煙に包まれ、甘い香り

喧騒が消えない街、ネオンが照らす夜の歓楽街は人の眠りを妨げる。人々は夜を愉しみ、そして時折蝕まれながら宴を楽しんでいた。

凡ゆる欲望が入り乱れて、煮込まれているような街の更に奥には、欲とは対照的に闇に支配された地域があった。人種の坩堝ともいえるその地域には、アジア系のマフィアから宗教団体、裏社会のバイヤーなどさまざまな住人が犇めいていた。昼夜問わず、闇取引が行われる地域はいくら警察組織が監視していようと、包囲網の目を抜けてネズミのように多くの取引が交わされる。
その地域の一角に寂れたビル、今にも崩れそうな外観に似つかわしくない看板が一階入り口付近に建てられているビルがあった。
ピンクのネオンが輝くそのビルのエントラスには眼に妖しい色を湛えたウエイター姿の男が立っている。男はアベックで立ち寄る客らをホテル内へ誘導していた。

そこへ、1組のアベックが現れた。男の年は五十代くらいだろう。仕立ての良いスーツは男の社会的地位を表していた。
対する女は、厚化粧に露出度の高いワンピースにボレロを羽織った、夜の女を体現しているような容姿だった。
男は、隣に居る女の肩を抱いてホテル内部へと足を進めた。女の茶がかったウェーブをかけた髪からはひどく鼻に着く香水の匂いが漏れている。男は女の肩筋に顔を埋めてその匂いを嗅ぐと満足そうに喉を鳴らした。


角部屋の一室で、男と女は、一夜を過ごした。
ひどく、茹だるような暑さ。熱気が肌に伝わって、欲望が掻き立てられる。
男は女の名前をしきりに読んで腰を振った。その名を呼ぶたびに己の竿を締め付ける女に男は気を良くし、熱を穿ち続ける。蠱惑的な女の視線が男に向けられ、劣情を孕んだ言葉が男を犯していく。

もっと、好き、愛してる、壊して。

首に腕を回して、己の耳元でそう懇願する哀れな女が堪らなく愛しい。背筋を駆け上がる高揚感に身を任せて男は女を抱き潰した。嬌声を響かせて男に欲を請う女の姿は、支配欲に駆られた男には極上の獲物だった。しなやかな肢体、回された腕と指先、全身から吹き出る汗すら催淫剤のように男を色欲へ誘う。
もっと、もっと、もっと。
深みに嵌る快感に酔い痴れ、夜は更けていった。

「君みたいな女が側にいてくれたらな」

男は、情事の最中ふとそんな言葉を漏らした。「どういうこと?」と愁眉を湛えた女に男は乾いた笑いを漏らした。

「女ってのは、陰のある男に付いていっちまう。俺のところにいた女はそうだった」

「ひどい女ね」女が男の頬を優しく撫でた。慈愛が込められた指先を男はそっと握る。女の相貌に男はひどく安堵し、眉尻を下げるとその首筋に吸い付いた。くすぐったそうに身をよじった女はくすりくすりと笑いながらも男の愛を享受する。
男は女の首筋につけた鬱血痕ににたりと笑みを深めると「ひどい話さ」と自嘲気味に笑った。

「日本の内調に単身で潜り込んでいる孤高の存在。そんな奴の手助けをしたいと消えやがった」

鬱屈した感情が蘇る。惚れ込んだ女に逃げられた過去が男の忌々しい記憶を呼び覚まし、思わず顔をしかめる。「大丈夫?」と男の頬を撫でた女に、この感情を共有してもらおうと男は情報をさらに舌に乗せた。

「そいつはな、しょうもねえ男なのさ。一年前に内調に潜り込んだだけで、大した成果も上げてない。おまけに、最近ヘマをしたらしい」

「ヘマ?」と女は眉をひそめる。男は憎い男の相貌を思い浮かべたのか、短く舌打ちをすると女に語った。


「そいつはなァ」







蛍光灯の灯りが明滅する、外光の入らない薄暗い廊下の一角。古びた長椅子に腰を下ろし、降谷零は天を仰いでいた。目頭を押さえながらきつく目を瞑っている。目の下にできた隈の濃さが彼のここ数日の日々を物語っていた。
降谷零は長期の潜入任務の傍ら、上層部から依頼される短期任務も請け負うことがある。国内過激派幹部の尾行、盗聴、多岐に渡る裏の任務が重なったため、ここ数日はろくな睡眠をとっていない。
それでも、足を止めるわけにいかないのが、降谷零だった。身を粉にしてでも任務を遂行してこの国を守る、その決意が胸にあるからこそ降谷零は公安警察の一員としての気概を持って職務に当たることができるのだ。泣き言なんて犬に食わせておけばいい。
現在、降谷は炙り出し作業に追われていた。

