大学の先輩が同郷だった話

産まれも育ちも周囲に山と畑と田んぼが広がる田舎。数十件単位の集落が点在するだけの小規模な町で暮らしてきた身としては、人口最多の政経の中心地、東京はたかが一年暮らしただけでは慣れなかった。
そもそも慣れるはずがない。常に人人人、コンクリートジャングルを抜けても家家家。イベントがあれば全国から人が押し寄せ、インバウンドの数だって馬鹿にならない。東京は人と物の集積地だ。

「……虫捕りしたい…田んぼ入りたい…」
「小学生か」
「だってそれが普通だったんだもん…」

講義室の机に突っ伏して唸る私に友人は冷たい。コンクリートジャングルが日常だった彼女にとっては山と田んぼに囲まれた(常に虫がいる生活)というものは理解し難いようだった。以前、学内の芝生でご飯を食べている最中に、二の腕に止まった蝉を捕まえ、可愛い可愛いと弄り倒していた私の姿はかなり不気味だったらしい。失敬な、可愛いじゃんね、蝉。
というか、蝉だけじゃない。ここには本当に人工物しかないんだ。申し分程度にある緑は明らかに、都会にある緑、だ。人工物だけでは遊ぶ場がないからと設けられた緑。地元みたいに、生活空間にある緑、特に山がない。虫の音だって聞こえないのだ。
「あんたほんと田舎好きよねー」と苦笑する友人に、内心では首を振る。尖らせた口で、ストローに口付けた。
田舎大好き少女のようになっているけど、単にそう、寂しいだけだ。上京して一年、慣れない土地とリセットされた人間関係の中で毎日をひたすら走っている感じ。サークルにも入っていないのは、単に今を走るのに必死でそれ以外にエネルギーを使えないだけ。

(せめて、同郷が一人くらいいてくれたらなあ)

はぁ、とため息を漏らした刹那、突然、スマホが振動した。誰だバイト先かと画面を見れば、同郷がどうのこうのと考えていたからなのか、母親という文字が見えた。「ごめん、ちょい親から」と一言断って、講義室を出る。あと少しで講義、始まるんですけど。

「もしもし、お母さん? なに?」
《アンタ、春休みいつ帰るん?》
「はぁ? 前も言ったがな、それ」

母親というのは話を聞かない習性でもあるのかと思う。《そげか?》と首を傾げているだろう母親に頭を抱えた。

「バイトが入っとるって言ったがな…だけん、春休みは家に帰らんけな?」
《えー、お父さんも婆ちゃんも、いつ帰ぇだ? て聞いちょるのに》
「知らんけん。もー…ええけん、子離れしてよ…うん、じゃあ、婆ちゃんによろしく。……はいはい、父さんにもね」

じゃあね、と終話ボタンを押してひと息吐く。母親という文字に、再度ため息が漏れた。
地元からの電話が嫌いなわけじゃない。帰ってこないかと言ってくれるのは嬉しいし、私も地元が恋しい。けれど、女子の一人暮らしを案じたのか、上京した当初はほぼ毎日、半年くらい経ったら二、三日に一度、何かしらの電話が来るのだ。
親元を離れた身としては、正直勘弁願いたかった。

「君、もしかして島根の出身?」

気が滅入っているところに唐突に話しかけられて、思わずぴくりと身体が揺れた。

「へ! え、え?」
「あ、ごめん。驚かせたか?」

どっと疲れたせいで近くに人が来ていたことに気付かなかった。
声の主は、講義室の扉の前でスマホを握っている私の前に居た。たまたま通りかかったという風で、手には何かの講義の資料の束がある。端正な顔立ち、爽やかイケメンという言葉が似合いそうな、多分、先輩。
大丈夫か、ともう一度聞いた先輩に全力で頷く。

「すみません、びっくりしちゃって」
「いや、いきなり話しかけてすまない。少し、懐かしい言葉が聞こえたから」
「懐かしいって……あの、先輩? は、島根出身なんですか?」

先輩と思われる人は笑顔で頷いた。「君も島根か?」と問いかけた先輩に苦笑しながら頬をかく。

「私は島根生まれなんですけど、育ちは鳥取なんです」
「そうなのか。けど、久しぶりに懐かしい方言を聞いたよ」
「似てますもんね! うわぁ……初めてです、こっち出身の人はなかなか会わないので。え、島根のどちらです? 松江ですか?」
「いや、出雲だ。君は?」
「父方の家が松江なんですけど、家族は今、米子に住んでます! わー!凄い偶然ですね!」

話していくうちにどんどん盛り上がっていく。声のトーンだって数段階上がっていった。
地元トークなんてものは上京してからした試しがなかった。何せ、人口ワースト一、二の県だ。東京の区の人口が、この二つの県の総人口に匹敵するというのだからいかに人が少ないか分かる。上京する地元の友人はいても、こんなに人口過密な場所にいては会う確率は低い。
ひとしきり、地元トークで盛り上がったこの
先輩の名前は、清瀬灰二というらしい。文学部の先輩というこということだ。高校は出雲一高、確か、陸上部が強いと聞いたことがある。私の中学からも長距離がやりたくて入学した同級生がいた筈だ。「長距離で有名な高校ですよね?」と聞けば、一瞬、間を置いた後に「そうだな」と返されたけど、違ったのか。

「……ところで、君は今何か部活に入っているか?」

講義そっちのけでベンチに座って話していると、ふと、清瀬先輩が尋ねてきた。なんてことない、という風な問いかけで、不思議と話をしてしまう雰囲気の人だ。

「えっと…、なんか、あんまりこっちの生活に慣れてないから、新しく何かを始めるのはやめとこう、とか思っちゃってるんですよね」

ははは、と乾笑いする私に清瀬先輩は「そうか」と笑みを深めた。そうか、てなんだ。というか、どうしてそんなこと聞くんだろうと首を傾げた私に、先輩は、とても、それはそれは、人の良い邪気のない、澄んだ心を持つ少年のような笑みを浮かべた。なんだこの笑みはと考えるまもなく、先輩はそのままの笑みで、衝撃的なことを紡いだ。


