部下心

「風見さんってストレスでいつか禿げそうですよね」

自分より若い上司の残務処理のために二徹目に突入した深夜、デスクでキーボードを叩いていた風見裕也は部下のそんな一言に固まった。たっぷり三秒は置いただろう。切れかかった室内灯が立てるカチカチという不規則な音が二人の間に流れ、のちに風見は思わず唸るような声を出した。

「は?」
「だから、禿げそうだな、て」
「言葉の意味くらい何度も言わなくてもわかる」
「そうですね」
「お前、なぁ…」

長く深いため息が風見から漏れた。こめかみを抑えて天井を仰いだ風見をよそに、部下は彼を一瞥もせず黙々とマウスを動かしている。変わらない声のトーンと振る舞いに、風見は恨めしげにその様子を視界の端にとらえた。
風見の部下、苗字名前は奇妙な女だった。風変わりな人間の多い公安部の中でもとりわけ奇妙な女だった。
まず第一に、表情がひとつも変化しない。喜怒哀楽の起伏があるのだろうかと思うほどだ。誰と話そうと、どこで話そうと、何が起ころうとのっぺらぼうのように表情筋は仕事をしない。相好を崩すことが、激情に駆られたことが人生で一度でもあったのだろうかと試しに尋ねて見たときも、やはり眉ひとつ動かすことなくさらりと答えた。

『そりゃあ、ありますよ』

何を言っているんだあなたは、と言わんばかりの返答だった。自分は人間だロボットじゃない。感情があるんだから表情にも出る。淡々と手を動かしながら説明した部下にしかし抱くのはやはり疑念だった。なにせ、風見は…否、おそらく部署の誰も見たことがないのだ。
このように、著しく感情の起伏が乏しいことに加えて彼女にはもうひとつ奇妙なところがある。

「若年性の禿げはストレスが関わっていることが多いらしいですよ」
「……それが、どうかしたのか」
「別に、どうもしません」

これだ、これなのだ。何か重要な案件の話が振られることより圧倒的に多いこの無意味な問答。しかも、大概は風見に関する事柄だった。風見は将来胃炎で早世しそうだとか、人が良すぎるから上に立つことは困難だろうとか。
若干貶されている気がしないでもないが、本人の相貌からは蔑視の意図が見えないためおそらくただ会話をしたいだけなのだろう。世間話としてはおそろしく味気なく毒の含まれた内容だが、苗字はそう思ってはいないようだった。
カチカチとマウス音が室内に響く。何人かの課員は仮眠室で休憩を取っているため、室内にいるのは風見と苗字だけだ。

ーーそういえば。

ふと、風見は思い出した。無表情で黙々と作業をこなす部下にちらりと視線を向けると、風見の視線に気づいているのかいないのか、彼女は彼を一瞥することなくパソコン画面と見合っている。

そういえば、ここ二日は彼女の顔をずっと見ている。

奇しくも、ストレスで禿げる、という言葉から気付いたが、二徹目に突入した自分と同じく彼女もまた此処にいるのだ。
自分より若い上司は潜入捜査の最中のため、関係書類の処理を風間が代行することはよくあるが、そのせいか風見が行う処理もまた滞っていた。上司と所属が違うものの、その上司からの依頼を手早く且つ不自然のないように処理をするのは風見の役目だ。
表立って動けない上司の代わりに雑務を引き受ける。その作業ははっきり言って楽ではない。そんな風見がこなしきれない庶務、人目に晒されている公安の表の処理を、彼女は黙々とこなしてくれている。
年若い娘がこんなハードワークをこなしていると知ったら親御さんはさぞ心配されるだろうと危惧したこともあったが、彼女は小首を傾げた。

『それを承知で送り出してくれてますから』

動かない表情筋は一体彼女が心内で何を思案し、感じているのかを教えてはくれない。
しかし、奇妙で不思議な部下はその能面の下に誰よりも熱い信念と思いを持っているのかもしれないと、目の下に隈を作りながら作業を進める彼女を見やった風見は徐に立ち上がった。

