時代に取り残された町だと思った。鼻腔を抜ける潮の匂いも、常に聞こえる波音も、岸壁で揺れる漁船も、何もかも変わらない。変わらずそこに在って変わらず続いていく日々を毎日、見続けてきた。
平成の大合併で隣の市に多数の町村合併された時、この町は申し出を跳ねたらしい。地力のない自治体をまとめて地方分権の受け皿にするためなんて言われていたけれど、住民投票の結果、この町は自立の道を歩むことになった。自分たちは自分たちだけでやっていける。意地とプライドが現れているけれど、それが良かったのか悪かったのか、私には分からなかった。ただ、自立を勝ち取った大人達の晴れやかな顔に何も心が動かなかった。
地域のつながりなんて相互監視みたいなもので、古き良き伝統は下らない慣習だ。時代は常に進み続け、こんな田舎町を忘れていく。ショウシコウレイカとかジンコウゲンショウなんかに対応するために小さい自治体は涙ぐましい努力をする中、今日も国の中心地はきっと活気付いていて、石火した町は閑古鳥しか鳴かない。
どこか、時代に取り残されて。無味乾燥な毎日が過ぎ去っていく。期待も刺激もない、ただ漫然と日々が過ぎ去り、そして先細っていずれは消滅していく。地域のつながり、伝統、そんなものを後生大事にしたところで現実は無情に私達を連れ去っていくだけというのに。
それでも、此処に残ると決めたのは、私だった。
《盆前には帰るから》
ピロンと表示された文字に瞬く。数秒その文を見つめて直ぐに返した。
《夏って忙しくないの? ハルは?》
《ハルは大会前だから時期ずらすって。今回は俺だけ》
《そっか。なら迎えに行くよ。時間教えて》
《え。名前、運転できるの?》
《此処じゃ免許ないと何処にもいけない、てぼやいてたの、真琴でしょ?》
《あ、言ってたね。そんなこと》
相変わらず抜けている。ふにゃりと緩んだ顔が眼前に浮かんで思わず笑ってしまった。
何回かお互いに返事をして、じゃあまたね。いつも通りの定期連絡はそこで終わった。いつも通りが終わったけれど、それはいつもと違う終わりで。
「真琴…帰ってくるんだ」
くるんとベッドの上で寝返りを打って壁掛けのカレンダーを見つめる。七月のカレンダーはもう半分を過ぎていた。
ハルと真琴が東京に行くと聞いた時、何も驚きはしなかった。嗚呼、やっぱりね。そんな達観した胸の内だったことは今でも忘れていない。
ハルは泳ぐのが好きだ。泳いで、泳いで、水に愛された人魚は水と共に高みへと行くのだろうと最初から予感はあった。それならば、石化したこの町にいても駄目で、大海原に飛び出していかないといけない。
真琴は引っ込み思案だけど芯が強い。こんな片田舎に引っ込んで、ハルをただ眺めてるような男じゃないと思ってた。形は違っても夢のために高みへと努力をする、そしてそれが誰かのためになるのなら尚良し。気弱そうに見えて、地に足をつけているのが真琴だった。
二人ともが外へ旅立つ。この時代に取り残された町から飛び出して、大海原を颯爽と泳ぐイルカやシャチのように、どこまでも遠くへ、自由に。
「……馬鹿みたい」
脳裏に浮かんだのは、空港で佗しげに微笑んだ真琴の姿だ。飛び立つと決めたくせに寂しそうに名残惜しそうに真琴は笑った。定期的に帰るとか連絡するとか、そんなことを言っていた気がする。もう、覚えてすらない。
後ろ髪引かれるような面持ちで手を振って、それでも外へ出ていったのは、真琴だ。そして、此処を厭いながら残ったのは、私だった。
