洋上の淑女

 二日ぶりの晴天だった。厚い雲が晴れて覗いた太陽は、五日も船内に自分たちを閉じ込めていた嵐に辟易していた人々を甲板へと誘う。いくら今が戦時下で、これが敵国同士を結ぶ交換船だといっても、もとは大型の豪華客船の船内はそれなりの設備が整っていたうえに血生臭い陸地での戦場とは無縁の洋上。人々が開放感に満たされるのも無理ないことだった。
 両国のスパイが乗り込むことを防ぐために、常に中立国の外交官や任命された民間の監視員が交換船には付く。海軍の将校であるディートフリートが交換船に乗り込むなど勿論ご法度だ。見つかってはいけない秘密の航海。一週間前、「身分証を拝見いたします」と、年若い、ハスキーな声の監視員にディートフリートは紙一枚を差し出した。民間の監視員だろうか、目つきが外交官のそれとは違い穏やかさが滲んでいた彼はディートフリートの顔と身分証を交互に見遣った後、わずかに口元を緩めると「良い旅を」と、彼を船上へと誘導した。
 ディートフリートが身分を偽ってまで交換船に乗り込んだのには理由があった。
 二週間前、上官の執務室に呼び出されたディートフリートは、ある任務を言い渡された。
《交換船に乗り込み、友軍のスパイからの情報を受け取れ》
 偽装されたであろう手紙に記された暗号文を一読した上官はディートフリートを一瞥もせずに言い放った。ライラの花弁が羊皮紙に添えられた可愛らしい手紙だった。
 なぜ、ディートフリートが任務を言い渡されたのかといえば単純なことだ。ブーゲンビリアが軍人を輩出する名家とはいえ、それは陸軍の話である。家督を捨てたディートフリートにブーゲンビリアの肩書は意味を成しておらず、海軍内でも一癖も二癖もある変わり者と悪評は尽きない。出世街道を着々と歩む若輩者を煙たがる老人も多いのだ。
 しかし、この度の友軍の情報は海上戦における重要機密ということならしく、是が非でも海軍しては手に入れたい情報だった。
(──白羽の矢が当たったわけだ)
 甲板で一服したディートフリートは気怠げに洋上を眺めた。
 スパイとやらの年齢も容姿もディートフリートには知らされていない。ただ、与えられた偽の身分証でこの船に乗り込めと命じられただけ。あとのことはスパイが上手くするとのことだが、果たしてどのように接触してくるのか。監視員の目が行き届いている、この洋上の監獄で。
 一迅の風が甲板をさらった。嵐が過ぎたあとのため、吹き返しの風が吹いたのだろう。至る所で物を飛ばしてしまった人々がいた。
「──すみません」
 ふと、ディートフリートの耳朶を女の声が打った。視線を向ければ、そこにいたのは年若い、自分より十は下であろう女だった。女はディートフリートに困ったように微笑むと彼の足元を指差す。
「落としてしまったんです。拾って下さると嬉しいです」
 ディートフリートの視線が指先を辿っていけば、足元に鮮やかなピンク色のハンカチが落ちていることが確認できた。先ほどの疾風で飛ばされたのだろうか。
 ディートフリートはかがみ込み、無言で手に取るとハンカチを女に渡した。
「ありがとうございます。ふふ、素敵な殿方ですね」
 妙に色の乗った目をしている。ディートフリートは心内で嘆息した。この手の女はとてもしつこいのだ。
「いえ、当然のことをしただけですから」と素っ気なく言い放ち、視線を合わせないディートフリートに、女はニコニコと笑みを崩すことなく、彼の隣に立つと共に海を見つめた。
「……あの、俺は」
「いやですねぇ。戦争なんてとっても」
 そろそろ部屋に戻ると口にしかけた刹那、女が唐突に喋り始めた。面食らったディートフリートは話を遮ることができずに女を見つめる。
「いやじゃありません? 戦争って」
「あ…あぁ、そうですね」
「ね。ほんと嫌。商売上がったりだし、男は軍に取られていなくなるし。春だって来やしないわ」
