距離感

「ずりぃ」

その一言に目を瞬かせた。きょとん、としてしまった。なぜなら、その一言を発した人間は不服そうな眼差しで此方を、というか私を見ているのだから。ずるい?私が?なぜ?というかなぜこのタイミングで?

「……ずるいって?なに、私のこと?」
「あんた以外に何があんだよ」
「えぇー…」

いや、今の状況は普段となんら変わりない。
週刊誌の芸能担当の私はあの日から彼らを追い続けている。客席にいた観客は9人。そんな中できらきらと輝きを放ち、天まで届くような歌声を響かせていたその姿に、芸能取材で心身ともに参っていた私は救われた。
この子達は必ず売れる。そう確信したと同時に、この子達を追い続けたいと願ったあの日から彼らを追い、そして書く日々が始まった。勿論、他グループや俳優女優にも取材はかけるが、何かあった時には必ず彼らの元へ行く為、もはや顔馴染みになっていた。
今日はバレンタインデー特集のための取材。売れっ子アイドルがお好きなチョコとかそんな定番のネタだけれど、相手がこの子達なら読者だって食い入るように見てしまう。
そんな取材の真っ只中で、この一言だ。
寮の休憩室にあるソファに座り、目の前には特集用の資料と献上品の王様プリン。隣り合わせで座りながら、BGMにテレビをつけている現在の状況。
ずるい?チョコを貰うのはこの子だから私がずるいわけではない。テレビのチャンネルを変えたい?いや、変えればいいし、んん?というか今私は仕事で話をしているんだけどな。

「なに、王様プリン食べたいの?」
「ちっげーよ!なんでそうなるんだよ!いや、王様プリンはいつでも食べたいけど今はそうじゃなくて」
「だってずるいって意味がわからないから。環君に何かした?私」

眉根を寄せた私に彼、四葉環君は「それだよ!」と声を張り上げた。

「それ?何かした?んん?環君何が言いたいの?」
「名前、いっつもそれなのずりぃんだよ」
「それ?というか、環君。名前じゃなくて名前さんね。年上相手にはさんを付ける癖きちんとつけないと困るよ」

環君は、指示語が多い。それ、これ、あれ。説明下手で更には目上の人と話す言葉遣いも学んでいないため、時折、上下関係を重んじる大御所の方との共演で肝を冷やすことがある。紡ちゃんも胃が痛い時があるとボヤいていた。
根は優しい子なので邪険にされることは少ないものの、バッシングの芽は摘んどくべきだ。

「環君は素直な分可愛がられやすいからあとはその……環君?」
「……なんで?」
「へ?」
「ヤマさんとかみっきーは呼び捨てなのになんで俺はダメなわけ」

不満気な声に落ちた視線。機嫌を損ねていることを体現している環君に、また目を瞬かせた。え、そこ?そんなところに拗ねているの?

「いや、大和さんは私より年上だし三月は同い年だから。それに外ではきちんと2人とも敬語だよ?」

大柄な環君よりそりゃあ私は小さい。といっても、紡ちゃんよりは少し大きい。そして私の年齢は21。短大卒で直ぐにこの仕事に就いた。つまり、壮五君より上で、三月と同じで、大和さんよりは年下だ。当たり前だけれど、私より年下の子達が私を呼び捨てにしたり、タメ口で話すことはない。

「一織君も陸君も、下の子は皆敬語使ってくれるよ?あ、ナギ君はお国柄別だけどね。だからずるいってのは違くないかな?」

考えれば分かることなのに、環君はなお不服そうだった。自分より小さい女の子は皆妹さんと同じとでも思っているのだろうか。

「……あと、それも嫌だ」
「ん、んん?」

またそれか!首を捻った私は環君の言葉の意図を探る。もうひとつ嫌なこと。敬語を使いたくない、呼び捨てにしたい、それ以外に嫌なこと、嫌なこと。

「環君は難しいな…」
「だから、それだよ!それ」
「それ?」
「君付けで呼んで欲しくねぇんだけど!」

え。そんなこと?今日何回目だろうこの驚き。むくれる環君に目を丸くしてしまった。
そんなことを言われても、呼び捨てで呼んでいる子達なんて同い年の三月くらいだ。喋りやすいし、何かと気にかけてくれるし、局での取材中にも会うことが多い。他の子達は君付けとか大和さんはさん付けで、つまりは君付けにすることに関しては他の子達にもそうしているのだから何かを言われる意味がわからない。皆同じなところの何が不満なのか理解ができなかった。
視線を横にして、いかにも僕は今不満です、と顔に貼り付けた環君に嘆息する。

「いや、環君年下でしょ?君付け以外何かある?外では皆苗字にさん付けしてるから変わりないし」
「……此処では、みっきーは呼び捨てにしてんじゃん」
「だから、三月は年同じだしよく話すからそうであってね」
「なら、俺も話すの増やしたら呼んでくれんの?そうしたら、呼び捨てにしていいの?」
「や、待って。そんな単純な問題じゃなくてね?」
「じゃあ、何。どうすればあんたのこと名前で呼べて、俺のことも呼んでくれるわけ」
「え、えぇ…」