《何もないね、本当に》と、嗤うサークルのメンバーに同調して口角を上げるのが、私のいつも通りの日常だ。隣町にある国立大学までは車で三十分ほど。列車でも行けたけど一番最初の講義に間に合わせるためにはちょっと早起きしなきゃいけないから、直ぐに免許を取った。狭い岩鳶の漁師町では軽自動車が一番。お気に入りのワインレッドはトレンドの色だってテレビで見たものだ。高校の時はしてなかった化粧にも挑戦して、通販で取り寄せたものを使ったりしてみる。ネットの世界はいつでもどこでも平等で、片道数時間かけて活気付く場所へ行く必要はない。ググればすぐそこには"今"が広がっているのだ。
けれど、どうしたってこの町は変わらず過去のままだ。
何もないなんて言われなくたって分かってる。イベントにもフェスにも行きにくい。少し足を伸ばせば何だってある場所なんかじゃない。何もなくて、何も変わらないそれが此処、岩鳶という町、ひいてはこの地方だ。人口最小の地方。人がいないならモノも来ない。取り残された町。
嗚呼、それでも此処に残ったのは、私の方だった。
八月十三日の昼過ぎ。東京とは一時間半ほどの空の便で真琴は帰省した。
「おかえり、真琴」
「ただいま」
帰省客でごった返すロビーから直ぐに駐車場へと向かって車に乗り込む。「こんな感じなんだね、名前の車」と、言いながら巨躯を狭い車内に押し込む真琴の絵面はなかなかシュールで思わず笑みを溢す。
国道を通って岩鳶へ向かう車内で真琴は車窓から見える景色に弾んだ声を出していた。懐かしい、としきりに口にする真琴に相槌を打ちながらどこかちょっぴり寂しさを覚えて。たった数ヶ月、されど数ヶ月という月日はこの取り残された地から彼をそんなに離してしまったのかと、理不尽な想いが胸中に渦巻いて首を振る。他でもない私が、何を思っているんだろう、と。
変わらない様子の真琴に、けれどきっと変わってしまったことがあると分かっている。夢に向かって進む真琴の背中はどんどん遠くなって。けれどそれは真琴だけじゃない、近い将来にはこんな横断幕が役場に掲示されるだろう、《祝!七瀬遥選手松岡凛選手!オリンピック出場!》。真琴が専属のトレーナーになっていたらそこに彼も追加だ。
「真琴はさ、楽しい? 東京」
だから、口から溢れる声色はどこか恨めしい。
そんな私のみっともない感情を知らない真琴はけろりと応える。
「え? うん、すごく楽しいよ。いろんなことを学べるし」
「そっか…良かったね」
うん、知ってる。思わぬ再会があったこと、ハルは水泳に明け暮れてること、いろんなことを真琴はスマホ越しに教えてくれた。真琴の楽しさなんてそれだけでも十分に伝わっていて、大海原に飛び出したシャチはキラキラと輝く世界を自由に泳ぎ回っている。全部知ってるんだ。
知ってるくせに言葉にする私の狡さなんて、知らなくていい。
「名前は? 楽しくないの?」
けれど、真琴はふとこちらを覗き込んだ。一瞬ちらりと見えた憂の色に私は運転中だから前を向く。
「楽しいよ。講義は楽しいし、サークルもまぁ、みんな騒がしいけど楽しい。すごく、うん」
楽しくないわけじゃないからスラスラと出てくる言葉。真琴は「なら良かった」と、また車窓の外を眺めて微笑んだ。
家に真琴を送り届ける前に、真琴は少し海岸線を見たいと申し出てきた。真琴からお願いごとをするのは珍しくて、張り切って少し足を伸ばす。とはいってもいつもの道なのだけれど。
長い年月をかけて波に削られた岩肌が織り成した海岸線は風光明媚な地として町の観光名所にもなっている。海が澄み渡る夏場には観光客が多く訪れて大自然の歴史を肌身に感じるというけれど、私にとってはそれだって日常だ。
木製の階段を降りた先、ちょっとした入江になっているそこは観光客がそこまでこない場所。水面に煌めく陽光に真琴が薄らと眼を細めた。「懐かしい?」なんて聞いたら「そうだね」と帰ってくる。
