『チョコレート 作り方 おすすめ』
スマートフォンの画面で文字を打つ手が止まる。名前は、かれこれ1時間はこの画面と睨めっこをしていた。
テーブルの隅に置いたカレンダーを見れば、2月は半ばに迫っていた。即ち近づいて来ているのは、菓子会社の売り時シーズン。
「バレンタインデーなんて、誰が考えたの…」
押せば無数出てくる検索結果に頭を悩ませながら、名前は小柄な彼に想いを馳せた。
甘いチョコは好きではないと彼、波多野は言っていた。ミルクチョコ、洋酒入り、兎に角甘さが際立つ物よりは寧ろコンビニに売っているビターチョコレートの方が余程良いらしい。チョコレート専門ショップのショーウィンドウ越しに見た価格帯がそれなりの品々に、欠片の興味も示さなかった彼は印象的だった。
欲しくないのか、との問いに彼は答えた。
『甘過ぎるのは嫌いなんだよな』
それとなく目を配り、可愛らしくデコレーションしてある品々を見ていた名前はその言葉に内心焦りを覚えた。
キーホルダーのように精密なもの。キャラクターが描かれたもの。どれにしようかと心躍らせていた名前に無意識の冷や水が浴びせられた。購入予定だった物のリストを思い浮かべれば、どれもこれも甘さが十分だ。
世の女性が浮き足立つ日のひと月前から、名前の受難はスタートしていた。
(そもそも甘いものが嫌いなのにチョコレートを渡す必要はないよね)
いっそバレンタインなどなかったと言わんばかりに通り過ぎてしまおうかと考え、しかし首を振る。
(恋人ごっこだけど…ごっこだけどそれはない、あり得ない)
何食わぬ顔でスルーした後の顔合わせが恐ろしい。
そして何より、ごっこ遊び、の域を超えた想いが名前に笑いかける。
あー、うー、と唸りながら百面相している姿は余程滑稽だろう。1DKの部屋、ベッドの上でごろりと転がりながら枕へと顔を埋める。
市販のチョコレートが甘いのなら手作りでも良いではないかと思ったのが数十分前。検索履歴は、『チョコ 作り方 おすすめ 甘くない』で埋め尽くされてしまった。
しかしふと我に帰る。
(そもそもお菓子づくりしたことない…)
甘くないビターチョコどころか、ダークマターが完成しかねない。失念していた己の料理スキルに手にしていたスマートフォンを手放す。
憂鬱な運命の日まではもう日数がない。
何にせよ渡さねばならぬ物は決まっているのだ。
菓子メーカーの戦略を恨みつつ名前は再びスマートフォンを手に取った。
ーーーー
「波多野、ことしは何個貰った?」
満面の笑みで問いかけてきた甘利の片手には紙袋。ちらりと見えるのは包装された品々だった。
あれが全てあの甘ったるい菓子なのかと思うと、胸焼けする思いに波多野は駆られる。
世の女性の恋心と購買意欲を手玉に取った菓子メーカーの戦略により、この時期は至る所でそれが見られた。
色とりどりの芸術品とも見られる品々は鑑賞するだけなら害はないものの、いざ好意という、邪険にできないものにラッピングされて渡されれば、害といえど受け取らざるを得なくなる。
昨年、波多野はそのありがた迷惑な品々に頭を抱えた。
その教訓がことしは生かされたのだ。波多野は満面の笑みに肩を竦めた。
「ゼロ」
「へ?嘘でしょ。波多野いつもモテモテじゃんか」
「貰ったって大して食べられねぇんだよ。他部署の女子に聞かれた時にチョコは嫌いだ、て触れ回っといたんだよ」
大量の甘い菓子を貰ったところで行き先は四方系のゴミ箱の中だ。
さらにいえば、
「今は、貰うわけにもいかないだろ」
ごっこ遊びといえど、脳裏を掠める彼女の姿に例え好意を纏って渡されようと受け取るわけにもいかない。
否、好意を纏った物ほど受け取るわけにはいかない。
少なからず懸想する相手を思い浮かべた彼に、満面の笑みだった男、甘利は苦笑しながら彼のデスクを見つめる。
「で、肝心の彼女からはどうなったの?」
ニヤリと笑みを深めた甘利に波多野の顔が歪む。分かっていると言わんばかりの相貌が憎たらしい。
その甘利の表情通り、と波多野は視線をデスクの引き出しへと向けた。
ーーーー
スマートフォンを手に画面とにらめっこをする行為をここ数日繰り返している。数日前は、チョコレートの作り方を延々と見続けていた。結局、その細やかな努力は水泡に帰したが。
現在名前がにらめっこをしている理由は、至極下らないことであった。
(流石に何も言わずに置いとくのはまずかったよね…わかるわけない…)
可愛らしくメッセンジカードでも添える頭があれば良かった。肩を落としたところで結果は変わらず、デスク上にポツンと置かれた品に首を捻らせたであろう彼に合掌し、名前は彼に送る文面に頭を悩ませていた。
結局、彼に送ったのは好きではないと聞いてたチョコレートだった。なるべく甘くない、価格帯もそれなりのビターチョコ。量も最小限のほんの気持ち程度の品だった。
しかし、それを彼のデスクに置き何事もなかったかのように立ち去ったものだから、はっきり言って義理チョコと思われても仕方がない。
故に、彼にメールする文面を考えなければいけなくなった。
(嫌いと聞いていましたが置いときました…いや、嫌いなら買うなよ、て話だから。季節的に買ってみました…?いや、義理チョコじゃあるまいし。あ、でも本命でもない?あれ?)
