デイヴィス・クルーウェルは躾が上手

「先生、さようなら〜」と寮に帰る生徒達を見送って教員寮への帰路に着く。その道中で、彼女達の会話が耳に入ってきて思わずくすりとニヤけた。やれ、あの高校のイケメンが。やれ、卒業したら彼と結婚したい、いやいや、いいところに就職してバリバリ働きたい、結婚するなら数年働いてから、と学生ならではの会話だ。
 彼女達にはまだ見ぬ未来が広がっている。恋愛も仕事も何もかもを選び取れるのは若さという替えがたい財産を今保有しているからだ。今時、年齢なんて関係ない、と声高に宣う人間にとっては関係ないかもしれないが、確実に年齢というのはライフステージを考える上で避けては通れない要素、いや、めっっちゃくちゃ重要事項。少なくとも、私にとっては。
 魔法士養成の名門女子校に勤務してはや云年。出会い? 嗚呼、妖精族の男性とか? この前の魔法生物学ではヒッポグリフの雄に求愛行動取られたなぁ、ははは!
 出会いがないのかと聞かれれば、そいつをぶん殴りたい。あるわけねぇだろ、全寮制の女子高な上に教員も女性。休みなんてあってないようなもの。授業の準備にテスト問題作成、補講、部活、課外活動の指導から他校との折衝まで、やることなんて常にある。毎日、毎時間、寝る間を惜しんでやる時だってザラだ。出会い? 出会いが来い、お前が来い。出会いが皆無の私を両親が心配してメールをしてくるけれど尽く無視している。孫の顔が見たい? お姉ちゃんが産んだろ、いい加減にしろ。

「出会い、ねぇ」

 いや、ぐちぐちと文句を垂れたけれど分かってる。出会いというのは自分で見つけるものだ。結局私は忙しさにかまけて出会う努力をしていないだけで、本当に出会いを欲している人はするっと相手を見つけてゴールインしている。この前、後輩の教員が合コン相手と三ヶ月でスピード結婚してたから、やっぱり動く人には違う結果を神様が与えるのだ。時間はないのではない、捻出する。動かなければ、何も起きない。

「そろそろ、どうにかしないとね…」

「もしよかったら紹介しても良いですか?」と、善意百パーセントの瞳で私を見つめた彼女を思い浮かべ、私はスマートフォンの連絡先ボタンを押した。


「──で、さぁあ! ほんっっとありえなかったの!」
「その流れでどうそうなったか理解できないんだが」

 貴重な休日、寝て過ごすことが大半の休日に鏡舎を通ってやってきたのはこじゃれたレストランじゃなくて、年季の入ったバーだ。年齢層高め、若い子達は寄り付かないような洒落っ気のない場所だけれど、私はこの雰囲気が大好きだ。適当に飲んで、酒のつまみを食べて、豪快に笑っても誰も冷ややかな目で見ない。
 ただ、一人を除いては。

「察してよ! 出会った男がクソ野郎だったってことじゃん!」
「言葉遣いを気をつけろ。何歳だ、お前」
「とっくに二十代が過ぎ去ったババアですけど、なにか?」

 ジョッキを引っ掴んで一飲みする。「おっちゃん、もういっぱ〜い」とノリ良く頼めば、「俺はその飲みっぷりが好きだぞ」と笑顔を返してくれたからやっぱり此処は居心地が良い。年齢のことなんて忘れさせてくれる。ただ、一人を除いては。

「それで? そのクソ男がどうしたんだ」

 ただ、一人。私に年相応の振る舞いを求める男、デイヴィス・クルーウェルは頬杖をついて続きを促した。
 なぜ、私が説教を垂れるこの男と飲んでいるかというと、単純だ。一番、話しやすい。大学の時からの同期な上に地元のエレメンタリースクールでの同級生、所謂腐れ縁ってやつ。私の表も裏も知り尽くしている彼といるのはとてもとても楽なのだ。おべっかをかく必要もない、笑顔を保って、場の空気をつくって、無理に相手を褒めたり話を盛り上げたりしなくていい。
 さらに、デイヴィスはなんといっても話を聞いてくれる。私の毒にも薬にもならない話をいつだって聞いてくれる。私の愛用しているサンドバッグのようなものだ(前にこれを言ったらしこたま怒られた)。
 デイヴィスに促されて、私は脳裏に思い浮かべた。そう、後輩に紹介されて出会ったクソ男のことを。

「ソイツね、私と会う二日前に仕事の関係で紹介された、六つ下の女の子と食事してんの。あ、それ自体はどうでもいいんだけど」
「いいのか」
「いいよ、別に。複数人とご飯なんてフツーでしょ。問題はソイツの発言よ」