「あんまりさ、海を見る機会がないんだ向こうは。こういった海岸線とかがなくて、波の音が凄く遠い」
さざ波が立ち、ひゅるりと風が入江を抜ける。佗しげに呟いた真琴の気持ちがわからなくて、私は努めて笑った。
「そりゃ、日本で一番人が多いところと一番少ないところが同じなわけないじゃん」
「まぁ、そうなんだけどね」
「全然違うんだよ。真琴が行ったのはそういう都会。人もモノもなんでもある場所なの」
連ねれば連ねるほど、どこか虚しい感覚が胸をよぎった。積み重ねられた此処への否定にどうして私がこんな感情を抱かないといけないんだろう。
そんなの、こんな、取り残されたところにそんな眼を──憧憬を思わせる瞳を向ける真琴のせいだ。
真琴はうんともすんとも答えなかった。ただ、私の言葉に困ったように眉尻を下げただけで、砂浜に打ちつける波音が無情に耳朶を打った。
二泊三日の日程の中日、八月十四日は岩鳶を含めたこの地方に於いては一年の中でも特に晴れやかな日だ。
「真琴、離れないでね。迷子になるよ」
「それ俺の台詞だと思うんだけど…」
人でごった返した駅前で、私達は顔を見合わせた。
平成の大合併で大きくなった隣町で開かれる、傘の祭典。特徴的な和傘に鈴が付けられていて、それを使って市の中心部を踊り子達が練り歩くお祭りは岩鳶からも踊り子の団体が毎年参加している。数千人規模の参加なのだからやっぱりこの地域にとってはかなり大きな祭りだ。
二人で見にいってこいと両親に言われたのが今日の朝。お婆ちゃんは何故か浴衣をすでに準備していた。真琴の都合もあるからなんてやいやい言いながら服を引っ剥がされて、藍色の浴衣を着せられて玄関に行けば既に真琴がいた。ご丁寧に、真琴のご両親の送迎付きで。あれよあれよと隣町の駅まで送られ、帰りは終電逃したら迎えにいってあげるから、なんておばさんにウインクされたらもう後には引けなかった。
見慣れた土地と風景。迷うことはないんだけれど真琴と隣町まで足を運んだことはそんなにない。
「行こっか」
一丁前に人波が出来た駅周辺に向かって歩き出した真琴を慌てて追う。いつもは人なんてそんないないだろうに、今日は多くの人が浮き足立っているから驚くほど人は多い。
「真琴、待って」
歩き出した背中に声をかける。真琴の一歩は大きい。いつもなら小走りで追いつけても今日はそうはいかない。踊りの音楽が常に街に鳴り響いていて、喧騒はどこまでも続いている。いつもの、真琴と過ごした静かで優しいあのさざ波の音は此処には届かなくて。
「あれ? 名前じゃん」
「ほんとだ! 浴衣可愛いねー!」
「え、あ…みんな」
真琴、と手を伸ばそうとした矢先、ふと耳に届いた声に足が止まった。振り向けば、サークルメンバーの顔を四、五人確認できて、そういえば、大学の踊り子団体が出るから見に行くとか言ってたな、と会話の記憶を呼び起こす。
「名前、いいなぁ。そっか、地元こっちだから浴衣あるんだ」
「あ、うん…そだね」
「てか、まさか一人? 浴衣着て?」
「えっと、一人じゃなくて」
「名前」
喧騒の中、凛とした声が真後ろで聞こえて、刹那、私の右手に人肌が触れる。
「えっと、お友達?」
こてんと小首を傾げながら尋ねる真琴に首を縦に振りながら視線が自然と右手にいった。触れている人肌、その掌は大きくゴツゴツとしていて、幼少期に繋いだソレとはワケが違うほど、男らしかった。
私の視線に気づいたのか、真琴は「あ,ごめん」と何事もなかったかのように手を離す。私達の様子にサークルメンカバーは色めき立った。
「え! 名前の彼氏!?」
「マジ!? 名前ちゃん、彼氏いたの!? んな話、新歓の時なかったじゃん!」
