道の先に、待つ君を

昔から、欲しいものなんて何もなかった。
望めば好きなものが手に入る環境だった。裕福な家庭、都内の一等地に居を構える両親の仕事は研究医と開業医。不自由をしたことなどひとつもない。
さらに、与えられたのは物質的なものだけではなく、両親の頭脳も引き継いだようで、昔から勉学に困ることはなかった。記憶力が良い、というのか、渡された課題はするりと紐解くことができて、足りないと言わんばかりに、知的好奇心を満たすため両親を利用して高い教育を所望してきた。
運動もそれなり、だ。長年続けてきた空手は有段者となり、そこらへんの暴漢から身を守る術くらいは付いている。
恵まれていた自覚はある。
故に、置かれた環境の影響か、手が届かない何かを見ることが、なかった。


(性格悪い子どもだったなぁ)

我ながら可愛くない、と苦笑する。苦笑した刹那、右脚脹脛に走った痛みに顔を歪めた。その痛みが、現実を如実に認識させて名前は辺りを見渡す。
埃かぶった室内には瓦礫が散乱している。鉄骨と鉄骨がぶつかって軋んでいる音があちらこちらで確認された。爆発音が大小響いているところを見ると、まだ発火物は建物内に残っているようだ。
取り敢えず、視認できる範囲に人影がないことに胸をなで下ろす。唯一の脱出路だったドアに瓦礫が落ちてくる直前に知人達をそこに押し込めたことは幸いだった。瓦礫で塞がれる刹那、泣きそうな瞳をした眼鏡の少年のことは気掛かりだったが、聡明そうな少年のことだ。彼と同じように押し込んだ仕事仲間のことを導いてくれるだろう。
むしろ、気掛かりなのはその仕事仲間のことだった。

初めは、いけ好かない男だと感じた。褐色の肌、柔和な笑み、どこからどう見てもただの好青年なその佇まいを見たその瞬間から、名前の警戒レベルはマックスまで上げられた。
彼と会ったきっかけは、彼が働いている喫茶店へ入店したことだ。仕事帰りにふと寄った、そんな場所…ではなく、それは単なる好奇心だった。
眠りの小五郎がよく来店する時間に合わせて入店し、彼を観察する。そんなただの、いわば遊び。
しかし、名前の職業は探偵ではない。一サラリーマン、とある企業の調査員だ。企業にアポイントを取り、クライアントに情報を渡す。
人の表情ひとつから自分の雰囲気を作り出して別人のように相手をする仕事は、ルーチンタスクをこなすより面白味があった。
観察、というものが趣味になっていたのかもしれない。ゆえに、情報通の仲間から入手した眠りの小五郎の基本情報を頭に叩き込んで調査という遊びを楽しもうと足を運んだのだ。
しかしながら、その足を運んだ先で名前の前に立ちはだかったのがあの男だった。
眠りの小五郎の様子を観察していた時、何気なく本を読むふりをしながら視線を文字から外すと、必ずと言っていいほど眠りの小五郎を隠すように彼が立っていたのだ。当然ながら視線がかち合い、そのたびにあの胡散臭い笑みがこちらに注がれる。妙だと思いながら愛想笑いで返して再び同じことをやろうとすれば、向こうも同じように返してくる。
わざとだ、と気付いたのは五度立て続けにそれが起きた時だった。
気付けばもはやカモフラージュするのもバカバカしくなった。本を読むフリすら面倒だと、堂々と、しかし周りに気づかれないように彼を観察しようとした時、男は徐ろに近付いてきた。何事かと僅かな動揺に冷や汗が背筋を流れる。コーヒーカップがテーブルに置かれた、須臾に低い声が同時に落とされた。

『少し話をしないか』

それは、店内で見ていた男とは別人のような声で、名前の背筋はぞくりと震えた。その震えが男の異質さを物語っていた。
ばっと見上げた男の相貌は相変わらずの優男。軽くウインクした男とその声は一致しないというのに、間違いなく己にかけられた声は男のものだ。
人を観察する目に自信がある名前にとって、男、安室透との邂逅は人生で初めて経験した、驚き、だった。


(最初のいけ好かない印象は当たってた、よね、これ)

過去を追想し、自分から彼への散々な印象に思わず笑いが吹き出す。ガランとした室内で、自身の小さな笑い声がやけに響いた。
ひとしきり笑った後で、自分の置かれた現状を俯瞰して見つめる。
右脚の痛みは消えてしまった。それが、医学的にどのような意味を持つのか分からないわけではない。とりあえずは、医者の娘だ。
二十半ば、世間から見たらどれほど痛ましい事件になるかと妙に人ごとのように捉えていた時、スマートフォンのコール音が鳴った。よく電波が届いたな、と驚きながら通話画面を見た名前は僅かに眉をひそめる。が、そのままボタンを押した。