 言い年した大人の男女だ。誰かと付き合っているわけではないのなら誰と、何人とデートしようがどうだっていい。
 ただ、ただソイツの発言だけは気に食わなかった。

《その子の容姿は良かったんだよ。SS級の美人がやってきてさ、もうヨッシャ!と思ったわけ。けどさ──》

「知的レベルが合わない」
「は?」
「知的レベルが合わない。会話が薄い、て言い放ったの、そのクソ野郎」

 唖然とした。男からの言葉に唖然とした私にさらにそのバカは続けたのだ。

「それに比べて、君は会話のレベルが高いから楽しいよ、ですって。もうこっちは唖然よ唖然。何がレベルが高いよ。こっちはアンタのレベルの低さにドン引きだっつーの!」

 ぐいっとビールを喉に流し込む。その時の光景がまざまざと思いだされて苛々がまた蘇った。
 別にいいのだ。会話のレベルが合わないというのは往々にしてある。嫌味といわれればそうだが、育ってきた環境や学んできた内容などによっては日常会話すらままならないほどレベルが違うということはあるのだ。人によって常識も知識も違う中、人は大概同じようなレベルの人間と話すのが結局落ち着く。まったく環境が違う相手とたまに話すくらいならまがしも、密な関係なるのは避けたいというのは至極普通のことだと思う。
 ただ、それを馬鹿正直に§bすなら話は別だ。

「わざわざSS級の美女と持ち上げてから、でも中身は残念なんて言う必要ある? 知的レベルが低いんじゃなくて、話が合わない、とか、趣味が違う、とか言いようはいくらでもあるのに、それを私に嗤いながら言ったのよ。彼女からはメールが来てたけど、黙ってブロックしちゃいましたよ、てご丁寧に付け加えてきてさ」
「その男、一応お前のことは褒めてるんじゃないのか? レベルが高いという言い方はアレだが」
「褒めてる? ハッ、本気で言ってる? デイヴィス」

 思わず鼻で嗤ってしまった。
 褒めてる? まさか。

「君はボクのお眼鏡に叶ってる、て宣言してんのよ。ただの自己愛の強いナルシストってだけ」

 褒めてるように見せかけてその実、自己愛に溢れているただのクソ男だ。美人に言い寄られた自分、その美人より頭の良い自分に酔っている。そんな良い男≠ナある自分が認めている女って? 笑わせるなクソ野郎。

「他人を引き合い出して、その人をコケにしてじゃないと自分を持ち上げられない残念なオツムの人間なんてこっちから願い下げよ。金積まれてもごめんだわ」

 自分に自信がない人間ほど他人を引き合いに出してコケにする。そんな人間は見合いの席だと割と多くて、いつだって辟易してきた。あぁ、こいつもか、なんて諦念を覚える。

(でもまぁ、私も似たようなもんか)

 けれどいつも、ふと、自分を俯瞰して少しだけ冷静になる。結局私はそこで終わり。蔑むだけで相手を諫めるとかはしない。つまるところ、面倒くさいのだ。
 もうそろそろ、年も年だし、親にも言われるし。そんな曖昧で他人任せな理由で見合いやら合コンやらして、結局曖昧に笑って猫被ってハイさよなら。なんか違う、と思って終わってしまう。あぁ、なんで私こんな無為に時間を過ごしてんだろう。生徒たちの指導教材作るほうが有意義じゃないか。
 デイヴィスは黙って私の話を聞いていたけれど、「もー無理─」と突っ伏した私に深く嘆息した。

「だから言ってるだろう? お前に合コンや見合いは向かないと。その調子じゃ、どうせまた猫被って作り笑いして適当に相槌打って帰ったか」
「デイヴィスってほんと私のこと分かってるよね。エスパーかよ」
「十年以上、お前の愚痴に付き合っている賜物だ」
「わーうれしーありがとー」

 にへぇ、と笑ったら小突かれた。「駄犬の世話をした覚えはない」て。ひどくない? 駄犬になった覚えもないし飼われた記憶もないんだけど。
 でも、デイヴィスはいつも話を聞いてくれる。下らない、と一蹴するのが常なのに私を見捨てないでくれる。馬鹿な犬ほど手をかけたくなるらしい。わん。