 ぷく、と頬を膨らませる姿は愛らしく、その辺の男なら食い付くだろう。亜麻色の髪を束ね、翡翠色の瞳を細めた女は桃色の唇で紡いでいく。ライデンで貿易商の仕事をしていたこと、故郷に想い人がいたのに戦争に行ってしまったこと。多くのことを聞かれもしないのに紡いでいく彼女にディートフリートが辟易してきた頃、彼の耳に届いた単語に、意識は女に否応なく向けられた。
「故郷は今の時期、ライラ≠フ花畑がそれはもう見事なの」
 ぴくりとディートフリートの肩が揺れる。息を詰めて女を緩慢に見遣れば、女は婉然と微笑んだ。
「食用にも観賞用にも重宝されるので主要な輸出品になっているんです。せっかくライデンでも贔屓にして下さる方が沢山おられたのに、もう全部パァですよ。仕事も男も何もかもなくなっちゃって。ねぇ、とても哀しいと思いません?」
 スッ、と手すりに置いていたディートフリートの掌の上に彼女の手が載せられる。スリ、と絡められた指に、ディートフリートは目を細めると、口元に弧を描いた。
「……貴女のお名前は」
「あら、名前なんて必要かしら?」
「失礼…では、ライラの花の君よ。ここは陽が当たって気持ちが良いですが、海風が少し冷たい。良ければ私の部屋で話しませんか?」
「まぁ、それは……情熱的≠ネお誘いだこと」
 蠱惑的な笑みを浮かべた女は誘いに乗ったディートフリートに自らの腕を絡めた。二人は甲板を監視している外交官に軽く会釈をすると、陽の光が燦々と降り注ぐ甲板から室内へと姿を消していった。

「──お初にお目にかかります、ブーゲンビリア大佐。名前・苗字と申します」
 部屋に着くや否や、女はディートフリートから直ぐに離れると恭しく頭を垂れた。先ほどまでの妖艶さは鳴りを潜め、令嬢としての所作を弁えた動作に変化した女にディートフリートは面食らう。目を瞠り、無言となってしまったディートフリートに、女は小首を傾げながら思い出したように「尾行者がいないことは確認済みです。人が近づけば足音で分かりますので、通常の声量での会話は問題ありません」と明後日の方向の心配をしたため、ディートフリートはため息を吐いた。
「いや…いい。分かった」
「はい」
 機械的な返しにディートフリートの脳裏にはある女の面影が蘇った。自分が戦場で拾い、そして弟に押し付けた兵器=B獣と呼ぶに相応しいヒトの形をしたバケモノ。
 いや、アレはこんな演技はできない。
 ディートフリートは脳裏の面影を振り払う。そして、女が部屋に入って名乗った名を反芻させた。
 名前・苗字。
「……待て、苗字と言ったか?」
「はい」
「あそこの娘は全員嫁いだはずだ、全員」
 名乗った女の姓にディートフリートは聞き覚えがあった。遠縁とはいえアンシェル王国の王家の血筋を持つ貴族。アンシェルがライデンシャフトリヒ率いる南部方面と結びつきを強くしているのは経済面もあるが、この遠縁の貴族の顔を立てるという側面もある。
 苗字家の現当主の子は七人。男三人の女四人で、長男は家督を、残り二人の息子は陸軍と海軍の士官学校へ、そして娘達は全員、早々に嫁いだ。陸海軍、貴族、家格の見合った家に嫁に出たはずだ。
 ディートフリートの問いかけに女──名前・苗字は恬淡な口振りで答える。
「王家に連なる血筋といえど穢れた血ですから。引き取ったものの持て余した結果です」
 穢れた血。お綺麗な貴族にも存外人らしい@~があったのか。手違いで生まれたのが目の前の女ということだった。
「嫁ぎ先くらいどこでも…」とディートフリートは呟いたが変わらぬ能面で名前は言下に返す。
「いっそどこぞやで野垂れ死んだ方が家にとっても都合が良いのでしょう。私としても、死に場所くらい自分で選びたいですから」
 腹違いの娘は奔放だったのか。至極平静で落ち着き払った声にもかかわらず、やっていることはしょうもない男と駆け落ちする女と似たようなものだった。
「本題に入ります」と、まじまじと自身を見つめるディートフリートを他所に名前はハンカチを取り出すと、折りたたんだそれを開いた。
「こちらをどうぞ。次のガルダリク海軍の海上作戦における配置図です。新型艦の図面も入れています」
