存在証明

父の訃報が届いたのは、葉が朱に色づき始めた頃だった。
名前はしんしんと降る細雪を眺めながらふと物思いに耽った。

第日本帝国陸軍上海陸戦隊。名前が知る父の務めの情報はその程度だった。
時折家に届いていた手紙では、変わりないことと娘の自分への気遣いの文がつらつらと綴られていた。
幼少期に母を亡くした娘をたいそう可愛がっていたと、名前自身感じていた。己が殉ずれば身寄りがなくなる。そのことも案じ、見合いの席を設けたこともあったが、結局その甲斐もなくなってしまった。
紙きれ1枚と部下が書いたのであろう戦記録だけが名前には残された。温厚な人柄で常に周囲に気を配り、最後は立派に務めを果たされた。陸戦隊の誉であるとまで書かれて締めくくられたその記録に、名前は何の感慨も沸かなかった。

ーーつまり、私は独りぼっちなのね。

紙の上の物語に比べて現実はひどく生々しかった。


淡雪が溶けては積もりまた水へと帰る。
じんじんと悴む指先に息を吹きかけるほどには、名前は其処でただ窓越しに外を眺めていた。
寒い、暖かい、それを感じることが出来るこの身はやはり生きているのだとただ当たり前のことを実感して口元を緩ませる。

生々しい現実を、無機質な死という情報を、ただ一人で受け入れた名前は一人の男に拾われた。
男はひどく無だった。ある日、ぬっと玄関先に突然現れたその男は不気味なほど印象が薄かった。存在感があるようでない。右手に白い手袋を身に着けた身なりの整った様相にも関わらず、纏う雰囲気はまるでこの世のものとは思えないほど冷たく、まるで…――

ーー魔王。

口にすることが憚られたその言葉を名前は飲み込む。
漆黒の魔王は名前を見下ろしていた。その瞳に自分は映っているはずなのに、見つめているのは違う場所、己の深淵を奥底の感情を見られているようで名前は居住まいをただした。
背筋を駆けた悪寒にごくりと生唾を飲み込む。
たった数秒、いやもっと長かったかもしれない。
魔王はただ一言、告げた。

――此処にいる理由がないなら、来るか。

選択を迫る言の葉に自由など初めからなかった。
名前は無言で頷いた。

聞いたところによると、男は帝国陸軍の中佐に当たるらしかった。
名前の父親とは古くからの友人で、自分に何かあった時に頼むと日ごろから言われていたという。
つまりは、古い友人の根性の頼みを魔王は聞いてくれたということだった。

名前は選択を迫った在りし日の彼を思い出す。
木枯らしが吹く日、玄関先に立った男の言に名前は首を縦に振った。
有無を言わせない声色に頷いたのは事実だったが、それに加えて名前にはどうということもなかったのだ。
今も先も、一人だというのなら場所など関係はない。
ただ名前は、居場所に理由を求めるほど固執する何かを持ち合わせてはいなかった。

男は名を結城という。
結城中佐は名前を街中のレンガ調のビルへと連れて行った。大東亜文化協曾と書かれた看板が掛けられた寂れた造りのビル内で名前に言い渡されたのは、仕事だった。

「此処の生徒たちの世話をしろ」

またもや一言、それだけだ。
不親切極まりない彼に、名前もしかし頷いただけだった。

男達は妙に顔立ちが良かった。端麗、精悍な顔、顔、顔。これは彼の趣味なのかと妙な勘ぐりを覚えたほどだった。
男達はいつも何かの講義を受けていた。医学、薬学、物理学、多岐に渡る講義に名前は幾度となく眉を顰めた。
彼らはその講義の内容をいともたやすく習得し、己がものとして時折談笑さえするのだ。まるで、すべての知識を会得することは出来て当たり前と言わんばかりに。
いったい彼らは何になろうとしているのだろう。
芽生えた好奇心は彼らへと向く。それは自然なことだった。


「名前ちゃんは、どうしてここに来たの?」

何気ない問いかけは好機だった。
食堂内、夕飯を食べ終えた生徒達を背に退室しようとした名前に投げかけられたひとつの問い。
優男風の生徒にそう問いかけられた名前はひくりと表情筋を動かした。堪え切れない好奇心が表情に現れないように必死に能面を被せる。