「いや、別に話す義務もないでしょうが」
「けどさぁ、気になるじゃん? 男としてはさ」
「あ、のさ! ちがくて!」
「幼馴染だよ」
誤解のまま暴走していたメンバーに事情を説明しようとした矢先、真琴の言葉が空気を揺らした。騒めいていたメンバーがピタリと止まり、代わりに真琴は続ける。
「俺は橘真琴。名前の幼馴染なんだ。今は東京の大学に行ってて、明日までこっちに帰ってるからついでに祭りに行こうかと思ってさ。親同士仲良いから一緒に行ってこい、て言われて来た感じ」
「えー、なになに。幼馴染って良いね〜、仲良いじゃん」
「まぁ、仲は」
「良いよね」
「惚気かよ」
どっと起こった笑いに真琴も釣られて笑顔になる。軽く自己紹介をしたら、もう真琴は話の中心になっていた。
あっという間に喧騒に呑まれた私達は、そのままメンバーと駅前の広場に向かう。屋台が林立した通りから離れているため、少しは腰を落ち着けることができた。
「橘君はなんで東京に行ったの?」
「んー、学びたい分野だとここには学科がなかったんだ。スポーツ系だから」
「へー、なんかやってたの?」
「水泳。バック専門だよ」
「バックって…あ! 背泳ぎだ!」
真琴の周りに女子二人と男子一人が集まって話に花を咲かせる。嗚呼、確かあの子は東京の子だ。隣の子は神奈川、男の子も東京だっけ。
チリリと、胸の内で何か燻って、けれどそれを形容する術を私は知らない。東京のどこに住んでるか、大学はどこか。そんな私の知らない話が乱立して、ついていけない私は残りの地方出身メンバーと他愛のない話をし始めた。
「──それにしても、ほんと今日だけは多いのな、此処」
ふと、男子の一人が大きな声で漏らした一言を私の耳が拾った。別々に談笑していた私達の会話が一つになる。男子は、辺りをぐるりと見渡して辟易したように舌を出した。
「いつもはこれでもか、てくらい人いないくせにな。人いないのが利点だろうに」
「分かる! 此処にこんなに人いるんだって」
「まぁ、でも祭りの時だけだろ。いつもは何もないし人もいない」
「さすが人口最小県だよね。大学進学なかったら絶対に来ないわ」
「分かる。他の大学に行けてたら絶対に来てないわ」
「お前の頭のレベルじゃ此処でもギリだろ」
「それな!」
左から右にいつも聞き流す会話が、やけに今日は耳につく。へらりと笑って、だよね、と肩を竦める私が今日に限って出てきてくれなかった。
うるさい。わかってる。外の人間に言われなくたってそんなことは分かってるんだ。
此処は何もなくて、人もいなくて。モノも価値観も何もかもが取り残された町で、旧態依然の風習と気質に嫌気がさして出て行く若者が多い町だってことは、他ならぬ私達が一番によく理解している。
そんなこと、言われなくたって──
「そう? 俺は好きだよ」
凛と傘の鈴の音のように澄んだ声音が喧騒に支配されていた空気を裂いた。無意識に握り締めていた拳が、真琴の顔を見たら自然と緩む。
真琴は、いつもと同じように微笑んでいたけれど、その目は全く笑っていなかった。
「俺は此処が嫌いだとか何もないから外に出たんじゃなくて、必要だから出ただけだよ。東京が良いから行ったわけじゃない」
ピリリと声色に含められる怒気は真琴らしからぬものだ。温厚で人を束ねることに長けている真琴の静かな怒りに、全員が萎縮した。
「何もなくなんてない。此処には俺の大事なものがたくさんあるし、帰るべき大切な場所だから、そう言われるのは──嫌かな」
微笑みながら眼を細めた真琴に誰もが息を呑んだ。軽口を叩いていたメンバーは罰が悪そうに俯いてしまって、沈黙の帷が降りる。ただ、辺りの熱気はピークを迎えているため、温度差がひどかった。