 ハンカチに包まれていた物、それはマイクロフィルムだった。フィルムの中身を説明した名前にディートフリートは「は?」と片眉をあげる。
「こんなもの…どこで手に入れた?」
 艦隊戦における艦の配置図、新型艦の図面など極秘中の極秘事項だ。外部に漏れることなど万に一つもありえない。否、あってはいけない。そんなことが最初から漏れていては海上戦において命取りになる。
 名前はひとつ瞬いた。
「海軍というのは洋上での警戒が多いので必然的に春を買いたがるものです。何度か贔屓にされれば、部屋へ上げられます」
 そもそも、陸続きのライデンシャフトリヒとガルダリクの戦闘おいて主要なのは陸地、山地であり、海上は主に商船の物資輸送ルートを確保するためにある。通商破壊の防止が主な任務で地上部隊の陸軍に比べて緩みはどうしても出てくるのだ。
 しかし、とディートフリートはフィルムの説明を続ける名前を見つめる。それを差し引いても彼女の能力は異様と言えた。弟に押し付けた兵器とはまた別種の狂気が垣間見える。
 しなやかな指先、玲瓏な声、翡翠色の美しい瞳、綺麗に結われた亜麻色の髪に瑞々しい肌。彼女を構成するのは紛れもなく美と形容できるものというのに──
「……大佐、ベッドに」
「は?」
「急いで」
 唐突に名前はディートフリートにベッドに横になるよう指示した。将校であるディートフリートに対して無礼極まりない、さらに言えば貴族の娘としては言語道断の注文だが、僅かに焦りを孕んだ声音にディートフリートは彼女の指示を素直に受け、ベッドに横たわる。
「失礼します、大佐」
 一言入れた彼女は五センチヒールを脱ぎ捨て、あろうことかフリルがあしらわれたドレスも脱ぎ捨てた。
「なっ、お前っ」
「お静かに」
 シュミーズ一枚になった彼女は唖然とするディートフリートの上に跨り、髪を解くと肩紐を二の腕の辺りまで落とした。目によろしくない光景にディートフリートは視線を逸らしたが、名前は気にする素振りを見せるどころかディートフリートの顔に手を添える。
 ──刹那、部屋の扉からノック音が聞こえた。
「失礼します」
 了承もなしに開いた扉にディートフリートが目を見開く。心臓が大きく波打った。ディートフリートに諜報の経験はない。何か、自分が疑われる原因があったか。
 しかし、扉を開けた外交官から見えているのは、ほつれた髪と肌をさらけ出した彼女の背中だけで。当の彼女は、視線だけを後ろに遣った。
「あら、見るのが趣味なの? 貴方」
 ひどく妖艶な声がねっとりと鼓膜を揺らす。臥所の女の声に、外交官が息を呑んだのが見ずとも理解できた。
「い、いえ! 自分は! その、見回りの一貫で」
「あら、それはごめんなさい。陸地につくまで待てができるほどお行儀のよい猫じゃないの、私」
 ゆるりと動く腰。寄越した視線に色を乗せ、彼女は蠱惑的に笑んだ。乱れた髪を一房、耳にかける。
「……ねぇ、動いて≠「いかしら?」
「しし、失礼しました!!」
 慌てふためいた外交官が扉を勢いよく閉める。足音が遠のく中、ディートフリートが聞こえる範囲よりさらに十数秒してから、彼女は詰めていた息をふっ、と吐いた。
「申し訳ありません、大佐」
「いや、いいが…ここまでする必要はあったのか」
 自身に跨る彼女を見上げながらディートフリートはおずおずと尋ねる。部下が今の自分を見たら呆然とするだろう。ディートフリートは思いの外、狼狽していた。
 彼女は素早く彼の上から退くと、部屋の鍵を占めて彼に向き直る。
「ただ抱き合う程度だと不信感を拭えない場合があります。明確な行為として記憶させた方が都合が良いのです」
「鍵をかけていなかったのは…」
「存外、この船の人間は鍵をかけていませんから、かけない方が自然なのです。ただ、思った以上に早く見回りが来てしまい、申し訳ありません」