「父が亡くなったので、引き取られました」

事実をただ述べた。何の感傷もないのは、事実そうであったからだ。父が死んだ、だから引き取られて此処に来た。簡潔で明朗な答えしか持たない名前はただそう答えた。
そうして名前はふつふつと湧き上がる好奇の色を視線に添える。自分と同じようでどこか違う、まるで『人間』じゃないような男達の顔を見たいと感じた。

優男風の彼は、ふと笑った。

「ふうん」

しかしそれだけだった。たった一言。
彼は一言ただの感嘆詞を述べ、名前を隅々まで舐めるように見つめた、否、見定めた。
男達の顔は変わらない。仮面を深く被り、笑みを貼り付けた男達は名前が此処へと来た経緯を訪ねながら、しかしその過程に心の底から関心がないようだった。
名前は半ば呆然とした。
そして、すぐにはっとする。

ーー見透かされていたんだわ。

己の浅はかな好奇の色など彼らは手に取るように分かっていたのだ。分かっていたからこそ敢えて問いかけ、名前を見定めた。
貼り付けられた笑みの下にあるのはきっと狡猾な相貌だ。
仮面の奥の瞳がぎらりと輝いた気がした。

「……なら、色々と不安だよね」

棒立ちになった名前に、奇妙に柔らかな声が掛けられた。それは、先ほどの無に等しい関心とは真逆のとびきり甘く優しさに満ち溢れた声色。
気味の悪いほどのその声に名前が閉口していると、続いてさまざまな憐憫の声が上がる。

「いきなりこんな男所帯に来てびっくりしているだろうけどさ、大丈夫だよ」
「手取り足取り、色々教えてあげるからさ。何も心配することなんかないよ」
「無理しなくてもいいからね」

矢継ぎ早に言われた言葉は、労わりの台詞であるが故に名前は気づく。
それは、細やかな気遣いというベールに覆われた、ひどく冷たい声音だった。


――嗚呼、この人たちは私を馬鹿にしているのね。


視線に込められた感情、隠すこともしない口元に見えたのは明確な侮蔑と線引きだった。
自分たちとは違う異端者、能力なしのただの女。普通のつまらない女。
大丈夫、教えてあげる、心配するな、とはよく言う。
余計な詮索も何も意味はない。お前と自分達は存在そのものが土台違う、と念を押された言に名前は顔を伏せた。見えるのはただ己のつま先だけで、冷や水のように浴びせられる視線は視界に入らない。

そっと名前は目を瞑る。

「こら神永、怖がっているじゃないか」
「俺のせいじゃないだろ」

瞼の裏に見える暗闇に男達は見えはしない。
しかし、声色が映し出すのは嘲り笑う仮面だった。

「ごめんね、やっぱり俺たちが怖いかな」

鋭利な言葉の剣と共に、男の一人の腕が名前に伸びた。


「………いえ、大丈夫です」


しかし、肩に触れかけた指先は空を掠める。名前が身体をスッと後方へと下げた為だ。
触れるか否かで、その掌を拒んだ名前の行動に面食らったのか、男たちは先ほどまでの仮面が僅かに削がれ、大きく見開いた丸い瞳がちらほらと散見された。

名前は、愉快に思った。

「お気遣いありがとうございます。ですが、お手を煩わせることはありませんのでご安心を」

名前は明確な線引きの上に、更に太く線を塗りたくった。ぎちぎちと、黒墨で深く上塗りした線の内側から名前は彼らに朗らかな笑みを投げかける。

愉快だ、実に愉快だ。

仮面が剥がれかけた中に見えた間抜け面に、名前は意趣返しをした気分を覚えた。

ただの女。つまらない女。
その認識を定めた男達に、例えたいそう優秀でも、己を軽んじた男達に対して名前は朗らかに清らかに、敵意を向けた。


冷えてきた室内に名前は身を縮める。
思い出に浸るには充分な暖かさを確保できていないにも関わらずそれを強行してしまうのは、この儚く消えてしまいそうな粉雪のせいだと意味もない責任を外へと押し付けた。
感傷的になっている心待ちに、名前は苦笑した。