政府の国防機密事項が某国へ漏れている。

上層部から伝えられた情報に降谷は耳を疑った。
当該機密資料には日本国における防衛整備計画の仔細が記されていた。決して他国、いや自国ですら公にしてはいけない機密性の高い情報が漏れている。その事実は公安警察を震撼させた。
上層部からの任務内容は、情報漏洩者の特定。対象を見つけ次第、あとの処置は上層部が請け負うとのことだった。泳がせるか、或いはこちらに引き込むか。それは自分の管轄ではなかったので、ひとまず降谷は対象者の絞り込みに専念することにした。
情報にアクセスできる権限を持つ人間、決して末端の一官僚などではない。
降谷は各省庁の人間をくまなく検索した。各省庁に当該情報を知り得ることのできる人間はいる。リストアップされた対象者は決して少ない数ではなかった。
一覧に目を通したあと、そこからの炙り出し作業に効果的な手法を考えた時、降谷の目に付いたのは、情報が流出した某国の外務官僚のデータだった。
家族構成、経歴の他に趣味趣向がまとめられたデータの中に見えた文字。

酒癖、女癖が悪く、手を出すのが早い。

いつの時代であっても、この手の人間の丸め込み方は大して変化はない。
降谷の脳裏に浮かんだ手法、そしてそれを遂行するための人員が割り出された。


(……下らない)

一連の自分の行動を追想し、降谷は鼻を鳴らした。
目にした情報にも、そして己が選んだ方法にも、虫唾が走る思いだった。

「降谷さん」

物思いに耽っていた降谷に声が掛けられた。無機質で平坦な声音は聞き覚えのあるもので。降谷は緩慢に声の主を見やった。
陶器のような肌、薄い唇、まとめた髪は艶やかで若さを象徴している。しかしながら、瞳はひどく冷然としていて、声音と容姿が伝える年若さとは些か噛み合っていなかった。
降谷は、自分の部下である彼女に短く尋ねた。

「収穫はあったのか」

同じ声のトーンで尋ねた降谷に、女は胸ポケットからICレコーダーを取り出した。

「潜り込んだネズミは特定しました」

カチリとレコーダーの再生ボタンが押される。


『任務外の機密情報を持ち出したせいで、公安警察が動く羽目になったらしいんだ。馬鹿だよなぁ、せっかく審議官にまで上り詰めたくせによ』


「マトは、内調の黒川審議官。5年前に公安調査庁総務課を経て現職に。総務課時代から向こうと繋がりはあったようです」

降谷は差し出されたレコーダーを受け取ると、対象者の顔貌を思い浮かべた。リストの中でも要注意人物としてマークしていた男だ。黒川鉄。情報官からの信頼も厚い有能な男だったが、某国の外務次官との密会をここ数年で繰り返していた。
疑われたスパイに価値はない。顔の割れてしまった男に己を重ねる。
三つの顔を持つ降谷にとっても人ごとではなかった。こうやって、第三者から情報が漏らされる危険性は十二分にある。自分が組織に潜入している情報を誰かに喋られれば、それまでの諜報活動は水泡に帰すのだ。
自戒するようにレコーダーを握りしめた降谷は、「ご苦労だった」と彼女を見上げ、そしてその首筋に眼を留めた。

「怪我でもしたのか」
「怪我?」
「それだよ」

とんとん、と己の同じ部分を指でつつけば、女は「ああ」と合点がいったように呟く。首筋に貼られた絆創膏を彼女は掌で覆って答えた。

「見られると厄介なので」

何を、と聞くことは不躾だろう。そもそも、彼女がそのようにしてしまっている原因を作ったのは自分だ。
酒癖、女癖の悪さ。そんな相手への取り入り方は古今東西似たようなものだ。機密性の高い情報を管理把握するセクションに、そのような人間がいることは問題ではあるが、某国ではそれが普通なのかもしれない。
ベッドを共にすれば、心身共に繋がることができる。人心を掌握するのに手間暇をかける必要はなかった。

「寝たのか」
「はい」
「そうか」

言葉にするとひどく味気のない事象。
それでも、現実は違う。
寝た、抱かれた。ハニートラップは男相手に非常に有効だ。時折、男娼を好む男はいるが、大抵の場合、若く積極性のある遊女を好む。
股を開いて誘う女スパイ達を降谷自身相手にしたことはある。見事な誘い文句、そして場の空気の酔わせ方で参考にはなったが、残念ながら降谷に接触した女達は逆に降谷に情報を吐かされていった。
相手から情報を聞き出す。彼女はそれを完璧にこなしたのだろう。

