我、君ヲ思フ

宿ったその時から、意識の先にいた貴方を見ていた。凛と佇み、前だけを見据え、強さと聡明さを兼ね合わせた貴方を見ていた。
貴方は美しかった。気高く、誇り高いその雄姿に幾度となく心を奪われた。

『お前とは随分な付き合いになったな』

侘しく笑む貴方に唯一無二がいるのか私には分からない。
しかし、確かに感じる貴方の温もりは私という存在を私が認識してから変わらない。変わることはない。

『これが最期となろう。共に行くぞ、なぁ』

ーー嗚呼、我が主よ。


『名前』


それは、私という存在を確定させた。
ただ一言、死地に赴く貴方が送ってくれた、たったひとつの、私のーーー








ひとつ眼を閉じると瞼の裏に蘇る記憶があった。
幼くして聡明で、文武に秀でた女子の記憶。その容姿は可憐であるのに、内実は恐ろしいほど現実を知っていた。
利発な彼女は力を振るいそして果てた。齢20を過ぎたそこらか、うら若き命が散った時、落ちたのは華ではなく彼女の相貌でーー

(思い出す…)

パチリと名前は瞼を上げる。追いかける記憶を斬り伏せ視界を開いた。闇夜ではない、月明かりが落ちる江戸の町はひどく明るかった。
障子を越して淡い光が室内を照らす。他人の顔が認識できる程度のそれにより浮かび上がった四つの相貌に名前は眼を細めた。

(よく寝ている)

1人は大の字になって、1人は丸まり、思い思いの姿勢で眠りにつく様はまさに人間だ。
昨晩は御櫃いっぱいの白飯をぺろりと全員で平らげていた。宿屋の女将がその豪快な食べっぷりに呆気にとられていたことは記憶に新しい。
腹が一杯になったら後は寝るだけ。仮にも刀剣であるはずの彼らは物の見事に全員眠りに落ちているのだから、これは本当に刀なのかと懐疑の眼差しを向けたくもなる。

(……それを言うなら、私も似たようなものか)

眠れない、など人間の感覚だ。
追い縋る記憶が床で過ごすことを許しはせず、名前は緩慢に立ち上がった。


月が異様に美しい。
夜風に当たるには絶好の日和だった。軒続きの屋根の上、辺りを見渡すと月明かりで街中がよく見える。
夜のしじまに腰を下ろして、名前は空を見上げた。

「綺麗…」

一等輝きを放つ月に負けじと粒を光らせる数多の星々。実はあの星というのはうんと遠い所からの光が届いているのだと審神者が話していたことを思い出す。その存在は遠く、誰も知らない。
その事実が名前には妙に心地良かった。


「眠れねぇのか」

届いたのは部隊長の声だ。
気配を遮断していたのかと思うほど唐突に聞こえたものだから、思わず肩を震わせる。
名前が振り返れば、羽織を脱いだ彼が居た。

「和泉守こそ、寝ていたんじゃなかったの」
「何処かの誰かさんが部屋を抜け出したから起きちまったんだよ」
「それは悪うございました」

肩を竦めてみせた名前に和泉守は苦笑する。
よっこらせ、と隣に腰かけた彼は名前と同じように空を見上げた。

「で、何で急に起きたんだよ」

なんてことないような口振りでも、この男は聡い。流石かの鬼神、鬼の副長と呼ばれた男の愛刀だっただけのことはある。言葉1つ、問い1つで相手の心情をつぶさに読み取る洞察力に何度舌を巻いたか名前にも分からない。
ここで彼を謀ったところで得るものは何もない。
名前はさらりと答えた。

「眠りたくない」

否、眠ることができない、の間違いかもしれない。名前は瞼を伏せた。
意識が深淵に落ちることなく、常に表層にある。それを強要するのは、あの凜とした姿と屈託無い笑顔、そして彼方へと消えてしまったその時。振るわれた己が身、刀の身が最期に見た景色。
刀という己が本分とは対極にある感傷がそれを見せるのかは定かではない。
名もなき己にかけられたひとつの言葉。


『名前』


それは叶わない言葉。

「……和泉守は、土方歳三の刀だったね」

名前が問い掛ければ、和泉守が怪訝そうに眉を顰める。

「何だよ、藪から棒に」
「どうだった?」
「は?」
「貴方の刃生はどんなものだった?彼に振るわれ、その生を見て何を思った?」

横に逸れることのない眼差しを彼に注ぐ。
眉を顰めていた和泉守は名前と交錯した視線に僅かに目を見開くと、ひとつゆっくりと瞬いた。

「……何を言うでもねぇよ」

吐かれたのは何とも味気ない一言で、しかしそこに滲み出しているのは彼の刃生だった。
名前はその横顔に目を細める。

信頼され愛され、共に過ごした日々。
刀が刀として生きたその最期の時代の更に一等先で彼は生きた。
志半ばで散った命は数知れず、それでもただ走り続けた人間と共にあった彼の刃生はまさに、何を言うでもない。ただただ、時代の先まで隅々まで生きたのだ、主と共に。

「……そっか」

緩んだ口元は何を思ったでもない。
ただ、その答えが彼を見事に表していて少しばかり愉快だった。

少しばかり沈黙が流れると、次いで和泉守が口を開いた。

「お前は?」
「ん?」
「お前の刃生はどうだったんだよ」

先程と同じ、名前と同じあの視線。真っ直ぐ、相手を逃さない眼差しは答えをはぐらかすことを許しはしない。
元の主の受け売りなのかと苦笑しそうになる表情筋を抑えて、名前は視線を逸らす。
先の空を見上げれば、矢張り星々が存在を主張していた。

