こんにちは新しい世界

これは前世の報いなのかもしれないと、信じてもいない神を呪った。

東京という都市に光がなくなることはない。そこには満天の星空のようにネオンが輝く場所が必ずあり、様々な欲が入り乱れて散乱している。自由を謳歌し、責任を放棄して、今日も明日も明後日もこの街は踊り狂い続ける。

(そんなこと、どうだっていいのに)

無意味な思考に嘆息した名前は、顔を整えて道行く男達に愛想を振りまいた。媚びを売る声の作り方、雌を強調する仕草、全て完璧にこなしてそして獲物を手中に収める。
君可愛いね、と下らない甘言に頬を染める術も知っている。獲物の捉え方ひとつ、それすら今生より遥か前に会得したのだ。

(つまらない)

名前は二度目の生を生きていた。


物心ついた時には既に記憶があった。押し寄せる人の一生の記憶に悟った。

ー嗚呼、これが俗に言う転生か。

悟ったらあとは楽なものだった。何せ自分は前世でスパイとしての教育を受けていたのだ。騙すこと、演じることなど容易く、年相応の、人間、の皮を被り生活する日々。命が危険に脅かされることもない生の中で誰の期待にも程よく応えた。
それは、まるで名前という人間の身体を借りた生活だった。もしかしたら、この身体には別の魂が宿る予定だったのでは、と無意味な思考遊びを繰り返しては落胆する、なんて下らないのだろう、と。
そして、下らないことはまだあった。

「ただいま」

ドアの音、名前の声が虚しく宙に消えた。がらんとしたリビングに灯りはなく、物音も聞こえない。
時計の針が二本とも真上を指す時間帯としては至って正常な光景かもしれない。が、その時間に名前が帰るということは世間的には異常だった。
つまりは、異常がまかり通る世界なのだ、この家は。

「あの人は……ああ、男のところね。で……あっちはもうおねんねか」

冷めた声音は現実を体現している。
両親が健在でそれなりの収入がある家庭がどこも温かいとは限らない。金は幸福を形作る要素の1つではあるが、幸福=金ではない。金で買えるものは多くても、買えないものも確かにあるのだ。

「……前の行いのせいなのかな」

スパイとして生きたろくでなしへの報いなのか。温かな家庭を偽った己に、冷え切った今はお似合いだと自嘲する。
クリスマスの夜、怒号と銃声が響いた次の瞬間には身体には紅が滲んだ。泣き叫ぶ男は彼女の夫だった。何処からか漏れた情報により、名前は白日の下に晒され、そうして走り出した。
他人を騙し、己を欺き、傷つけ続けてきた人生の末路は呆気ないもので、終戦を待つことなく名前は任地で命を落とした。寒々とした冬空の下、誰の目に留まることもなく雪の中に消えた身体。
温かかったのは己の鮮血だけだった。

思い起こされる記憶に名前はかぶりを振る。
済んだことだ、終わった世界だ。今ここにあるのは、自分が最後を迎えたあの、もの悲しく冷たい世界。

「下らない」

変わらない現実を吐き捨てた。



熟れた女を演出するには肌を見せるのが効果的だ。若ければ若いほど、その瑞々しさを男は欲する。その若さを全面に出すためには、化粧は厚すぎない方が良かった。肩口の空いたドレスはボディラインをくっきりと表す、店でも人気の服だった。
夜の街、ネオン街の一角で名前はアルバイトをしていた。昼間はブレザーに身を包み、スクールバッグを手に優等生を演じる女子高生が夜は男を誘うアルバイトをしているなど、知人どころか名前の両親さえも知らなかった。
夜の仕事は金が入る。年齢詐称など造作もない。此処では名前は地方から都心に進学した大学生だった。偽造の学生証は精巧な作りで、その技術は前世から引き継いだものに加えて、独学で学んだ。素人に見破られるわけはない。さらに言えば其処に来る客にとって名前の年齢など瑣末なことだ。

カウンターで注文を受け、手際良く手を動かしていく。マドラーで赤、黄、橙を混ぜるとカラリと氷が鳴った。

「これで何件目だよ、神永」
「いいじゃん〜、どうせ明日休みだろ?飲もうぜ」

同じ時に鳴った扉のベルは新しい客が来たことを告げた。
男の欲が充満する店内に入って来た音に名前は目を見開いた。

(どうして…?)