雑念が次々と入り乱れる。そもそも手渡しをすれば良かったものの、
『甘過ぎるのは嫌いなんだよな』
(嫌な顔されたら立ち直れないなんて、自分勝手過ぎるでしょ…)
己の保身の為に、置き逃げしてしまった小一時間ほど前の自分を殴りたい。
時刻は定時を過ぎた。営業フロアは本日清掃が入る為、彼は既に帰宅の途に着いている。
(帰りの電車の中で考えよう)
仕事を終えている手前、無駄にデスクに残り続けるのは残業に追われる同僚に失礼だ。自分の色めいた悩みに煩悶する場所は会社ではない。
お疲れ様です、とカバンを抱え足早に退社しようとした、時だった。
「随分と時間かかったな」
技術フロアからロビーへ、1人エレベーターに乗り、開いたドアから数歩歩いた先。左方向から聞こえてきた聞き慣れた声音に全身が硬直した。
まさか、そんな、と心の準備など一ミリもできていなかった名前の心臓は面白いくらい跳ねた。ギギギ、と音がしそうなほど鈍く首を横へ捻る。
視線の先のその姿に、思考が停止した。
「お、お疲れ様です…」
掛けるべき言葉を探し出せず、月並みの定型句を紡げば、おう、と爽やかな笑みが返ってくる。恐ろしい、今はその笑顔が何とも不気味であった。
じゃあこれで、と逃げることも叶わない。直立不動の姿勢で固まった名前に、目の前の男、波多野はひとつ息を吐いた。
「とりあえず、説明な?」
ガサリ、と目の前に出されたシックな袋。え、と名前は目を見開く。
メッセージカードも何も置いていなかったそれが何故自分のものと分かったのか。
口を開く前に手首を掴まれ、有無を言わされず名前は連れていかれた。
彼の家にお呼ばれするのは初めてではない。幾度か足を運んだ経験はあるが、此れほど緊張に身を固めながら赴くのは初めてであった。
白い丸テーブルに置かれた品物。それを挟んで正座をする名前と胡座をかく波多野。
「で、気まずくなるのが怖くて俺のデスクに置いて後でメールしようと?」
「はい……」
ふーん、と呟く波多野の相貌が恐ろしく名前は俯いたまま品物に視線を落としていた。
何故、このチョコレートが自分のものからだと彼が分かったのか。
曰く、まず事前にチョコレートは嫌いだから結構だと職場の女性陣に触れ回っていたと。それ故に、昨年より格段にその数は減ったと。
更に、直接渡しに来た女性には丁重な断りを入れたとのことだ。
加えて、
「これ、あの時のだろ?」
「え」
「この前見に行ったろ。あの店でお前が食い入るように見てたやつじゃん、これ」
彼の観察眼に名前は慄いた。
名前が選んだチョコレートは結局彼とのデートの際、下見をした品だった。何が良いかと悩んだ末に出した答えは、彼と共に見たことのある品、という何とも安直なものだった。
(……馬鹿)
居た堪れなさの次に来るのは罪悪感で。何から謝罪するべきか、どの言葉を紡げば良いのか。巡る罪の意識に苛まれながら名前の視線はチョコレートから外れない。
「なぁ、苗字」
名を呼ばれ肩が跳ねる。
顔を上げろ、と促され恐る恐る視線を彼の上部へと上げて行く。
そろり、と合わさったそれには、
(あ……)
「らしくない顔すんな」
ひどく暖かな色が灯っていた。
苦笑し柔らかに目尻を下げる波多野に名前は言葉を詰まらせながら問いかける。
「でも、その。波多野さんは、その」
「何だよ」
「嫌じゃなかったですか?他の方の物を断るくらいですし。もし何か別な物の方が良ければそっちを」
「苗字」
ぽすん、とそれ以上の言の葉を遮るように少しばかり身を乗り出した波多野の掌が名前の頭部に乗せられた。
「別に嫌じゃねぇから、そんな不安そうな顔するな」
な?、と笑いかけるその相貌は矢張り彼だと名前の中に広がるのは安堵感で。
自分の一歩先、二歩先を歩み振り返って待ってくれるその姿にいつだって不安はどこかへ消え去って行く。
(悩む必要なんてなかったんだ)
一体、ひと月前からの憂鬱は何だったのかと名前は嘆息しつつ、己を包む掌の感触に心地よさを感じた。
「これ、割と苦いな」
「ビターが殆どですからね。ひとつだけ洋酒入りの甘いやつが入ってますけど」