彼らが自分を軽視していたのはある意味当然のことであった。
真っ黒な孤独を進む彼らにとって、凡人は取るに足らない道端の石ころだ。
意思のない石ころが、化け物に興味関心を抱くことがあるはずもない。

しかし、石ころの名前に対して口を開いた男もいた。

”随分なじゃじゃ馬なことだ”

そう、彼はそう言ったのだ。


「じゃじゃ馬…とは?」

名前は淡麗な顔を拝み、不遜な口調で聞き返した。
吐き捨てるような言葉に男は肩を竦める。

「そういうところですよ」
「言葉で言って頂きたいです。私、皆さんほど優秀じゃありませんので」
「言葉で言って納得しますか?」
「納得しなくても貴方方には問題はないじゃないですか」

ツンと取りつく島もない名前に彼は、三好は口角を上げる。

「君と僕達とでは何もかも違う。抗いようのない差があるのに、事実を指摘されて食ってかかるなんて、随分なレディだと思ったまでですよ」

故にじゃじゃ馬。
馬は馬らしく殿方の手綱の通りに頭を垂れれば良いものを、後ろ足で蹴り上げた。
更には蹴り上げた先を得意顔で見下ろしたのだ。

「レディに憧れなんてありませんから」

パン、と真白の布が蒼天に映える。
生徒達の衣服を洗濯する合間に彼はよく名前に会いにきた。音もなく現れ、唐突に話しかけるものだから不気味と言ったらなくて、ニヒルに笑む姿に何度眉根を寄せたことか分からない。
しかしそれでも慣れとは怖いもので、それすら生活の一場面となるのだ。
不遜な態度に気を悪くする様子もなく三好は名前に語り掛ける。

「なら、君は何になりたいんですか」
「何、とは」
「此処にいて、僕らと居て、何になりたいのかどうなりたいのか、ですよ」
「……さぁ、少なくとも、貴方方に傅くレディにはなりたくないです」

くるりと身体を回して、彼にニタリと笑んでやれば、やはり彼ははしたないと肩を竦めながら口元を緩めた。

何になりたいのか、どうありたいのか。
名前にとっても、それは何一つ分かっていないことだった。
名前は拾われた身だ。そして、何処にも行けない、しかし何処へでも行ける存在だ。結城中佐の為に生きろと言われれば生きるし、何処かへ行けと言われたら去ることもできる。
ひとつ彼が命を出せば、名前の心内がどうであれ、それこそ彼らに傅き股を開くことすらできるだろう。

名前は洗濯物を干していた手を止める。
嗚呼、こう考えるとそうではないかーー……


「私、何処にもいないんですね」


曖昧な己の立ち位置に、覚束ない身の上に、ぽつりと行き場のない心情が吐露された。何になりたい、どうなりたい以前ではないか、と。

何処へでも行ける、何にでもなれる、何でも出来る。
それはつまり、何者でもなく何物でもない、何処にも存在しない、正に灰色の、モノクログレーに生きる何かだ。
確かに存在する名前という自分がひどく霞んで、輪郭のわからない化け物のようにただ此処に揺蕩っている。
己には確かに意思がある。しかし、他者との繋がりという点では唯一の肉親であった父親以外、その線は何処にも繋がってなどいなかった。

君は何になりたい。
その問いは、名前という不確かな存在に大きく刺さった。

溢された想いに立ち止まった名前は、最後の洗濯物、訓練生のシャツを干し終わると徐に歩き出した。
一歩、一歩、後一歩踏み出せば、広がるのはビルディングではなく何もない空間で、吹く風に後押しされれば名前の意識は此処に戻ることはないだろう。
肺に息を吸い込みゆっくりと吐き出す。心臓はとくんとくんと生命を刻んで、眼下には同じように命を生きる者達がいた。

ーー貴方達はどこにいるの?