「どうも、さっきぶりですね」
『軽口を叩いている場合か!』

電話越しに届いた怒号に、思わずスマートフォンを耳から遠ざけた。

『今、そこへ行くルートを探している。俺が行くまで持ちこたえろ、命令だ』
「無茶言いますね。私、貴方の部下でもなんでもないですよ」
『協力者は協力するのが義務だ』

いつもの冷静沈着さはどうしたと、褐色肌の彼を思い浮かべる。例の邂逅の後に知った彼の本性は実に興味深いものだった。
喫茶店の人気店員の好青年、とは真逆の存在。
安室透、本名、降谷零は、公安警察の人間だった。名前が感じた畏れ、違和感、それは彼がいくつもの顔を持ち、巧みにそれを使い分けて任務を遂行することに起因しているものだったのだろう。

その時、彼という存在を名前は理解した。そして己の存在を俯瞰し、彼と見比べる。

それは、まるで自分の上位互換のようで、


「……嫌い、だったなぁ」
『は?』
「降谷さん、私、ね、貴方のことー」



嫌い、と思ってしまった。



何かを欲することなんてなかった。望めば手に入る、モノ、知識、人。自身の能力を駆使すれば、全てが万事うまくいっていたというのに、ぽっと出てきた異質な存在が全てをかっさらっていた。
彼は、自分に協力者になれと言った。公安捜査官が持つ民間の駒、それが協力者だ。IT企業やマスコミ、官公庁など至る所に協力者は存在するようだが、彼の仕事の一翼を担うように名前は依頼を受けた。
彼の申し出に、名前は呆然としたのを覚えている。
何を言っているのか分からない。
思考の整理に時間を要していた名前に降谷零は肩を竦めて言い放った。

『できないなら無理強いはしないが』

二つ返事で了承した。
反骨精神だったかもしれない。しかし、初めて出会った追いかけるものに心が踊ったこともまた事実だった。
それからの名前の日々は、一変した。
企業調査をしながら、与えられた人物(ターゲット)の身辺調査も行う。情報は、喫茶ポアロか街中のカフェなどで手渡すか、内容が多い場合はメールで送信した。時折、法律すれすれのオーダーを出された時には電話口で悪態をついたことも記憶している。その度に、彼は涼やかに『できないなら、良いが』と宣ったため、オーダー通り、もしくはそれ以上の情報を集めてきてやった。

上位互換が嫌いだった。
それでも、その行為に自分が歓びを感じていたことを名前は自覚していた。


『……苗字?おい、苗字!』

薄ぼんやりとした思考が、怒声によって覚醒する。思い出の海に溺れそうになっていた思考が浮上し、現実を認識した。

『返事をしろ!』
「……生きてますよ、一応」
『なら喋り続けろっ、意識を飛ばすな!』
「……降谷さんが、耳元で五月蝿くしたら良いんじゃないんですか」
『っ、鬱陶しいくらい怒鳴ってやろうかっ』

それはそれで嫌だ、と苦笑しながら、降谷の切羽詰まった声音に名前は眉尻を下げた。らひくない、声だった。

彼は、状況を分析できないほど愚かではない。

高層ビルの上階、建物の崩落の危険性、発火物への引火、そして負傷した右脚。情報を統合して、現状を認識することなど造作もないはずだ。
降谷の任務に補佐として同行したことが、彼に罪悪感を強いてしまっているのかと危惧したが、返事に頷いたのは名前自身だ。負い目を感じる必要はない。

ーー嗚呼、それでも。

思い浮かべた彼の相貌に、自然と言葉が紡がれる。


「やっぱり…、私、降谷さんの、こと」


この人は、


「嫌い、です」


優しいのだ。


降谷零は責任感が強くて、何よりも任務を遂行することに貪欲だ。使えるものは使う。利用できるなら全てを、たとえそれが違法なことであっても利用し尽くす。
それでも、非情、無情な男かと言われれば答えは、ノー、だ。真逆なのだ。
彼は、諜報員としては優しすぎる。
ある日、彼の素性が気になり探ったことがあった。人を使い、知識を使い、最後には違法行為に若干抵触する行為にも手を出しながら探った結果、名前は彼のもうひとつの顔を知ることができた。
酒の名前の組織。違法、人殺し。

