはきっと上物だわ。

この美男子に隠された素顔は何だろう。どうやってこの情報を使いこなそう。
けれど、聞けど聞けど彼らからが話す内容はとても普通で、さらに、まとう匂いは澄んだ空気そのものだった。

(当たり前ね、最初から本当じゃなかったんだもの)

目の前の神永を一瞥する。相変わらず笑みを浮かべてはいるが、その視線は鋭い。

「下らない痴話話でも、世間に出ると少々面倒くさいものもあってね。できれば、ごっこ遊びはここら辺でやめてもらえるとありがたい」
「いつからお気づきに?」
「さぁ?そこも推理してみたらどうかな?」

おどけた様子の神永に名前は目を伏せる。

(きっと最初からだわ)

ここから情報が漏れてると確信して、不審な行動をする名前に気づき、わざわざ足を運び様子を伺った。ことを荒立てないよう、何回か接触して自分たちに興味を持たせ泳がせた後に頃合いを見て釘をさす。

こんなところだろうか、と名前は推測した。さしずめ彼は、軍の人間か探偵なのだろう。
しかしそれでも、ひとつ疑問が残る。

「ひとつよろしいですか?」

尋ねる名前に、ひとつだけなら、と神永。

「どうしてこんな回りくどいことをしたのですか?」

釘をさすだけならわざわざ2人きりにならなくてもいい。メモを渡すなり、仮に神永が軍人だとしたらそれこそ名前は独房行きだろう。
無駄な行動が多いと感じたのだ。

「貴方が探偵さんでも軍の方でも、私が犯人と気づいたなら早くしょっ引いたらよろしかったと思ったのですが」

名前の質問に神永は目を丸くした。

「ははっ、君って子はっ」

そして、笑い出した。
急に笑い出した神永に今度は名前が目を丸くする。

「わ、笑い事じゃないでしょう。私は」
「確かに、少し回りくどかったけどさ。それを君が言うかな」
「ですけれど、」
「俺は別にことを荒立てたいわけではないよ。それに、」

おもむろに神永が名前へと手を挙げ、ぽんぽんと彼女の頭を撫でる。

「むしろ感心した。それで、気になったんだ、あんなことをやってのける素人さんはどんな子かな、て」

素人さん。その言葉が名前の心に響いた。そう、どれだけ自信があっても結局自分のやってたことはまがい物のお遊びだ。今回はお情けでお許しがもらえただけで、本来ならただでは済まなかった。

(いやだわ)

褒められているのに寧ろ悔しい。
難しい顔をして俯く名前に神永は苦笑する。

「名前」

あやすような優しい声音で、敬称をつけずに呼ばれ思わず顔を上げた名前に神永は再び口付けた。
強張る名前の身体を固定して、逃げられないように啄む。
まるで逢いびきをする男女のようだ。
ほんの一時の出来事。
口付けが終わり、互いが離れる。

「神永さん…」
「素人さんでいいんだよ。それが幸せだ」

優しい声音だと名前は感じた。
その中には、こちらに来てほしくない、という神永の思いも感じられた。

もう会うこともないのだろう。
名前は直感的にそう思った。彼はまた自分の前に姿を現すことはないだろう。彼が何者なのか、どこに行くのか、それはきっと自分には想像もつかないことなのだ。


「じゃあ、また」

神永のその言葉に、名前は「あ、」と声を発したものの何も言えなかった。

『素人さんでいいんだよ』

そして神永は、名前の横を通り過ぎその場を後にしようとした。

また、なんてないくせに。

名前は内心毒突く。

「神永さんっ、」

振り返り通り過ぎていった神永を名前は呼び止めた。

(素人さんじゃなければ違ったのかしら)

そうすれば、もっと

神永は振り返らずにその場に止まった。
その背中を名前は見つめる。


『それが幸せだ』


「っ、お元気でっ…」


名前の言葉に神永は手をあげ、そして今度こそ振り返らずその場を後にした。
その姿を見送り、名前はその場にへたり込む。

「馬鹿ね、わたし」

ぽたぽたと流れる涙を隠すように、名前は両手で顔を覆い、自嘲した。

「火遊びが過ぎたわ」

自分は、どうあがいても素人さんなのだと。