「オネーサン、おすすめちょうだい?」

猫目にあわ色の髪、茶目っ気のあるウインクを寄越したのは紛れもなくあの時を共に過ごした男、神永その人だった。
さらに言えば、神永だけではない。その後に続いたのは揃いも揃って懐かしさを覚える顔ばかりで、名前の視線は彼らに張り付いた。

「オネーサン」
「……あ、すみません。すぐに作ります」
「いいよいいよ。ゆっくり作りながら俺とお話でも楽しんでくれたら…、って、いってぇ!」
「所構わず声かけてんじゃねぇよ、サルか」
「誰がサルだよ!化石の波多野に言われたかねぇよ!」

やいやいと抗議する神永に呆れた視線を送る波多野も、やはり変わっていなかった。重たそうな瞼、存外面倒見の良い性質、神永を諌める姿はあの時代の波多野と一致していた。
何故、どうして、と疑問が頭を駆け巡る中しかし慣れた手つきで数種類の酒を混ぜていく。カランコロンと氷が鳴った。

「お待たせしました」

どうぞ、と差し出したグラスを手にした神永は片目を瞑って礼を言うと個室へと姿を消した。
気付けばそれぞれが散らばって女と仲睦まじく会話をしている。それはさながらジゴロの訓練のようで、記憶にあるその光景と重ね合わせて名前は目を伏せた。見ていては、あの頃に囚われてしまう。彼らと過ごした時間、人としてスパイとして生きていた時間を思い返して羨んでしまう。
嫌だ、嫌だと首を振った。

「……大丈夫か」

それは酷く優しい声音だった。
目の前からかけられた言葉に、ハッと顔を上げる。パチリと合った視線の先の波多野は、名前をじっと見つめていた。
どことなく居心地の悪さを感じ、名前は言葉を濁す。

「…いえ、その……あの、」
「具合でも悪いのか?」
「そんなことはありません。すみません、大丈夫です」
「……ならいいけど」

表情1つ変えない波多野の真意を読みかねる。名前は更に居た堪れない心境に置かれた。
如何にかしてこの空間を変えたくて、ふと神永に差し出したカクテルをもう一杯作る。カランコロンと響く音が場の空気をとりもつようで心地良い。
どうぞ、と波多野にそれを差し出せば、カクテルを一飲みした彼は顔をしかめた。甘ったるい、と顔に書いとあるその相貌は名前の緊張の糸を解す。

「……ふふ」
「なんだよ」
「顔に出やすい方なんですね」
「大人をからかうな」
「……私だってここで働いているんだから大人です」

するりと名前は虚言を紡いだ。おきまりの笑顔で、軽やかに紡いだ。
嘘だ、名前は社会的には子どもの位置にいる。高校生は大人だと言う人間もいるが、まだ庇護下に置かれる子どもだ。家があり、学校がある華の十代。
それでも、心と記憶はとうの昔に子どもを忘れた。親を欺き、他人を欺き、自分を欺いている人間は子どもなんかじゃない。大人、それも悪い大人だった。

「大人ね…」

ぽつりと波多野が呟いた。重い瞼を更に下げた瞳が青色のカクテルを眺める。憂いを帯びた視線に名前の心臓がとくんと鳴った。
何故そんな瞳を見せるのだろう。問いかけようとした名前の声は別の声にかき消される。

「波多野行くぞ」

奥の部屋から出て来た神永、そして他のメンバーが揃って彼の後ろを通り抜けた。熱視線を送る女達に愛想を振りまいていた各々が入り口へと足を進める。
時間にしてたかだか10数分程度の滞在時間だ。一体なにをしに来たのだと怪訝に眉を顰めた名前に気づいた波多野が口角を上げた。

「またな」

大きな掌が名前の頭に乗せられる。わしゃりと撫でられたその温もりに名前の胸は締め付けられた。
離れた掌、去りゆく背中を見つめて立ち尽くす。
カランと氷が鳴った。



「名前ちゃん、今日もお疲れ様」
「お疲れ様です」

長い夜が終わる。深夜を過ぎる頃までが名前の勤務時間だった。大学の講義があるからと言う尤もらしい理由で名前はこの業界では珍しい早上がりができていた。
名前にとって大学の講義ならぬ高校の授業など取るに足らないものであったが、身分は学生。無駄な詮索を避けるためにも学生らしさを装うことは必要だった。
鼻に残る香水を漂わせ、働き盛りのメンバーを尻目に裏口へと進む。
嗚呼、またあの冷えた場所へと戻るのかと深くため息を吐いた。




「終わったか?」

唐突に聞こえた声に名前は思わず肩を震わせた。気配もなく立っていた声の主に恐る恐る視線を遣る。淡白な相貌がそこにはあった。

「なんで、ここにいるんですか?」

まじまじと己を見る名前に彼は手に持っていた缶コーヒーをゴミ箱に投げた。

「またな、て言ったろ」

ガランと無機質な音が路地裏に響いた。名前は尚怪訝な顔を崩さない。
またな、とは確かに聞いた。しかしそれは店にまた来ると言う意味合いだと思っていた。否、誰が聞いてもそう思うだろう。まさかその日のうちに再会するとは思いもしない。
何を考えているのか想像がつかない現状に波多野はすぐに答えを出した。