「休憩ですか?」

入口へと向かった風見に視線を崩さず問いかけた苗字に、「ああ」と一言返し廊下に出ると、風見は廊下をまっすぐに進み、目当ての場所で足を止めた。スマートフォンをかざした後にボタンをひとつ押し、ガコンと落ちてきた品を手に取ると足早に部屋へと戻る。
「早かったですね」と部屋に戻った風見に、苗字が一瞬だけ目をわずかに瞠った。休憩といえば十五分程度は戻ってこない風見がものの二分弱で帰ってきたものだから、当然と言えば当然だ。
珍しいものが見れたと内心笑みを零した風見はそのまま彼女のもとへと足を運ぶ。大股で自分に近づいてきた風見に、彼女は今度は体を硬直させた。
蛇に睨まれた蛙よろしく固まってしまった彼女に、風見は手に持っていた品を差し出した。

「……野菜ジュース?」

目の前の缶にプリントされた名称を読み上げた彼女は眉を顰め、風見と缶を交互に見遣る。

「風見さん…これは」
「お前、寝ていないだろう」
「え」
「もう何日、家に帰っていない?俺より前からここにいるはずだ」

意図せず咎めるような口調になってしまった。言い方がきつかったかと自省したが、当の本人は風見の心中より行為そのものが気になるらしい。

「仕事ですし。というより、何故野菜ジュースなんですか」
「どうせろくなもんも食べていないなら、せめてこれくらい飲んでおけ」
「野菜ジュースで栄養はとれませんよ?」
「き、気休めだ!それくらい分かっている!」
「気休めも別に必要ありませんが…」

本気で風見の意図が分からないのか、苗字は首を傾げて風見を見上げる。室内灯に照らされ、前髪の影が目元に落ちているためか、隈ができている相貌は余計に血色悪く見えた。
体調管理など自分でできると言わんばかりの声音と態度が風見の語気を強めた。

「いいからっ!休め!」

回りくどくないシンプルな命令だ。ガンっ、と野菜ジュースをデスクに叩きつけるように置いた風見は腕を組み彼女を見下ろす。威圧感たっぷりの態度だ。
ここまで言えば、少しは響くだろうと踏んだための行為だったが、風見の予想に反して彼女は僅かに顔を歪めた。

「……いやです」
「は?」
「別に休まなくてもいいです」
「お、まえ……だいたいっ!俺より前から働き詰めで仮眠もまともにとっていない体で、何かあったらどうする気だ!」
「それは風見さんも同じです」

ああ言えばこう言う。風見の計らいも、気遣いも撥ね付けて尚パソコン画面に向き合う部下は頑なに己が手を休める気配を見せなかった。
クリック音とキーボードを叩く音が無情に響く。
不遜な態度の部下に風見の語気はますます強まった。

「俺はいいんだ!今はお前の話だろう!」

隣室の同僚が起きやしないかと思うほどの声量だった。室内の空気を震わせた声音が、緊張の糸を貼る。しん、と静まった空気感に風見はハッとした。
言いすぎた。風見は自身の声が鼓膜を盛大に揺らしたことで感情に任せた己の行為を恥じた。
何を感情的になっているのかと、ひとつ息を吐いて瞬き、彼女に視線をやった風見は、視線の先で捉えた彼女に息を呑んだ。

「……苗字?」

口を真一文字に結んだ彼女は珍しく、思わず目を瞠る。
その表情に呆気にとられていた風見を、彼女は勢いよく見上げて、そしてー


「風見さんだってっ!…倒れたら、元も子もないじゃないですか!!」


風見に負けないくらいの声量で、叫んだ。
ぽかんと口を開ける風見に彼女は続けて言葉を投げつける。

「いつもいつも!仕事引き受けて、大して下に振らずに自分で処理しようとして!キャパオーバーで庁舎に寝泊まりしているくせに私に休め?!寝言は寝て言ってください!」
「……苗字…?」
「いつも、いつも!どうして風見さんは頼ってくれないんですか!それだけ抱え込んだらストレスばっかりで禿げて、最悪、いつか倒れるかもしれないんですよ!だから、」