バーボンというコードネーム。

それを知った時、随分と危ない団体に潜り込んでいるとゾッとしたと同時に、彼が何故、常に気を張っているかも理解できた気がした。
三つの顔を持ちながらの生活において、必要以上の他人との接触、さらに言えば懐に他人を入れることはリスクにしかならない。それは、自分だけではない、相手も危険に晒すことになる。
降谷零は、決して協力者を、周りの一般人を犠牲にできない。巻き込んでしまった相手を、意地でも守る気概と覚悟を兼ね備えいる。やっていることは裏の仕事でも、警察の鏡のような男だった。
むしろ、それを悟った時の自分の方が、よっぽど薄情だった。
切り捨てれば良いのだ。目的が大きすぎる上にリスクも高いなら、瑣末ごとなど切り捨てれば良いのに、彼はそれができない。できてしまったら、きっと彼は降谷零でなくなってしまうのだろう。


だからこそ、彼の冷徹な瞳に時折宿る柔らかな色を名前は目敏く見つけてしまった。


「嫌い、です。降谷さんの、そういうところ、きらい」
『ッ、嫌いでもなんでも良いから、……死ぬなっ!』

苗字!、と自分を呼ぶ声が遠くに聞こえた。必死な形相が目に浮かび、そして感情的になっている彼の人間的な一面のワンシーンを名前は思い出した。

きっかけは、些細な会話だった。
喫茶ポアロで情報の受け渡しをした後、店員の梓と共に何気ない話に華を咲かせていた。諜報員である降谷と違い、名前は普段はただの一サラリーマンだ。華の二十代、更には梓とは年も近い。やれ結婚だ、適齢期だ、とため息混じりに話していれば、丁度客に出すサンドウィッチを作り終えた降谷が厨房から出てきた。「なんの話ですか」と聞く彼に、梓がそっぽ向く。

『安室さんはきっと幸せな結婚をされるんでしょうね』

純粋な梓の言葉に、咄嗟に名前は安室透ではなく降谷零、そして例の組織に潜入している彼のもうひとつの姿を思い浮かべた。
幸せな結婚、とは彼にとってどのようなものなのだろう。
それは実現可能なのか。
そもそも、彼はそれを望んでいるのだろうか。
さまざまな疑問が脳裏を飛び交い、答えを求めるように彼の表情をじっと見つめた。
きっと彼は、さらりと安室透の笑みでかわすのだろうと、思っていた。

『そうですねぇ』

けれど、その声音から、名前の予想は裏切られて、そして悟らざるを得なかった。

一瞬だけ、されどその一瞬見えた、彼の顔貌。
その顔貌が物語る、彼、の素顔に、息が止まった。


『そうなると、良いんですけどね』


それは、彼の願望。
三つの顔を持つ彼が抱いた、ささやかな望みが込められた表情に、名前は悟った。
彼の視線の先の彼女は、その瞳の色を知らない。三つの顔を持つ男が見せた、ひどく情緒的な顔を、当の本人が気づいていないというのにーー

(なんで、私が気づいちゃったかな)

過去の思い出に苦いため息が漏れる。
誰かの嫌がらせかと思った。何故なら、同時に己の心に芽生えていただろうささやかな想いにまで気づいてしまったからだ。
知らなければ良かった。深入りしなければ良かった。何も知らないふりをできれば良かった。

そもそも、出会わなければー

望めば手に入るものばかりで構成されていた世界を一変させた彼を、ひどく恨みたくなり、それすらできない世界の不条理に泣きたくなった。

『苗字!』

それでも、必死に己を呼ぶ彼に帰る場所ができるなら、この幕引きは上々かもしれない。

爆発音が聞こえる、すぐそばだ。発火物がまだあると仮定すると、この建物の構造上、これ以上は危険だ。
名前はスマートフォンを握りしめた。

「降谷さん」

呼吸が荒い。整えようにも、身体の限界は近いようだ。おそらく、彼にその限界は伝わっている。『なんだっ』と先ほどより一回り焦りの募った声が聞こえ、思わず唇を噛んだ。

そんな声を聞きたいわけじゃない。
それでも、聡い彼は分かってしまう。
なら、伝えるべきことを、伝えなければいけなかった。

「犯人を特定できそうな情報を、貴方のPCにメールで送っています…帰ったら、確認、して下さい」
『おま、っ、今はっ!』
「分かっているはずです」

ピシャリと、か細い声ながらも凛とした声音で言い放つ。

「……右脚の感覚はもうありません。意識も、混濁しかけています。この階は10階、唯一の脱出扉は瓦礫の山……爆発の影響で隣室で、火災が発生、酸素濃度も低下しています…更に言えば、もうこの階は、崩落する、可能性があります」