「……ならお前は、どんな男ならいいんだ」
「へ?」
「お前が付き合った男の良い点なんてものは聞いたことがない。結局お前は、どんな男が良いんだ」

 初めてかもしれない。デイヴィスからそんなことを聞かれたのは。呆れつつ話を聞いてはくれるけど、デイヴィスはいつも私の好みとか、願望とかを聞いたことはなかった。
 シルバーグレーの瞳で見つめられて内心ドキリとする。いつもは私を蔑んだ目で見てくるというのに、やけにその瞳が探るように私に向けられていて、思わず顔を背けた。
 どんな男性。どんな異性。恋人として見たいのはどんな人間か。

「……わかんない」
「は?」
「だぁかぁらぁ、分かんないの。そういうもんでしょ」
「好みの男の傾向くらいあるものだろう」
「……傾向、ね」

 カラン、と追加で頼んでいたウィスキーの氷が音を立てて、グラスについた滴をツゥ、と掬う。手遊びをしながら、デイヴィスの問いかけを頭の中で反芻させた。
 昔は思ってた。どんなタイプが好き? なんて会話は日常的にあって、優しい人、けどちょっと強引な人、浮気しない人、とそれはもうたくさんあった。注文の多い女だと自覚はしていたけれど若い頃は憧れていたのだ。
 いつか、自分の好みに合う人が現れるかも、なんて。
 けれど、両手で上げた条件≠ノ合致する人が現れても、結局ダメなものはダメだった。
「傾向なんて意味ないよ」と渇いた笑いを溢した私にデイヴィスが眉根を寄せて、その相貌にへらりと笑う。

「どんな、て言われて形容できるのはステータスでしかないもん。けど、ステータスと結婚するわけじゃないでしょ?」

 年齢はこれくらい、収入はこれくらい、知的レベルはこれくらい、学歴はこれくらい、ありとあらゆるこれくらい≠並べてそれを条件としたところで、それはただのステータスであって人間そのものじゃない。その人を構成する要素であっても、なら全く同じ条件の人間がいたら決められないかといえばそうじゃなくて。

「ステータスとやらを全部を加味してさ、それでも私が、この人!、て思った人が良いんだよ、きっと」

 けれど、そんな人現れるわけない。そうやって過ごした幾年幾月があるんだから、これは絶対だ。
 湿っぽい空気を流すようにグイッとウィスキーを飲み干す。机に置いたグラスの中で、氷がカランと落ちた。


「──ごめんねデイヴィス、遅くまで付き合わせて」
「悪いと思うならいい加減愚痴を聞かせるのはやめろ」
「へへへー」
「笑って誤魔化すな」
「いたっ! ひっど! 女の子を叩く!?」
「女の子を叩いた覚えはない」
「失礼だな!」

 時計の針はもう直ぐ日付を超える頃合いで、私達の飲みはお開きになった。バスも電車も帰るにはギリギリの時間で明日が仕事だったら死んでいたけど幸いなことにお互い休み。連休万歳、次はいつくるだろう。
 ほろ酔い気分で帰路に着く。街の明かりは消えているところが多いのは此処が郊外の飲み屋街だからだ。午後十時ごろにはもう人がまばら、この時間なら閑散としている。
 それもあってか、デイヴィスは夜道は必ず送ってくれる。私だって魔法士の端くれ、生徒を導く教師だから大丈夫だというのに。暴漢だろうが魔獣だろうが、出てきたところで対処する心得はある。歳の割に体力も筋力もあるから心配ないのだけれど、デイヴィスはサラッとそんなことはどうでもいいという風に送ってくれる。
 けれど、一度だって狼になったことは、ない。
 隣を歩くデイヴィスをちらりと見遣る。夜風に揺れるツートーンの髪は女の子のようにサラサラで、艶やかだ。長い睫毛、均整の取れた顔はやっぱりとても、綺麗で。

「モテるくせにさ、デイヴィスも恋人いないよね」
「なんだ藪から棒に」
「べっつにー?」

 片眉を上げたデイヴィスに含意ある視線で応えたらますますしかめっ面をされた。私の意図が読めない顔にちょっとだけいい気になってしまう。
 デイヴィスはモテる。そりゃあもうエレメンタリースクールの頃からモッテモテだ。顔良し成績良しファッションセンス抜群、難点なのは他人にも自分にも厳しいところだけれど、そこも含めて目にハートマーク飛ばす女子達を何人も見てきた。何人か付き合ったと言う子もいたらしいけど、尽く長続きせずに別れている。
 お互い良い歳だ。だからこそ見合い話の一つや二つはあった。けれど、お互いそれには乗ることができずにこうして腐れ縁がずるずると続いて今に至っている。
 まるで、絡まっている糸の先が繋がっているようで。
 だから、だからちょっとだけ。ほんのちょっとだけ思ったのだ。

