春を想う

ざくざくと、鍬を突き立てては横にはけてていく。なるべくまっすぐ、畝作りは畑作業の基本だ。
天気は良好。無駄な風もないため畝の上に被せるシートも飛んでいく心配はない。

「名前さーん!」
「名前おばあちゃーん!!」

シートをかけて飛ばないよう瓦で固定していると、名前は自分の名前を呼ばれて顔を上げる。

「林さん、千代ちゃんお久しぶり」

駆け足で自分の元にやってきた女の子に優しい笑みを浮かべる。千代と呼ばれた10にも満たない女の子は、久しぶりー!、と元気な声を上げた。

「いつぶりかしら、お正月以来?」
「えぇ、主人の休みが多く取れたので」
「そうなの、よかったねぇ千代ちゃん」
「うん!」

柔和な笑みを浮かべ、名前は千代を撫でようとするが畑作業の最中だったことに気づきその手を下ろす。

「精が出ますね」

感心したように女性が何本も作られた畝を見る。綺麗に作られた畝にはところどころに野菜の苗が植えられている。
これぐらいしかできないから、と名前は困ったように笑った。あれは何?これは何?と千代が名前に矢継ぎ早に聞いていると「おーい」と別の声が彼女たちを呼びに来た。

「あら、お迎えね」
「これから親戚みんなでお食事なんです。さ、千代挨拶を」
「はい、さようなら名前おばあちゃん」
「はい、楽しんでおいで」

ばいばーい!と来た時と同様に元気に手を振る千代に名前も笑顔で答える。視界の先で、彼女が父親に抱きかかえられたのが見えた。
仲睦まじい家族だ。
その様子を見て、名前はふと何十年も前の出来事を思い出した。


もう彼との出会いも覚えてない。確か、父親と懇意にしていた将校が連れてきたはずだった。何も珍しくない見合いだった。男性にしては少しだけ小柄。けれど意外と逞しい、時々イタズラっぽい笑みを浮かべるそんな人だった。
小さな貿易会社の社員ということでしょっちゅう外国に出ていた。夫婦なのに可哀想ね、なんてよく言われたものだった。

「いつもすまないね」
「いいえ、お仕事ですから」

帰って来ればそんな会話を繰り返す。
子はなかなか出来なかった。ご縁なので仕方ないと思っていたけれど彼が帰った後も体に変化がなかったことにひどく落ち込んだのは覚えている。

そんなある時、

「待つだけというのは辛くないのかい?」

自室で本を読んでいた彼がこちらを見て不意に尋ねてきた。
おかしなことを言う人だと感じた。待たせている本人が言う言葉だろうか。まるで私が待っているのは彼じゃないみたいだと。けれど、彼は至極真面目そうに尋ねてきたのだ。

けれどそんなの、答えなんて決まってる。

「思ったこともありません」

キッパリと言えば彼は珍しく驚いた顔をしていた。「何故?」と矢継ぎ早に質問が飛んでくる。そんな彼は見たこともなかった。色んな顔をお持ちだと、感心した。

「待っていれば会えるのでしょう?」

そう笑いかければ、今度は驚いた顔に笑みが広がっていった。彼は立ち上がり私を抱きしめると「それもそうだね」と、ひどく切なそうに笑った。

その次の日だった。

「行ってくる」

それが彼の最後の言葉だった。

彼は戻ってこなかった。
数年後、戦争が終わったあと聞かされたのは、彼は諜報の任を受けていた人だったということ。どこにいるのか、何をしているのかすらわからないということ。

疎開先の村でそれを聞いた時、ストンと内容が何故か胸に落ちた。彼にとってこの結婚も隠れ蓑に過ぎなかったのだと。

そしてそこから、年月が流れた。


(結局子は授からなかったわね)

おばあちゃんと呼ばれるような年に気が付いたらなってしまっていた。
戦後、焼け落ちた故郷に帰らず名前は疎開先の村に居着いた。したこともない畑仕事などの農作業は数年で慣れていった。
彼は戦死したと、近所ではそう言われ、様々なところで再婚するように促された。
それでも、名前はその気にはなれなかった。

ぴゅうと風が吹く。季節はもう夏になる頃。何十年も、山と田に囲まれたこの風景は変わることなく、時を刻んでいる。
あの時代は過去の者となったけれど、若い命は芽吹き着実に次代を作っている。

(私は全部置いてきたのかもね、あの時代に)

待っていれば会える。会えなくてもー

そんなことを思いながら、名前は昼の支度のために家路にとついた。
近所の家族が帰ってきているならお裾分けする分も作ろうと、門を曲がった。



「あぁ、外に行ってたんだね」



シルクハット、ピッタリとしたスーツ。
垂れ目な瞳は変わらないのに、もうイタズラっぽい笑みはない。
見間違えるはずがない、けれど見間違えかと思う、そんな状況だった。
そこにいたのは、名前があの時代に置いてきたものそのものだった。

「すまないね、少し時間がかかってしまって」

眉尻を下げて謝る様子も、その声音も何もかもあの時のままだ。

「本当、ですよ。どれだけの国を回ったのですか」

上ずる声でそう言い、思わず近づこうとして名前は歩みを止めた。自分の姿を見る。モンペ姿のままだ、泥だらけであの頃の面影などまったくない。
しかし、彼はそんな名前に近づき優しく抱き寄せた。

「汚れてしまいますよ」
「構わないさ」
「わたし、もうおばあちゃんと呼ばれているんです」
「それなら僕はもうおじいさんだ」
「ふふ、そうですね」

互いが離れれば、笑みを浮かべる。若かったあの頃とは違う。長い年月の中ですっかりお互い老いてしまった。

「こんなになるまで、1人で」

土いじりで汚れた手を彼はそっと握る。苦労をしてきた手だ。
しかし、そんな彼に名前は微笑んだ。

「だって、待っていれば会えるのでしょう?」

そう言えばあの時と同じように彼は驚きそして「あぁ」と泣きそうな顔で、笑った。


「おかえりなさい」
「ただいま」