ひとつ口に含めば広がるほろ苦く、ほんのりとした甘み。これならば1日で平らげそうだと口に広がるその絶妙な味に舌鼓を打つ。
どうせなら2人で食べようという波多野の申し出を最初こそ断った名前だったが、
『お前も食べたいんじゃねぇの?』
ニヤリと、分かっているんだぞ、と。見透かされていた心内に多少むくれつつもその言葉の真実性に結局のところ折れたのは名前だった。
2人仲良く、この苦味は良い、これは香りが良い、などひとつひとつ感想を述べながら食して行く。さながらそれはーー
肩を並べ、ひとつ屋根の下。
ちらりと視線を走らせた波多野の横顔は実年齢より幾分か若く見えた。先ほどまでの、年上、としての彼ではない。居住空間だからか、はたまた普段は食べない高級品に心が踊っているのか。
穴が開くほど見つめてしまっていた名前のその視線に気づいた波多野が己のそれを絡ませる。
瞬間、不安に支配されていた数十分前の自分とは違い、今現在のこの状況を名前は改めて認識した。
近い距離と、近しい距離感。ごっこ遊びの域を出ている感情と行為。
(…これ、駄目だ)
錯覚する。これではまるで。
「っ、これ甘いから私が食べますっ!」
最後の一つ。ビターチョコの中に入っていた、唯一の甘めの品は波多野が避けていた真紅のチョコレート。
絡まった視線を解き、その先に見えた甘い一品を手に取り名前は口に放り込んだ。含んだ瞬間、ドロリと舌に乗った洋酒と砂糖の味に、これは矢張り自分が食べて良かったと1人頷く。
名前でも甘過ぎると感じるそれを、舌で転がし己が感じる妙な甘さと混ぜ合わせてしまえと、雑念を振り払っていると。
「美味いの?それ」
吐息がやけに耳に残った。
味見させて、と応える前に言われた一言の意味を考える暇はなかった。
味見のできるチョコは箱の中に残ってはいない。
端整な波多野の相貌が近づく。ベビーフェイス、長い睫毛、ふっくらとした重い瞼、垂れ目の瞳の中にある扇情的な色に息を呑んだ。
何処かで望んでいた展開かもしれない。なし崩しではあるが、不思議と拒否する感情は湧かなかった。
名前はゆっくりと瞼を閉じた。
合わさった唇。ぬるりと舐め取られ全身がぴくりと震える。そのまま後頭部に回された掌は心地よく、求めるように薄く口を開けば、生暖かいそれが己の口腔内に侵入し味を確かめるようにゆるりゆるりと甘さを舐めとっていく。
「ん、ふ」
ごっこ遊びとは何だったのかと自嘲を重ねながらも、その心地良さに己が舌も彼を求めた。
好き、と好意が行為を正当化する。チョコレートは溶けきっているにも関わらず続けられるのは、何の味見か。
己の味見なら、その味の感想を聞かせてくれと名前は願った。
「ん…波多野さん…」
かちりと絡まった視線が甘ったるい。その関係性に正式になる儀式を踏んではいないというのに、交わされる好意に身を任せる。
洋酒で思考が鈍っていると言い聞かせ、名前は紡いだ。
「波多野さん、わたし…」
波多野さんのことが、ーー
しかしその先を紡ぐことは許されなかった。
食まれ、愛撫される唇。言葉にすることが叶わずに、されるがまま受け止めていた名前に、先に紡いだのは波多野だった。
「好きだ、苗字」
真っ直ぐ、己を見据えた瞳が、紡がれる言の葉が彼の想いを露わにした。
「先に言わなくてごめん。好きだ、苗字」
好きだよ、と、そう呟きそして名前の肩口に顔を埋めた波多野に、名前はえも謂れぬ想いを感じた。
しかし感情の処理の仕方が分からず、結局のところできるのは月並みな表現で。
「波多野さん」
回した腕に力を込める。柔らかな彼の髪を梳きながら、名前も想いを載せた。
「私も好きです。波多野さん」
「苗字」
「好きだから、遊びで終わりたくないです、もっと沢山一緒にいたいです」
言いたいことはまだあるというのに、伝えたい言葉がわからない。想いばかりが先行してしまい、矢張り行き着くのはただひたすらの愛撫だった。
合わさった視線を合図に、求め合い、絡め合う。
それは思考が溶けてしまいそうなほどの甘美な一時だった。