そんな問いをひとりごちて苦笑する。
決まっている、彼らは其処にいるのだ。
誰かと繋がり、誰かに記憶され、誰かに想われ生きている。
何処にもいない存在など、もはや存在そのものが虚構でありまやかしだ。

「三好さん」

凛と澄んだ声音で彼を呼ぶ。
振り向いた先、ふわりと吹いた風に揺られた髪の間からその姿を瞳に映した。


「……それで、どうしたいんですか」


それはひどく呆れた口調だった。
名前に微笑まれた三好は、表情ひとつ変えずに彼女を見据える。

「さっきも言ったじゃないですか。分かりません」
「なら、其処から飛べば答えが見つかるとでも?」
「さぁ。でも、虚構の存在がいなくなったところで現実には支障がないでしょう?」
「馬鹿なことを」

ひとつ三好は息を吐いて名前へと足を進めた。
近寄る三好を足先からてっぺんまで見つめて、名前は笑みを絶やさない。

「大丈夫ですよ。此処から飛び降りてしまったら、色々と面倒ですものね」

それこそ、虚構が現実へと姿を現してしまう。
目の前に広がる蒼天と、眼下の営みを見つめて名前は口元を緩めた。
現実となった虚構など、冗談では済まされないのだ。
面倒ごとを持ち込む気などはない。
理解している彼らにとっての不都合な事象を口にすれば、三好は、盛大なため息を吐いた。

「何を勘違いしているんだ」

僅かな苛立ちが感じ取れたその声音に名前は目を丸くした。
振り返れば、其処に居たのは確かに彼だというのに、何処かそれは現実味を帯びた存在だった。
声だけではない。三好の端正な顔には深い皺が刻まれていて、加えて、気取ったあの様相が剥がれ落ち、見えるのは何とも形容しがたい相貌だった。
常に俯瞰して人を見下し、こちらを品定めする男が見せたのは、あまりに人間的な視線で。
三好さん、と口にした名前の視線に彼は真っ直ぐ応えた。

「君が其処から飛んだところで何も変わりはしない。面倒?寝言は寝て言うんだな」

嘲笑を浮かべた彼に名前は瞳を伏せる。
変わらない、何も。確かにそうだ。
彼らなら虚構を虚構のまま終わらせることなど造作もないのだろう。

視線を交わさず名前は苦笑した。

「何も変わらない。そうですね、何もないのに、変わることはない」

口にすれば当たり前のことで、しかし名前は噛みしめるように囁く。

一陣の風が吹き、彼女の背を押した。
風に誘われて、名前は一歩、淵から中へと身体を動かした。

「あと、もうひとつ勘違いだ」

さらりと、白くしかし骨張った指先が名前の髪を梳いた。
真っ赤な血が、己と同じ血が通っているのか不確かな彼の掌は存外温かく、頬から伝わる温もりに名前の瞳は瞬く。
彼の名を呟いた名前に三好は被せた。


「君は、此処にいる」


それは、彼にひどく似つかわしくない言葉だった。

「……それは、どういう」
「そのままだ。君は僕の前に居て、そして僕は君を認識している」
「……急に何ですか。優しい言葉のひとつでもかけてやろうとでも?憐憫の情でも湧きましたか。私は、」
「名前」

紡がれていた言の葉を否定するように、三好は名前と視線を合わせた。その瞳の中にいる己に名前は身体を強張らせた。

ーー嗚呼、何て顔…


「何になりたいか、どうありたいかを決めるのは君だ」

深淵を見透かす瞳から視線を外すことができない名前に、三好は紡ぐ。

「けれど、君が此処にいることを決めるのは、君じゃない」
「……そんなの、出鱈目です」
「出鱈目でも事実だ」
「……ふ、ふふ。何ですかそれ」

名前から思わず笑みが溢れた。下がった眉尻に、三好の口元も僅かに緩む。

此処にいる、と彼は言った。己は此処にいる、と。
虚構でもまやかしでもない、お前は此処にいて、そして彼もまたーー

じゃじゃ馬と名前を呼んだ彼は、それはひどく人間だった。


(…それでも、じゃじゃ馬はひどい言いようね)

浸っていた意識が浮遊する。室内は尚冷気に晒されていて、そろそろ暖をとる頃合いとなっていた。
名前は改めて、雪の降り積もる窓外に意識を遣った。

何になりたいのか、どうなりたいのか。
その答えを名前はまだ探し続けている。

しかし、名前は此処に居た。


「ねェ、三好さん。私生きています」


ツゥ、と指を滑らせ凍てつく感覚を窓越しに感じる。
何処にも存在しなかった名前を、現界させた彼へ、名前は想いを馳せた。

昭和16年、冬。
生きている。自分は生きている。
独りでも生きている。


ーー


存在証明