僥倖

 時計の針音が森閑な室内に響く。見遣った先の長針は十二を指し、間もなく午後六時に差し掛かろうとしていた。熱っぽさが引いたのは一日中布団の中にいたせいか。しかし、代わりに腹の虫が鳴いた。
 体調を崩すというのは大学生となり、一人暮らしを始めてからなかったことだった。一人暮らしは意外と体調不良になりにくい。一人で自分の面倒を見なければいけない分、何故か身体の防御機能が働くのか、ウイルスに強い肉体が出来上がる。
 しかしながら、季節の変わり目のこの時期、風邪を最も引きやすい時期となり、名前は入学して初めて風邪をひいた。幸い、熱は微熱で1日寝たら下がってくれたため、あとは精力のあるものを食べて暖かくすれば良いだけだ。
 何か作るか、と冷蔵庫の中身を思い起こした刹那、ピロン、と受信音が耳朶を打った。ベッドサイドに置いていたスマートフォンを手に取る。

《早く元気になってくれないと、炊事場がやばい》
 
 画面に映し出されたメッセージに嘆息した名前は痛む頭を抱えた。差出人は王子。内容から、嫌でも現在、メンバーが住む竹青荘のご飯事情が見えて来る。画面をタップした名前は、メールを打ち返した。

《走は? あの子ならご飯作れるでしょ》
《練習の後、学部の友達に誘われてどこか行った。今は双子がなんかを作ってるけど、正直食べる勇気ない》
《双子の前にマネの子達に頼めば良かったじゃん》

 壊滅的な料理センスの双子こと、ジョージとジョータが何故炊事場に立っているのか。マネージャーは自分含め複数人いるのだから、恥を忍んで頼めば良いだろう。
 嘆息した名前がメールを打ち返そうとしたが、インターホンが鳴ったことにより、視線は玄関へと向く。

(宅配?)

 何かを頼んでいたか、実家からの荷物か。スマートフォンをテーブルに置き、玄関扉を開ければ意外な人物が来訪していた。

「いきなりすまないな」
「……灰二さん?」

 ぽかんと目を丸くした後、来訪者である彼の爪先から頭のてっぺんまでを確認する。
 陸上部の卒業生である灰二が卒業してから会うことは何も初めてではない。彼は何度も部にOBとして顔を出していたし、先輩を交えた飲み会の帰りに名前は送られたこともあった。
 しかしながら、こうして家に直接来るということは初めてのことで、たっぷりフリーズした名前は辛うじて「どうして?」と問いかけを絞り出した。

「王子がな。君が寝込んだ影響で飯当番が大変だと」
「あ、さっきそのメール来ました。ジョージとジョータが何故かご飯紛いのもの作ってるとか」
「その前には葉菜ちゃんが何かを作ったらしいぞ」
「…あー…、葉菜ちゃんが張り切っちゃいましたか…」

 王子のメール内容に合点がいき苦笑する。葉菜が何かを作り、慌てて炊事を引き受けた双子の図は容易に想像がついた。

「なら、アオタケの方に行かれなかったんですか?」

 ふと、疑問に思い名前は灰二に首を傾げた。
 王子からのヘルプメールを受け取っていたなら、炊事を担当していた灰二が何か作りにいっても不思議ではない。
 しかし、灰二はさらりと微笑を浮かべるだけで。

「いや? 自分の飯くらいどうにかしろと言っておいた」
「……灰二さんからそんな言葉が出るなんて…」
「OBではあるが、甘やかすつもりはないからな」

 意外とスパルタだなこの人。アオタケメンバーに心中で合掌を送った名前は、しかし灰二の言葉に苦笑を引っ込めた。

「ところで、そろそろ上がらせてもらっていいか?」
「……はい?」
「部活の大先輩を玄関先で追い払う薄情者ではないだろう?」
「いや、でも私病み上がりですし、灰二さんに移したくないですし」
「邪魔するぞ」
「ちょ! 灰二さん!」

 名前の脇をすり抜けた灰二は躊躇なく奥へと進んだ。鍵をかけ、慌ててその背を追いかけた名前を尻目に灰二は台所に入る。

「どうせまともな物も食べてないんだろう。俺が作る間、寝てていいから」
「いやいや、作ってもらうとか申し訳ないし移したくないし、灰二さんだって風邪ひいたら困るでしょ!」
「俺はそれほどヤワじゃない」

 何なのだこの状況は。とりあえず、部屋を掃除していて良かった。違うそうじゃない。何をするべきかを考えても、錯綜する思考はまとまらず、ヒートオーバーした思考回路に名前は考えるのをやめた。

(……なんか持ってると思ってたら、材料だったんだ)

 エコバッグの中身を出す灰二を眺めていると「良いからあっちに行っとく」と額にデコピンを受ける。むくれっ面を見せつつ、名前は仕方なしにソファに沈み込んだ。
 リズミカルな包丁の音、炒め物の香ばしい匂いが鼻腔を抜ける。腹の虫が盛大に鳴き声をあげ、思わず抱え込む。丸一日何も口にしていない中での清瀬灰二のご飯は破壊力があった。