このままは、ダメだ。この空気はお互いに良くない。
「……ごめんね。私達帰るから、みんなは楽しんで?」
「え…あ、あの」
「大学連がもうすぐ通るから見に行ってきなよ。せっかくのお祭りだし、久しぶりの人混みを楽しみなよ! じゃーね!」
パシリと真琴の手を取る。ぴくんと震えたその手をしっかり握って私は駅構内へと向かった。人でごった返す構内で二人分の切符を買い、真琴に押し付けて出発直前の岩鳶行きの列車に、乗り込んだ。
夜の海に灯りがないわけではない。漁火が焚かれた海上にはぽつぽつと灯が見え、線香花火のように闇夜を照らしている。
「──真琴、ごめんね」
いつもの帰り道。真琴とハルと帰った道すがら、私は真琴にそう呟いた。列車内では気まずくて、何も言い出せなかったけれど、何故か此処にくると自然と言葉が漏れた。
「……なんで名前が謝るの? 場の空気壊したのは俺だよ」
真摯な真琴の声に、私は言葉を詰まらせた。
「私も、此処は何もないって、そう思ってたから……っ、いつもっ! ああやって言われて、笑って返してたからっ」
時代に取り残された町だと諦観していたのは私だ。だから何もないと言われても頷いていた。そうだよね、化石だよ。そうやって笑って笑って、虚しさに蓋をして道化に成り下がっていたのは、私だ。
「私はっ、いつも」
「でも、俺は出て、名前は此処にいる」
私の言を遮るように真琴が重ねた。
私は、此処にいる。そう、真琴は外に出て、私は此処にいる。地元を馬鹿にされて怒った真琴は外に出て、笑って迎合する私は、此処にいる。矛盾だ、矛盾だらけだ。
「名前は自分で思っている以上に岩鳶が好きだと思うよ」
なのに、真琴は変なことを言うのだ。
「嫌いな理由をちゃんと探してる。出ようと思ったら出ることもできたでしょ?」
「……そんなの、ただなんとなくで」
「なんとなく、でもちゃんと此処に残ったのは、好きだからだよ。だから、あの子達の言葉に傷ついてた」
真琴の言葉にはっと顔を上げる。月光に照らされた真琴の相貌は、先ほどとは打って変わって柔らかく微笑んでいた。
「俺、岩鳶のことを馬鹿にされるのは嫌だけど、もっと嫌なんだ。名前にそんな顔されるの」
そんな顔、てどんな顔?
眉尻を下げた真琴に、胸に迫り上がる想いがあった。
どうして、私は此処に残ったんだろう。厭いながら進学した。馬鹿にされながら笑った。時代に取り残された化石のような町、古い慣習に囚われて石化した時代遅れの町。人付き合いをしなかったら変な目で見られたり、腫れ物扱いされる田舎特有の性状。どうあがいたって私は──
「ちが、うの…真琴」
嗚呼、そういうことか。
真琴の顔を見つめて、思い出を紐解いていたら、ストンと腑に落ちてしまった。
違う。違うんだよ真琴。
私が此処を離れたくないのは、此処が好きなのは。
「っ、真琴と…過ごした場所だからだよ」
物心ついた時から一緒だった。さざ波の音が空気を揺らすこの静かな土地で過ごした真琴との全てが、此処には鮮やかに刻まれている。宝石箱のようにキラキラと光る水面、透明な海、漁り火の儚さ、地域の小さな祭りから町ぐるみの大祭まで。幼少期から青年期まで過ごした真琴との日々は、此処じゃないとないのだ。此処で、この場所で過ごした暖かくかけがえのない日々は決して他にはない、私の宝物。
だから、離れがたかった。だから、笑って流しても心の中では毒づいていた。
全部、私の記憶の中には貴方がいる。
「真琴と育って過ごした場所だから。だから、つまらなくても変わらなくても、私は此処にいたかった…私は」
「名前」
そっと、真琴の掌が私の頬に添えられる。