「モテるくせに、見合いもするくせに一向に誰ともゴールインしないじゃん?」

 トントン、と数歩彼の前に出てくるりと振り返る。
 ちょっとだけ、ね? 困らせてやろう、て思っただけなの。

「なぁに? もしかして、私のこと好きなの?」

 けろっと戯けた調子で宣ってやる。
 いつだって私の愚痴を聞いてくれて、付き合ってくれて、けど絶対に狼にはならない。優秀なブリーダーの彼をちょっと揶揄ってやろう、と思っただけ。

「今更気づいたのか?」
「……へ? え?」

 なのに──あっさりと彼は返した。あっけらかんと、何一つとしてつっかえることなく、さも当然と言わんばかりの口調で宣った。
 晴天の霹靂とはこのことか。なんの冗談かとフリーズした私にデイヴィスはしかし変わらない。何も変わらない。先ほどまで私を小突いていた時と同じトーンで淡々と紡ぐだけ。

「てっきり気づかないフリをしているものかと。まぁ、それならそれでじっくり躾けてやろうと思っていたが……こら、逃げるな駄犬」
「いやいやいや逃がしてください、私野良犬なんです」
「野良なら尚更逃がしたら駄目だろう」

 思わず背を向けてダッシュしようとしたのに足が全く動かなくて。こんな時に魔法を使うなと叫びたかったけど肩を掴まれて彼と向き合う形にされたらもはや何も言えない。

「や、やー待って、無理ちょっと今まともにデイヴィスの顔見れないから」
「それは困るな。飼い主の顔は良く見てもらわないと」
「ひん…」

 両手首を掴まれてしまったから、最後の足掻きと俯いたのに、デイヴィスはくっくと喉を鳴らした。躾けるのがたまらなく愉しいと愉悦に染まった声音にゾクゾクと背筋が粟立つ。「顔をあげろ」と耳元で囁かれたら躾のなっていない犬にだって効いてしまう。だって、デイヴィスは──

「イイ子だ」

 優秀な飼い主だから。
 デイヴィスの細長い指が首を伝って頬に添えられて、人差し指が顎に触れたらもうそれは合図。
 嗚呼、私はいつのまにデイヴィスの犬になっていたんだろう。そんなことを考えて首を振る。いつから、なんて決まりきっている。だってもう長い付き合いだもの。きっと、卒業してからずっと、デイヴィスは私に首輪を着けていた。どこへ散歩に行っても必ず主人のもとに帰ってくる忠犬になるよう躾けられていた。
 私が彼を愛用していたんじゃない。

(違う──)

 彼か私を愛用していたのだ。
 カサついていない女の子顔負けの柔らかな唇の感触に背筋がゾクゾクする。ひと気のない三叉路でガス灯の明かりすら届かない場所で、口付けられている。後頭部に添えられた大きな掌が、私が逃げることを許さなくて。腰に回された手がするりとブラウスの下、肌着の中へ入り込んで素肌を撫ぜる。嗚呼、触れられている。そう思うだけで鼓動は早くなるし、体は熱を持った。

「ん…ふっ、」

 唇を割って入ってきた舌は肉厚で、逃げる私のそれを追いかける。絡めとられて舐られたらびくびくと体は震えるし、生理的な涙が目尻に浮かんだ。口蓋を、歯列を丹念に犯されて、くちゅくちゅと響く厭らしい音に気持ちまで溶かされてしまう。これ、ずっとされたら駄目になる。
 好きなタイプとか傾向なんてない。ステータスに恋なんてしない。それらは加味するもので本質じゃない。

「これ、と思ったか?」

 たっぷりと私を躾けたデイヴィスは私の頬に手を添えて囁く。頷くしかない私を知っている癖に、敢えてそう問いかける彼の妖しい瞳に、私はちょっぴり悔しくなって視線を逸らした。認めてしまったらなんだか負ける気がして。実際負けてるんだけど完敗だけはしたくなくて。

「……もう帰りのバスも電車も何もないな」
「あ…」
「ところで、俺の家はこの近くにある。あぁ、教員寮とは別だ安心しろ」
「っ、は…謀ったなきさま…」
「謀るまでもないだろう?」

 嗚呼、駄目だ。敵わない。
 歩く彼に、見えない首輪を、くん、と引かれた気がするのは気のせいだろうか。
 ただ現実には、代わりに私の手を引いたのは彼の大きな掌で。

 ──これなら、犬でも悪くないかな。

 そう思ってしまう程度には絆されている自分がいて。
 狼になった彼の初めての姿に、ちょっとだけ優越感を覚えたのは秘密だ。