「女癖の悪い官僚への取り入り方は仕込まれましたから、問題なく情報は取れました」

降谷の思考に呼応するように、女は彼に報告した。淡々と業務報告を行う彼女からは、遊女の片鱗すら拝めない。
ハニートラップのハの字すら似合わない相貌でそれをこなした部下、命令を下した自分。その事実は、降谷の胸に不快感が湧き上がらせた。
命じたのは自分自身だ。必要ならば最後までやってもいい、と口頭で紡いだのは間違いなく自分の口だ。理解して納得している。
故に、謝罪の意を表すのは違う。彼女は命令を忠実に遂行した、それだけだ。

「……苦労をかけたな」

絞り出したのは、ただの上司としての言葉で。何の変哲も無い言葉しか出ない己に降谷は自嘲した。部下一人にかける言葉にすら逡巡するなど、笑えない。ハニートラップを仕掛けてきた女達に対しての方が、よほど言葉を見つけることができた。
一番合理的で的確な方法だった。だからこそ採用した。
しかしだからといって、それが後味の良い結果になるとは限らない。

「……下卑た男の視線なんて気持ち悪いし反吐が出ます」

唐突に、降谷の言葉を受けた彼女が口を開いた。
僅かに眼を見張った降谷に彼女は紡いでいく。

「好き好んで寝たいとは思いませんし、できるならこんな物を貼りたくもありません。思い出すのも嫌です」

首筋に添えられた手は重たく見えた。淡々と話す彼女の言葉の裏には、男に対する押し殺した激情を感じ取れる。
殺した感情を読み取った降谷に、彼女は、でも、と続けた。

「どうしても得たいものがあるから、こんなこともできるんです。この体も心も何もかも、利用できるものは利用する」

そこで一旦言葉を切った彼女は、


「降谷さんもそうでしょう?」


口元を緩めて降谷に問いかけた。下がった目尻、小さく弧を描いた唇が向けられ、降谷はふと笑みを零した。「そうだな」と肩を竦めて答える。

柔らかな表情はなかなか見たことのない顔だった。
冷静沈着、沈思黙考。降谷の部下として、その手足となり活動する彼女はいつでも相好を崩すことなく、粛々と任務をこなしていく。先の任務でも、遊女を演じながら心の中ではの行動と言葉を巧みに計算していたのだろう。

穏やかな相貌は、年相応のあどけなさを含んだものだった。

降谷は胸ポケットから煙草を取り出し、一本ジッポーライターで火を点けた。肺に吸い込んだ息をゆっくり吐き出せば独特の甘い香りが辺りに漂い、目の前の彼女が、すん、と鼻を鳴らした。

「珍しいですね。ほとんど吸われないのに」
「匂いが着くからな。普段は吸わないが、気分だ」
「そうですか」
「一本いるか?」

パッケージを差し出せば、彼女は一瞬逡巡したが、「遠慮します」と首を振った。

「味を覚えたら、クセになっちゃいそうなので」

困ったようにそう言って、彼女は眉尻を下げた。年相応の顔だ。
降谷はくっくと喉を鳴らし、立ち上がる。見上げていた彼女を見下ろせば、改めてその華奢な体躯と年若い相貌を認識できた。「降谷さん?」と呆ける姿は可愛げのある後輩だというのに、任務を命じればその瞳に宿すのは命令を遂行するという執着とも言える焔だ。
優秀で、しかし幼い彼女に少しばかり悪戯心が湧き上がった。

「わっ!何するんですか」

めいっぱい吸った息を顔に吹きかけてやる。煙に巻かれた彼女は、素っ頓狂な声を上げて首を振った。

「気まぐれだ。気にするな」

訝しげに眉をひそめた彼女を尻目に降谷はその場を離れた。「ご苦労だった」と背越しに伝えて任務の終了を伝える。


久しぶりに、少しだけ休めた気がした。





甘い香りは嫌いだ。身に染み込ませた香水の匂いを彷彿させる。自分の匂いを極限まで消して、相手の匂いを身体に取り入れて入り交ぜていく行為が、甘い匂いとリンクして胸がざわついた。
まとわりつく肌の感触。
耳孔を舐める耳障りな音。
肌を犯す下卑た視線。
何もかもがただひたすら気持ち悪く、薄っぺらい虚構だったが、虚構から真実を引き出すためには致し方ない行動だった。合理的且つ即効性のある選択をしたまでで、選び取ったその選択に後悔はない。ただ、ただ気持ち悪さを感じた。

上司が去ったその場所で、部下の女は自らの服に付いた匂いに鼻をすんと鳴らした。
甘い、バニラの香りは、なぜかひどく心地よい。

「……悪くない」

匂いがつくのはいただけないが、一箱買ってみるのはいいかもしれない。
上司が持っていた銘柄は近場のコンビニに売ってあるだろうか。

彼女は薄っすらと口元を緩めた。