「──どうぞ」

 数十分後、ほかほかの白米にアサリと舞茸の吸い物、ほうれん草の和物、サバの塩焼、緑黄色野菜のサラダと、普段自分でも作らないようなメニューが食卓に並んだ。作ってもらうのは申し訳ないと殊勝な心を持っていた小一時間ほど前の自分に名前は首を振った。無理だ、食べたいと。

「あの、これ材料費とか…」
「問題ない。俺も食べるからな」
「へ?!」

 素っ頓狂な声を上げた名前の隣に腰を下ろした灰二の手には、茶碗と汁椀がもう一セット。ちゃっかり置いてある箸に、名前は彼を凝視した。「不満か?」と宣う彼に首を振る。

「不満とかじゃなくて、移ったらどうしようかと」
「その時は、名前がウチで何か作ってくれればいい」
「……そんなの、」

 続く言葉はぐっと呑み込まれる。喉元まで出かかったそれを言うのは憚られた。
 清瀬灰二という男はいつだってこうだ。さらりと爆弾を投下していく。相手の反応を見て楽しんでいるのか、天然なのか定かではないが、人をかき回すことに長けている。そのくせ、相手に不快感を抱かせることなく、相手の懐に入り込んで、結局は誰もが清瀬灰二に心を許してしまう。天性の人誑しだ。
 言葉の意味を考えたところで詮ないことかもしれない。相変わらずの人誑しだと流せば良いのかもしれない。

(人の気も知らないで)

 しかしながら、胸に灯る仄かな熱は、これに確かな意味を持たせたがっていた。


「──あの、洗い物くらいできますからっ」
「遠慮しなくていい。食べたものくらい片付けるさ」

 食後、帰るどころかそのまま台所に逆戻りした灰二に名前は幾度目かのため息を吐いた。材料の購入、夕飯の支度、後片付けと全てをやろうとする彼に対して湧き上がるのは、もはや可愛らしい気恥ずかしさではなく若干の怒りだった。
 たかが部活の後輩が体調を崩した程度で家に飯を作りに来るなど、勘違いをされても仕方がない行動だ。これで惚けるのなら平手打ちをしてふざけんなと叫びたい程度には、焦がれた劣情が名前にはあった。
 全体のために一個人をしっかりと見つめて、しかし、自分のことになると途端に無茶をする、無頓着になる。体調を崩そうが、膝に痛みを抱えようが、前を見据えて、常に走り続けてきたのが清瀬灰二という男だ。
 名前はその姿に惹かれた。圧倒的な光を放つその背中に懸想した。伸ばした手が取られることはなくても良い。その背を押すくらいでいいから、だからこの輝きをみていたいと思える人だった。
 その彼が、今、振り返って自分の肩を叩いている。前だけを見ていると思っていた人物の方向転換に、動揺するのは当然だった。

「い、…加減にして下さい」

 だからこそ、ぼそりと紡いだ一言は、低く消えるような声音となった。

「こんな状況おかしいです。灰二さんならアオタケに行く筈です。なんで、困ってもない私のところに来て、ご飯作って」
「迷惑だったか?」

 俯き加減になっていた相貌に、カッと朱が入る。自然と拳に力が入った。

「も、う…なんでっ、灰二さんはそうやってっ!…こんなことされたら」
「されたら、何?」

 シュ、と水音が止まる。瞠目し、数度瞬いた後に名前がゆっくりと彼を見上げれば、何食わぬ顔で手を拭き、緩慢に名前に笑みを向けた灰二と視線がかち合った。
 妖しく緩んだ目元に、思わず目を逸らす。

「……ッ、言わない」
「言えないんじゃなくて?」
「なっ、も、灰二さんずるいッ、馬鹿っ!」

 キッ、と彼を睨んだが、視線の先の相貌が名前を捉える。

「……名前はひとつ覚えといた方がいいぞ」

 ひどく愉悦を湛えた瞳の奥に清瀬灰二の本性が見えた気がした。
 するりと骨張った手が髪に当てられる。指先が髪を梳いて耳朶に触れて、流れるような動作で頬まで来た。
 確認するような作業に、一歩も下がることはできず──

「狡くない男はこんなことしない」

 嗚呼、そうだ。清瀬灰二はいつだってずるいのだ。
 そして、そんな狡さに絆されてしまっている時点で、かき回されることは決定していた。
 瞑った目が合図となり、唇に柔らかな感触を覚える。柔く食んで、啄む行為が、名前にはやけに長く感じられた。

「病人ですよ…」
「すまないな」

 今更な忠告は意味をなしていない。謝罪を口にしながら、再度名前に送られた口付けがその証左だった。
 なし崩しの関係は、はしたないとかだらしないと、名前は小さい頃には思っていた。純愛が輝いて見えていたのだ。
 しかし、それは希有で貴重なものなのだと大人の仲間入りをした今、彼女は思う。

「灰二、さん…」

 熱なんてとっくに下がっている。しかし、この熱は風邪のせいだと思いたい。
 洗い物はまだ終わっていないというのに、啄む口付けは深いものに変わる。後頭部に手を添えられ、腰を引き寄せられてしまえば身を捩って逃げることも叶わない。

(むしろ、良かったのかな…)

 否、名前にとって僥倖なのかもしれない。洗い物は別にして、だ。
 高まる熱が発散されるまで、あと──