彼ならもう理解している情報を、呼吸を整えながら敢えて淡々と説明していく。

「降谷さん、もう、いいですから」

状況はもう、好転しようがないのだ。

「戻ってください」

選択肢は残されていない。

スマートフォンから聞こえるのは、サイレン音や人の怒号ではない。明らかに、建物内部の軋む音や小規模な爆発、瓦礫が落ちる音だった。小さな彼は外に逃がしているだろう。
彼が今何階にいるかは分からない。
ただ、今の状況を俯瞰できないほど彼は愚かではない。

「もう、ルートも時間もないことは、分かって、」
『っ、ふざけるな!何があっても、俺はっ、』
「いい加減にしてよっ!」

なけなしの力を振り絞って叫んだ声に、電話口の彼は言葉を止めた。
もう、気力も体力も残されていない。思考する力も、取り繕う余裕もない。言いたいことをまとめたくても、まとめられないのだ。

伝えたい思いがあったのかもしれない。
届けたい言葉もあったかもしれない。
楽しかった、嬉しかった、悔しかった、泣きたかった。
ぐちゃぐちゃになった想いを吐き出したくても、それよりも大事な言の葉がある。

今望むのは、そんなものじゃない。


「貴方は…まだ、死ねないでしょう、だから、お願い」


生きて、そしてー



「帰る場所を、間違えないで」



死なないで。



静寂が広がったようだった。周りの音も、焦げた匂いも分からない。ただ、電話の向こうの彼の気配だけが、ひどく近く感じられた。

どれだけ時間が経ったか分からない。
ひとつ、息を短く吐いた彼が言葉を告げた。

『苗字』
「……はい」
『……待っていろ』
「………ええ、首を長くして、待っています。降谷さん、」



お気をつけて。



言葉を告げると同時に終了ボタンが押され、互いに通信は切られた。
最後に告げられた言葉に安堵したのか、一気に体から力が抜け、視界が霞んだ。



欲しいものなんて、なにもなかった。
望むものはすべてが手に入った。
能力は申し分なく、人生においてイレギュラーはなかった。

ただ、ひとつ。
ただ、唯一。

それだけは、永遠に手の届かない場所にあったがそれもまた、ある意味では、望んだものだったのかもしれない。

何も聞こえない。薄れゆく意識と視界の中で、広がる充足感に酔い痴れる。
徐に、燃え尽きた感情が言葉を綴った。



「降谷さん、」


『 』



最後に溢れた言の葉は、轟音とともに空へ帰った。







けたたましいサイレン音が鳴り響く。警察、消防、一般市民、雑多な音が鼓膜を刺激するもののそれは直ぐに耳を通り抜けていった。
一際、大きな悲鳴が辺りを包む。
刹那、轟音が建物を覆い、上層部分が数階分崩落するのが確認できた。

的確な分析、それは苗字名前の強みだった。

いつ、どこで、いかなる状況でも常に現場を俯瞰して必要な情報を収集、統合して、最適解を見つけ出す。その手腕は、潜入捜査の第一線で暗躍する降谷から見ても賞賛に値するものだった。

信頼していた。
背を預けていた。

公安で数多くの部下を指揮する降谷にとって、民間の協力者としてそこまでの信頼を置く人物は彼女以外にはなかった。

あの時、瓦礫の山が扉を塞ごうとした刹那、小さな彼と彼女を外へ突き飛ばそうと動く前に、彼女は華奢な体躯からは想像もつかない身のこなしで自分と彼を外へと押し込んだ。彼を自分へと投げ、彼を受け止めたことで反応の遅れた自分の背を扉の向こうへと突き飛ばす。扉を超えた瞬間、体を捻って振り返った彼女は、笑っていた。
あの状況で、躊躇することなく彼女は自分と彼を逃したのだ。警察官でも消防士でもない、ただの一般人の、彼女が。
降谷零は、協力者に命を救われてしまった。


『帰る場所を、間違えないで』


振り絞った声でそう告げた彼女はどんな表情だったのだろう。潜入捜査官として観察眼は優れていると自負しているにもかかわらず、その答えに行き着くことは、もう、できない。
ただ、闇雲に建物内を走っていた降谷は、そこで足を止めた。

お願いだ。間違えるな。

先のない状況で、彼女が願った言葉に逆らうことはできなかった。

「苗字……」

言葉の意味すら、もうわからず終いだ。
帰る場所、それをどのような意味で彼女が用いたのか、今の降谷には知る術がない。いつか知ることができるのかも分からない。

だからこそ、
まだ、死ねない。
生きて、見つけて、そうして最後に行くのだ。
待ち続けている彼女に会いに行く。
首を長くして待っている彼女を見つけたら、言葉の意味を問い詰めてやる。


「待っていろ」


いつかの時まで。