なんだこの駄々っ子は。不貞腐れてそっぽ向いていたかと思ったら急に顔を乗り出して迫ってきた。近い近い。17歳とはいえ中々に男前で美形な顔が近づくのは私の精神衛生上まったく好ましいことではなく、仰け反りながら状況の打開策を思案する。
呼び捨てで呼び合う関係。同い年、幼なじみ、クラスメイト、旧知の仲。そんなのでは意味がない。関係が熟している仲以外で、年が違うのに名前で呼び合う関係なんてそんなのー

「恋人とかそんなんくらいしかない気が……しないでも…ナイカナー、はは…」

パッと思い浮かんだ関係性を口にして思わず頬がひくついた。
待て、まてまてまて。私落ち着いて。売れっ子アイドルに何を言っているの。冗談でも笑えない。第一、今は仕事中。打開策としては相応しくない。とりあえず、さらりと流すことにした。

「でも、まあないでしょ?ね?」

笑顔で取り繕って、同意を促す。そもそも、環君にこの手の話は早い気がするし彼も興味はないだろう。

「んー……うん、分かった」

暫し考え込んだ環君がコクリと頷いてくれてほっと一息ついたところで、さて仕事再開、とペンを握ろうとした。

「……えっと…環君?」

けど、なぜか環君は私の手首を掴んだ。

「……環君?」
「名前、呼んで」

名前、と囁いて、真っ直ぐ見つめられて。後ろに下がろうにも突然のことに身体は硬直しているし、握られた手首が逃げることを許さない。
何が何だか頭のキャパシティを超えた現状に頭が真っ白になった。何が起こっているの?なんで環君に私はこんなことをされているの?近い、何を言っているのかわからない、けど逃げられもせず、目を離すこともできない。力のこもった視線に顔に熱が集まるのが分かった。名前、と呼ばれて思わず瞳を瞑り顔を俯かせる。

「呼んで」
「ッ、」

耳元で囁かれて、身体が大きく跳ねた。何この子、ちょっとやんちゃな大型犬の四葉環はどこに行った!環君可愛い〜、だなんてファンに黄色い声をあげられる四葉環戻ってきて、と心の中で叫んでも状況は変わらなくて、なんなら、相当な近距離なことが分かるほどだった。彼の吐息まで感じることができて、さらさらの髪が首元に触れた。その感触に肩を震わせてしまう。
擽ったい、恥ずかしい、居た堪れない。

「環く…」
「名前」
「……ッ、」

これは呼ぶまでやめない気だ。やめてと言ってもこの駄々っ子はやめない、たぶん。
慣れない行為に身体はどんどん熱くなって、恥ずかしさに加えて泣きたくなった。もうやだ、と思ってもどうにもできなくて、結局取ることのできる選択はひとつしか残されてなくて。

「お願いだから、も、やめて」

ーー環。

消え入りそうな声だけれど、せめてもの年上の意地として彼を精一杯見据えて言った。
のはいいものの、いざ見上げた先の彼にそう言ってしまうと恥ずかしさで死にそうになった。脳内容量はとうの昔に超えていて、こんな状況に私は耐えられない。

「もう、無理だから…お願いだから…慣れてないのこういうのは…」
「本当だ、これ」
「……へ?」
「呼び捨て。こういう感じならしてくれるんだ」

勉強になった、と先ほどまでのむくれ顔から一転、破顔した環君はそれは目に入れても痛くないほどの愛らしい笑みを見せた。邪気のない人懐っこい笑顔、緩められた口元が物語るのは彼が心底その言葉を待っていたということで。
呆気にとられるのも本日何度目だろう。そしてとても、それはとても疲れた。非常に私は疲れた。
年相応の顔貌に対して出たのは盛大なため息だった。はぁああ、と吸った息を長く吐いて掌で顔を覆う。「名前?」とちゃっかり呼び捨てにする環君に指の間から恨めしげな眼差しを向け、そのまま彼の額を小突いた。

「いってぇ。何すんだよ!」
「呼び捨て、タメ口。許した覚えはありませんからね、四葉環君」
「……別に、またさっきのやればいいだけだし」
「またやってみてもいいけど同じ反応すると思う?意図がわかってるのにわざわざ反応してなんてあげませんから」

ピシャリと冷眼を向ければ、先ほどの笑みはどこへ消えたのか再び顔を歪めた彼が戻ってきた。鼻を鳴らして、不服そうな表情に逆戻りだ。自身の中のフラストレーションを発散するかのように目の前の王様プリンに手を伸ばす。
こう見ていると年相応どころか幼い印象を受けるというのに、唐突にあんな男の子だと思わせる行動を取れるのだからやっぱりこの子にはアイドルとしての才能がある。さまざまな顔を持って魅せる力があるのはこの業界で必要なことだ。ただし、二度と私に対してはやって欲しくない心臓がもたないから。

彼が名前呼びとタメ口にこだわった理由は分からない、けれど幸せそうに王様プリンを頬張る環君はやはりたいそう可愛らしかった。


ーー


距離感