「なら、一緒に箱根駅伝を目指さないか?」


会って小一時間の相手から受けた勧誘は、荒唐無稽を通り越して理解不能なものだった。





「なんでこうなっちゃったかなぁ」

年季の入った炊事場に立ち、十人分の夕食を作りながら嘆息する。料理はあまり得意な方ではなかったのに、そこまで仕込まれては逃げようがなかった。
あの後、清瀬先輩、もとい灰二さんからの勧誘という名の執拗なストーカー行為にあった。意味不明な内容に秒で「え、無理です」と答えたというのに、そうかそうか、と諦める言葉を吐きながら、次の日もその次の日もその次の日まで、私の学部である社会学部の必修の講義の前後に現れては彼は「やぁ」と手を挙げてきた。当然友人には、誰あれ?!、とか、何あのイケメン!、とか、また来てるよ、とかもう散々あらぬ艶聞が飛び交い、いい加減にしてくれと詰め寄れば、なら二人で話し合おうと連絡先を交換してしまった。それが最後、メール、呼び出し、応じなければ待ち伏せのオンパレード。結局、根負けした私は新設された陸上部のマネージャーとなってしまった、というわけだ。私をマネージャーに誘った段階ではまだ人が集まってなかったと後から聞いたので、「詐欺だ!」と思わず叫んだけど、本人は涼しい顔をするだけだった。本当に詐欺師だと思う。
幸いなことに、近くに住む高校生で、竹青荘の近所の八百屋の娘、葉菜ちゃんがマネージャーとして手伝ってくれているため、日々のトレーニングのサポートはだいぷ楽ではあった。それでも、流石に高校生の女の子に炊事を任せるのは負担が大きいため、私と灰二さんが料理は担っている。
結局私は、半ば強制的に入部させられたこの部活で、なんだかんだマネージャーとしてやっているわけだ。

「手伝うことがあるか?」

キィ、と扉が開く音がして振り向けば、私を引き込んだ張本人が顔を覗かせていた。ぽかん、と呆けた後に、「何やってるんですか!」と思わず叫ぶ。

「なんでほっつき歩いてるんですかッ。大人しく部屋に戻ってください!」
「大袈裟だな。ただの疲れだ。もうだいぶ良くなった」
「よかないですから! 灰二さんが良くならないと皆の調子上がんないんですよ? 大事な時期なんだから休める時に休んで、早く回復して下さい」

夏前に一度、灰二さんは過労で倒れた。その経験から体調管理に万全を期していた筈の彼が、先日、予選会の後に体調を崩してしまった。覇気のない声に気付いたユキ先輩が問い詰めたけど、疲労が原因だからすぐ治ると灰二先輩は選手の世話をしようとした。当たり前だけど全力で止めた結果がこれだ。ここ数日の炊事は私の担当。掃除などは各自でやってもらっているけど、大会に集中してもらうため共用部分の家事は引き受けている。
さっさと回復してもらうためにわざわざ連日家事を引き受けているのに、無駄に動いて体力を奪われてしまっては本末転倒だ。炊事場まで足を運び、「けどなぁ」と食い下がる灰二さんをもう一度睨めつけた。

「申し訳ないと思うなら、早く元気になって下さい。それが一番嬉しいんです」

鍋の火を止め、中の煮物を大皿に盛り付ける。ここは私の戦場だと言わんばかりに手を動かしていると、

「すまない。助かる」

なんとも、覇気のない声が聞こえた。らしくない声に思わず彼をまじまじと見れば、これまたらしくない顔で、妙に罰の悪そうにしていた。

(珍しい)

しょげている彼なんて、初ではないか。
俯きがちな灰二さんの相貌に少しだけ思案して、かける言葉を探していたら、彼と初めて会った時の顔を思い出す。

嗚呼、これなら──

『君、もしかして島根の出身?』


「……今は休むのが仕事ですけえ、ゆっくりしちょってかーさい」


自然と、イントネーションまで完璧にすらりと出せたのは、たぶん、灰二さんなら分かると思ったからだ。
その灰二さんはというと、珍しく面食らった顔をしたと思えば、直ぐに吹き出してくれた。

「……ッ、ふはっ、それッ、久しぶりに聞いたよっ、おっかし…」
「お婆ちゃん世代くらいしか使わないですけどね。伝わってよかったです」

あまりにもキツすぎて、早口だと何を言っているのか分からない方言。ギリギリ聞き取れる範囲、且つ私が理解している使い方をした私達の地元の方言での提案は、ちょっとは彼の心を軽くしてくれたようで、こちらとしても少し胸を撫で下ろした。
穏やかな表情を浮かべた灰二さんにこちらも相好を崩す。「できたら部屋まで持っていきますから」と、彼に背を向けた。

「苗字」

刹那、真後ろに気配を感じて、振り向く間も無く、耳元にそっと囁かれた、低音。

「だーんだん」

びくりと思わず肩が揺れる。ぴんと背筋が張って、灰二さんの声に全身が反応した。「ひぁ」と、まぁびっくりするくらい間抜けな声が出て。
勢いよく振り返った先の彼はというと、何故か満足げに口角を上げて、手をヒラヒラさせながら食堂を後にした。

「……ずっるくないですか、それ…」

あんな低音ボイスの『だんだん』を、この先聞くことがあるだろうか。

頬に感じる熱っぽさは、
きっと、火のせいだ。