 淡々と答える彼女はまるで先ほどまでの行為は些末ごとと言わんばかりの様相だった。機械的な会話を交わす彼女は、同じ調子でマイクロフィルムについての説明の続きと上官への報告事項をディートフリートに伝える。伝えながらドレスを着直し、髪を整える彼女にディートフリートはただただ相槌を打った。
「そろそろ私は戻らないといけません、何かありましたら、こちらの部屋へ」
「これは…」
 渡されたメモ用紙に記された部屋番号を見て、船の見取り図を脳内に広げる。
「適当な理由を付けて戸を二回ノックしてください。一人部屋で隣は空き室になっているので、声は漏れません」
「待て…監視員に協力者がいるのか?」
 立ち去ろうとした名前の腕を慌てて掴み、ディートフリートは彼女に尋ねた。渡された部屋番号は監視員室のある区画にある。一般の乗客が立ち入ることのできない区画に来いというのは、協力者を介せということか。
 ディートフリートの問いに、名前は僅かに目を丸くすると、少しばかり考える素振りを見せた後、彼に──口元を緩めた。
(……まさか)
 目を見開いたディートフリートは脳裏に蘇った相貌に手の力を緩めた。彼女はディートフリートにもう一度深々と頭を垂れると今度こそ彼の部屋から姿を消した。
 部屋の扉が閉まった後、ディートフリートはしばらくの間その場に佇立した。その後、思い出したように一歩二歩と下がって椅子に腰掛ける。ハッ、と息を吐いた彼は、思わず苦笑した。
「……おそろしい女だな」
 ハスキーな声の監視員が、彼の脳裏で微笑んだ。

 二日後、中立国であるドロッセルの港には既に敵国側からの交換船が停泊していた。ディートフリートは勿論、ガルダリクに行く船に乗らず、このまま船を乗り換えて本国へと戻ることになる。
 港では束の間の間、両国の国民は休息を取ることができる。ディートフリートは少しばかり離れた物見台へ足を運び、大海原を眺めた。
「お疲れ様でした、大佐。ここでお別れです」
 後方から聞こえた声に振り返れば、背の低いハスキーな声の監視員がディートフリートの横に立った。物陰に隠れた、絶妙な位置となっている。
「帰還船には私の協力者がいます。第二グループで乗り込む際の監視員になっていますので、必ずそのグループで乗船を。何かありましたらその者を訪ねてください」
「お前は……これからどうする」
 ゆったりとした口調で尋ねたディートフリートに彼女は変わらない恬淡な声音で返した。
「どうもしません。このまま向こうの港に戻った後は、また任務に就きます」
「……そうか」
 向こう、というとはガルダリク、北側の港で、彼女はまた顔を変え、素性を変えて生きていくのだろう。名家の娘という肩書を捨て、命の危険と隣り合わせとなりながら、しかし自由に強かに生きていく。それが、彼女が選んだ道だ。
「それでは、失礼します」と立ち去る背中を見つめ、ディートフリートは思いを馳せた。
 いったい、その身に何を抱えて生きてきたのか。どのようにして彼女がここまで至ったのか、ディートフリートには知る由もないし、知る必要もない。
 しかし、彼女との短い邂逅を思い起こし、ディートフリートは呼び掛けた。

「──名前」

 彼女だけに聞こえる声量で、ディートフリートはその背中に紡ぐ。
「俺は、忘れない」
 ぴたりと立ち止まったその背に、心の赴くままに紡いだ。
「お前がどこで野垂れ死んでも、俺は忘れない」
 忘れることなど、できないだろう。風変わりな鮮烈な女の記憶はディートフリートの脳に刻まれてしまった。
 彼の言葉に彼女は──名前・苗字は目深に被ったハンチング帽から、僅かに顔をのぞかせて彼を振り返った。
「……ありがとうございます、大佐」
 そっと動かした唇が、微笑みを作る。淡いその相貌は、年相応の女性のものだった。
 彼女の背が遠のく。ひとり、敵地へと帰る彼女を送った後、ディートフリートは再び大海原を眺めた。
 家に疎まれ、名もなき女として彼女が墓に入る時がきたら、覚えておこう、その名を。
 
 名前・苗字という、風変わりな淑女の名を。