「送ってく」
「………は?」
「こんな時間に1人でほっつき歩かせるわけにいかねぇから」
「……結構です、子どもじゃあるまいし」

態とらしくため息を吐き、じとりした名前の尖った視線を波多野は切り伏せた。

「子どもだろ」
「………え」
「お前、高校生だろ」

その声はやけにはっきりと名前の耳に届いた。確信を持った声だ。じっと名前を見据える波多野のまなこに曇りはない。
その真っ直ぐな視線をいなせば良かった。そう思った時には既に手遅れで、外してしまった視線は波多野の言葉を肯定してしまっていた。

「……だからなんだって言うんですか。見ず知らずの客に送ってもらうなんてそれこそ危ないでしょう」
「確かに見ず知らずだが、俺には送る義務があんだよ」

ん、と目の前に差し出されたそれに名前は目を瞬かせた。

「……警察?」

それは一般人には馴染みのないもので、刑事ドラマではお馴染みの警察手帳だった。顔写真は間違いなく彼で、名前も間違いなく彼だった。

「お巡りさんの言うことは聞くもんだ、お嬢さん」

ほら行くぞ、と半ば強引に手を引かれ、ネオン街の喧騒へと名前は誘われた。

男は女を、女は男を捕まえ惑わし惑わされるまるで魔都のような都心のクラブ街。若い男女が欲を絡ませることなど特段珍しくもないためか、波多野と名前が2人で進む姿は誰の目にも留まることはなかった。
波多野は名前の歩幅に合わせてゆっくりと進む。歩調は緩やかだが、掴んだ手は離そうとしない。

「どうしてあんなところでバイトしてんだよ」

低い声音だった。当然の質問であるにも関わらず、その低音に名前は口籠る。

「……別に…沢山稼げる以外の理由なんてありません」
「稼がないといけない理由があるようには見えないけどな」
「家が貧乏かもしれませんよ」
「身綺麗なくせにそれはねぇだろ」

名前の言葉に淡々と返す波多野に、名前はいよいよ口を噤んだ。何を言っても全てお見通しなところはやはりあの波多野という人間なのだ。
自分のを身を改めて確認する。都内の進学校に通う優等生、周りの人間の評価はオールAの生徒、
その名前を警察官という肩書きの彼が酒と女を提供する夜の店で見つけたということは即ちーー

「……馬鹿みたい」

ぽつりと自嘲を溢す。暗雲立ち込める歩みの先にいるのは、間違いなく己の両親だ。
上手くやってきた。優等生を演じ、友と語らい、冷え切った家庭を受け入れる良い子の仮面を被り、日々の生を生きてきた。
報いを受け入れて生きてきたと思っていた。
が、下らない日常か報いなどではなかった。

(彼らとの邂逅が報いなんだ)

知ってしまった己の昔、理解してしまった己の性。どれも自分がまっとうな道を歩むには善行が足りなくて、その道には靄がかかっている。
これは報いか、呪いか、自問したところで答えなどわかるはずもなかった。
再会した化け物たち、1人孤独に沈む己、こなしてきた現実の終焉。
先に待っているままならない現実に嫌気がさした。

「勘違いしてたら悪いけど」

鬱屈した表情の名前に、波多野がくるりと振り返った。

「俺は別にお前のことを親に言うつもりはないから」
「………は?」

鳩が豆鉄砲を食ったような相貌だったのか、くつくつと波多野は声を殺して笑った。
その姿に名前は食ってかかる。

「な、に…何言ってるんですか貴方!警察官でしょ?!」
「俺の仕事はお前を送り届けることだけ。あとは知らぬ存ぜぬだ」
「……馬鹿なんですか」
「馬鹿な方が良いんだろ?」

ぽすりと頭に乗せられた掌の重みに困惑しながら、名前はどこか安堵していた。ほっ、と胸をなでおろしてしまったその事実に気づき、感情が迷子になる。
形容しがたい名前の感情を悟ったのか、波多野は眉尻を下げた。

「馬鹿な警察官は、子どもの困った顔に弱いんだよ」
「……なんですか、それ」
「そのまんまの意味だ。まぁ、危ねぇから送迎だけはする。これが条件だ」
「……なんで、そこまでしてくれるんですか」

先立つのは感謝より疑問だった。
言い方からして彼にあの頃の記憶はない。名前を本当にただの高校生だと認識しているごく普通の社会人。
何故、どうして、と波多野を見つめる名前に彼は空を見た。

「……さぁな、俺もよくわからねぇ」
「はぁ…」
「ただまぁ、あれだ」


ーー放っておけないんだよ、お前。


どくんと心臓が跳ねる。
ふわりと笑った彼は、ひどく美しかった。その笑みに名前の鬱々とした感情が浄化されていく。

手放したはずの微睡みは、冷えた世界に身を置いた彼女にとって、眩しく暖かかった。


ーーー


こんにちは新しい世界