「泣かないで、名前。ね?」
スリ、と親指が目尻の涙を拭って、初めて私は涙を流していたことに気が付いた。「ごめん…」と離れようとしたけれど、真琴の両掌は私に添えられて離さない。
「俺は夢のために此処を出たけど、けどひとつだけ心残りはあったんだ」
「こころ、のこり?」
ぱちりと眼を瞬かせて涙を落とした私に、真琴は「うん、そう」と微笑んで、さらりと私の髪を梳いた。
「名前と、離れたくなかった」
懺悔のように紡がれた言の葉に、息が止まった。脳内処理が追いつかない頭にけれど真琴は止まらず紡ぎ続ける。
「一緒に見て、聴いてきた普通の毎日がなくなって、人は沢山いるのに肝心の名前が隣にいないのが、正直辛かった」
東京は楽しいと真琴は言っていた。
けれど、旅立つ時のあの佗しげな顔も、私にこっちは楽しいかと尋ねた時の表情も、全部今の言葉に集約されている。
隣にいつもいて、同じ景色を見てきた。
それを感じていたのは、お互いだった。
「……俺は今は此処に帰れない。いつか帰ることができるかも分からない、けど」
真琴の真っ直ぐな瞳が私を捉える。
「名前の隣は、誰にも譲りたくないんだ」
ずっと一緒だった。
ずっと、一緒だと思ってた。
けれど、違った道を選んで。
けれど、同じ景色を望んで。
そんな、蓋を開けてみたら単純な事実。笑ってしまうような、単純でけれど大切な事実。
「重かったらごめん。けど、俺は…ずっと名前の隣がいい、俺は」
「好き」
ぽつりと何の繕った声も出せなかった。
ただ、想いを綴る口を縫いとめることもできない。
「私だって隣にいたい。そばにいたい。此処じゃなくてもいい、真琴の隣がいい。好きだから、真琴のことがずっと、だからっ、」
続きを紡ぐ前に私の口は塞がれた、重ねられた唇に、驚きながらも背中に手を回す。真琴こんなに大胆なことできるんだ、なんて呑気に思いながら、けど触れられる感覚に涙が止まらない。嗚呼、私本当に真琴のこと、好きなんだ、て。
何度か啄んで、食んだ後に離された唇が名残惜しくて、もう一度私からキスをする。背伸びしてなんとか届いた体を真琴は抱き留めてくれた。抱き締められる感覚に陶酔して、誰が通るかも分からない此処で真琴の熱に溺れる。何度も、何度も、私たちは触れ合った。
取り残された町で、厭っていた此処で、私は大切なものを見つけた。
「真琴、明日朝イチの便で帰るんだよね?」
二人手を繋いで家路に着きながら、私は真琴に確認した。確か、ハルの試合の日程のこともあり明日の朝早くの便で東京に帰ると。
頷いた真琴に、私はにっこりと綺麗に口角を上げた。
「私も行く。泊めて」
「え……えぇええぇ?!」
村中に響き渡るんじゃないかという声量で真琴が叫んだため、「声大きい!」と返したけれど真琴は動揺していてそれどころじゃないみたい。「え、え、え?」と目を回す真琴の顔を覗き込む。
「いや?」
「や…嫌じゃないしむしろ嬉しいけどその、心の準備が」
「なら今から心の準備。私は物の準備するから」
「えぇええ…」
「私だってハルの応援したいし、あの子達の応援も行きたいと思ってたから。それに、」
ぎゅっ、と腕を絡ませて、ちよっぴしそっぽ向く。
「…せっかく色々と伝えられたのに、離れるのは…いや」
今が夜じゃなかったら、茹で蛸のような私の顔を見られていたかもしれない。割とさっぱりとしていると思っていた自分の変貌ぶりに私自身が驚いている。
「…うん、俺も、一緒にいたい」
名前、と名前を呼ばれて顔を向ければ、また、重ねられる唇。望めば届く場所に、真琴がいることに充足感を覚える。
寂しがりやの私達に、遠距離恋愛は少し、いやだいぶ、ハードルが高そうだ。