「……分からない、かな」

ぽつり、吐露した言葉は真実で、しかし和泉守には不服だったようだ。
尖った声色が名前に向けられる。

「分からない、て記憶がないわけでもねぇだろ」
「記憶はあるし、主の顔もわかる。そこは分かるよ」
「なら」
「それでも、和泉守。私はね、分からないんだ」

星から彼に落としたのは、薄い笑みで。


「私には、名がないから」


遠い記憶の中で、覚えた笑みと同じ色を名前は添えた。

視線の先の和泉守が一拍呼吸を置く。

「名ならあるじゃねえか」
「……あると言えるし、ないとも言える。曖昧な存在なんだよ、私は」
「……どういうことだ」

ひとつ声を低めた和泉守に名前は、視線を上向かせ空を指差した。
先にあるのは、あの無数の星々達。

それは名もなき、無名の光の群集。

「私は星なんだよ、和泉守」

其処にあるのは、確かに名を付けられた物達。誰もが知る名を付けられた、認識することのできる物達。

しかし、それは全て同じ物達。

「私は確かに刀だ。それでも、私はひとつじゃない」

使われてきたのは、無数の群集。朽ちてきた数は数えきれない無名の物達。
それは、決してその中で輝く一等星でもましてや月でもない。

それは、『名前』はひとつの刀ではない。


「私はあのお方の想いから生まれた、無数の刀だ」


たったひとつ、たった1人。
それは名前にとって羨望に近い存在だった。
付喪神が物に宿るというのなら、己は一体何なのだろう。
気づけばそこに名前は在った。意識が表層に出た時には、そこに主が居た。
文武に秀でた彼女はしかしひとつを持たない存在だった。
にも関わらず、名前は常に居たのだ。彼女が力を振るう時、必ず其処に名前は居た、確かに居た。
名もなき意識体、無名の刀の群集。

「だから、分からないんだ。私のこの身体は、この刃は本当に私なのかさえ私は知らない」

刃生とは、ひとつを持つ物の特権だ。その身を確かに愛され、使われてきたものにあるべき形。
ならば、己にあるのは、あったのはどう言い表せば良いのか名前には分からなかった。

静寂が訪れる。物言わぬ刀と化した名前はその心地に身を任せた。

「……お前さ」
「え、わっ!」

俯いていた名前は唐突に乱された髪に声を上げた。乱雑な手つきで乱す彼に片眉を上げて抗議する。

「いず、みのかみっ!何やって」
「眠れねぇ、てなァ。そんな下らねぇことで悩んでんのかよ」
「な、悩んでなどいない」
「悩んでいるから真夜中に無意味に黄昏るんだろ、馬鹿か」

歯に着せぬ物言いに、名前は憤慨すべか定かではなくなり閉口する。
何故ここまで言われなければならないのかと状況を整理しようとした刹那、和泉守の顔がぬっと目の前に現れ思わず息を呑んだ。
何なのだと口を開こうとしたその行為の上を行くように彼は放った。


「お前の刃生、ちゃんとあるじゃねぇか」


からり、とした声音。
短いながらも、名前は言葉を咀嚼する時間を要した。何を、と口籠る彼女に和泉守は続ける。

「お前の元の主が、想いを込めて使っていたならそれこそがお前の刃生だろ」
「……そんな、の。それでも私は自分が何の刀なのかすら」
「刀に意味があるんじゃねぇよ。現に、お前が此処にいるってことはな」

強固な意志を携えた眼差しで彼は言い放った。


「お前の元の主が、お前の刃生を作ったからだろ」


確信を持った口調に、名前は、何ひとつ言を発することはできなかった。たった、それだけの短い言葉というのに名前の思考は応対することを拒否した。


ーー嗚呼、そうか。


『名前』


あの時、確定されていたのだ。夢に見るあの瞬間、あの一言が全てだった。

虚ろになっていた瞳に名前は光を灯した。そうして、湧き上がる言の葉を口にする。

「最期に呼んでくれた、付けてくれた、私の名前……」

吐露した言の葉を己に染み込ませる。胸に手を当て、その名を愛おしむように名前は紡いだ。

「名前、て…何もないどこの刀かも分からないのに」

決まっていたのだ。
彼女の想いから生まれた刃生。その刃生を宿した刀達。
そして最期に、己の存在を確定させた名が、今名前の顕現を祝福している。
全て、惑う必要などなく決まっていた、彼女の刃生。
たった一言、今際の際。彼女の生を最後に、彼女が存在を肯定してくれた事実は何にも変えがたい名前の刃生だったとーー

名前は、面を上げた。

「……和泉守」
「ん?」
「……私の刃生、聞いてもらっていい?」

弾む声音に己自身が驚きを隠せない。
しかし、それ以上にこの胸の高鳴りを隠すことも叶わない。

「……まぁ、長くならなけりゃ聞いてやるよ」
「それは保証できない」
「お前、どんだけ話すんだよ」

苦笑する和泉守に名前も笑みを溢す。


雲ひとつない空で、星々は矢張り輝いていた。



ーーー



我、君ヲ想フ