一拍置いた彼女は風見から視線を外して俯いた。
振り上げた感情を、彼女は最後に静かに吐露した。


「だから、ちゃんと自分を大切にして下さい…」


ストレスで禿げる、と結びついたところでは形容しがたい気持ちを覚えたものの、その言葉に風見は合点がいった。
昂ぶった感情を爆発させた彼女を、風見は冷静に見ていた。

正直、意外だった。

冷静沈着、常に能面をつけているかのような相貌で仕事をこなす彼女の声を荒げるところなど風見は一度たりとも見たことがない。否、風見だけではない、公安で働く同僚は皆そうだろう。
故に、彼女の感情の爆発には些か驚きを覚えたが、彼女の今までの行動はすべて、自分に行き着いていたことを風見を理解した。
ストレスで禿げる、胃炎になる、散々な遠回しな忠告。人が良すぎる、などの苦言。無意味な会話のように見えていたそれは、ただの彼女からの優しさだった。

休んでくれ、頼ってくれ。

言葉で届かない想いを行動に託して、彼女は風見の補佐を進んでこなしていたことに風見はようやく気付いた。表情に見えづらく、言葉数も少ない彼女なりの気遣いが、震えた声にすべて込められていて。

「苗字」

故に、風見が発した声音はひどく柔らかなものとなった。

「すまないな。いつも無理をさせる」
「……無理をしているのは、風見さんです」
「……そうだな。だからこそ、お前にも無理をさせているだろう」
「風見さんの量に比べたら、普通です」

落ち着いた声ながらも、その相貌には僅かな不満が漏れている。
風見は目尻を下げると、ふっと笑みを零した。

「……なら、少し休むか」

風見の言葉に苗字が大きく目を見開いた。年相応の顔貌に風見の頬は思わず緩む。「なんだその顔は」と苦笑まじりに聞けば、彼女は視線を泳がせた後にぽつりと呟いた。

「てっきり、自分は休まなくても大丈夫だ、て言われるかと思って」
「俺だってロボットじゃない、人間だ。そんな化け物じみたことできないさ」

約1名、その程度のことはこなせる、と軽い口調で宣いそうな人間を知っていることは心に留めておこう。
風見は苗字の処理していたPC画面を保存すると、電源を落とした。呆けた彼女の頭をくしゃりとひと撫ですると、仮眠室へと足を運ぶ。

「こっちはいっぱいだろうから、ソファで寝ていろ」
「……風見さん」
「俺も休むんだ。お前も、多少なりとも体を休めろ」

いいな、と念を押せば、コクリと頷いた部下はデスクの引き出しからブランケットを取り出すと、室内の端に設置されたソファへと移動した。大の男が寝ても支障ないソファだ。小柄な女性が寝るには十分だろう。
きちんとソファへと移動した彼女を横目で確認し、風見も仮眠室へと足を進めようと彼女に背を向けた刹那、「風見さん」と声がかかった。
緩慢に振り返った風見と彼女の視線が交錯する。
交錯した視線と、瞳に映った彼女に風見の時は一瞬止まった。


「おやすみなさい」


それは、朗らかな笑顔だった。


「……ああ、おやすみ」


ひとつ大きく跳ねた心臓を知らないふりをして彼女に背を向ける。

風見は足早に仮眠室へと入ると後ろ手に素早く戸を閉めた。そのまま、戸に背を預けてズルズルとその場に座り込む。深いため息を吐くと片手で顔を覆い、天井を仰いだ。

なんだ、あれは。

そしてなんだこれは、と自問する。

心臓の音が、五月蝿い。
鼓動が、早い。


「……本当に死んだらどうしてくれる」


困ります、と詰め寄る彼女の幻影に悪い気がしない心内は、新たな悩みのタネになりそうだった。