嘘つき

 女子大生と合コンできると、同僚が興奮気味に会議室で騒いだのが一週間前。無駄に顔面偏差値が高い職場のメンツのうち半数以上は白けた目で同僚を見やり、彼がそんな目を気にも留めずに参加者を募った結果、お仲間二人が参加するという、もはや様式美と言える流れを見た。いつもの光景に何一つ驚くことはない。せめて警察沙汰になるなと、洒落にならないのに若干現実味がある懸念をしたくらいだった。
 ──だというのに、現在、波多野は、その同僚と共に歓楽街の居酒屋の個室にいる。
「本当に助かった−! 波多野様々! まじ感謝!」
「うるせえ、黙れ、死ね」
「辛辣すぎない!?」
「このくらいで許してくれるんだから、むしろ優しいだろ」
「田崎もひどくない!?」
 やいのやいのとうるさい同僚、もとい神永に一瞥もくれてやらずに、波多野はスマホに視線を落とした。『ごめん、ほんと助かる〜』と可愛らしい犬のスタンプと共に謝罪文を送ってきた別の同僚に、『うぜえ』と一言だけ返す。悪い、と言わないあたりが、またいやらしい。
 自分はよく、このような役回りとなる。「スマホの新機種が発売されたから一緒に買いに行ってほしい」「推しの地下アイドルがユニット組んだから見に行こう」。本日は、「姪っ子が急に熱を出して看病しなくちゃいけないから、代打を頼みたい」だ。ふざけんなと一蹴したくなったが、脳裏に浮かべた同僚の姪っ子の笑顔に挙げた拳を下ろした。合コンの数合わせなど面倒極まりないが、これだと神永と田崎より、数が多い女性側がきまずくなる。かといって、熱を出した子どもを放っておけとは言えない。
 波多野は何度目かの嘆息を吐き出した。合コンだの彼女だの、心底どうでもいい。恋愛に疎いと言われたこともあるが、現状、生活にその要素が必要ないのだ。そもそも仕事が忙しくて、とてもではないが恋人に構う余裕なんてない。
 適当に、先方が気を悪くしない程度に相手をしてさっさと帰ろう。色めき立つ神永、あわよくばワンナイトを企む田崎を尻目にスマホをつついていると、ガラリと引き戸が開いた。
「すみません、遅くなりましたか」
 三人と目が合った瞬間、頭を下げたのは、何の変哲もない女子だった。薄手のニットにショートパンツ、ニーソックスという学生らしい出立ち。
 波多野たちが返事をする前に、その後に二人、女子が続いた。こちらは、薄紅色に黄色の花柄のアクセントが効いたワンピースと、白のシフォンブラウスに薄紫のフレアスカートを掛け合わせた、若干、大人びた印象を受ける装い。
 後から入った二人は「ごめんなさい」と申し訳なさそうにしつつ、少しばかりの上目遣いで三人を見遣る。一目見ただけで、慣れている≠ニ思わせた。年上との合コンが、一度や二度ではないのだろう。
 勝手に波多野が分析する横で、神永が薄らと目を細め、田崎の唇が僅かに弧を描く。嗚呼、品定めしているな、と、波多野はいやでも分かった。この二人は、へらへらしながらその実、恐ろしく洞察力が高い。どこまでお手つきが可能かくらい一目で大概分かるのだ。クソみたいな能力だと思う。
 小慣れた女二人も神永と田崎を気に入ったのか、二人の前に座った。さっそく、仕事、大学の専攻、趣味、特技など他愛のない会話を繰り広げる。仕事の話題を広げれば、分かりやすく彼女達から黄色い声が上がり、逆に現役女子大生たちは自分たちの若さを売るように、愛らしい表情で大学生活を語った。
 三人とも似たような話を、これまた似たトーンで話す中、ふと、波多野は違和感を覚える。
 ──こいつ、なんだ。
 波多野は、目の前で好みの男性について話す女子を見つめた。どちらかというと甘ったるいコーデの隣二人に比べて、彼女はカジュアルスタイル。愛らしさとは違う格好で、けれど纏う雰囲気とか、話す内容は彼女らと同系統だ。好きなタイプを訊かれれば少しだけ含みを持たせて返す器用さ≠烽る。他二人と同じで男の扱いを慣れていない感じではなかった。
 華の女子大生というイメージが固まりつつ、けれどなぜか、波多野の中には、その通りに受け取ることができない強熱な違和感があった。それは収束することなく、胸が妙に騒つく。
 初対面の女子のいったい何が──
「……あ」
 思案しようとした刹那、ぱちん、と、バラバラだったピースがつながった。
 そうだ、なぜ気がつかなかったのか。
 ぞくりと背筋が粟立つ。同時に、自然と口角が上がった。引っかかりを覚えていた事象が、収束した時の快感。
 密かな興奮を秘めた波多野をよそに、神永、田崎は目の前の二人に狙いを定める。波多野の前の彼女は、持ち帰りコース確定な雰囲気の四人に合わせるように、にこにこと相槌を打っていた。

 合コンは三時間ほどで終わった。といっても、神永と田崎はアフターがあるようで、まるでそれが当然の帰結とでも言うように女子二人を連れ、「じゃ、帰ろっか〜」なんて白々しく去っていった。そっちはラブホ街だ、もう少し隠せ。
 今度、しばいておこうと心に決めた波多野は、隣の彼女に視線を移す。ラブホ街に消えた二人を見送り、隣の波多野に視線を遣ると罰が悪そうに眉をハの字にした。「行っちゃいましたね」と、場繋ぎの言葉を紡いだ彼女に、波多野は早速切り出す。
「あのさぁ」
「はい」
 ぱちりと、丸い目を自分に向ける彼女の顔をもう一度、確認した。ゆるくウェーブがかかった髪は、あの時≠ニは違うが、目元や口元など、パーツはやはり同じ≠セ。
 何故、忘れていたのだろう、と問われれば、一目見ても気づかないほど印象が変わっていたとか、そもそもたいして興味がなかった≠セけなのだが、それでも気付けたのは仕事柄、他人の一挙手一投足に気を配っているからか。
 自分を見つめる瞳を見つめ返して、波多野は尋ねた。

「あんた、地下アイドルだろ」

 丸い瞳が、更に見開かれた。

 「推しの地下アイドルがユニットを組んだ」。同僚の福本が普段の寡黙さそっちのけで興奮したように話し、何故かこれまた同僚の小田切と無理矢理、こじんまりとしたライブハウスに連れて行かれたのが、二週間前だ。
 消防法なんて知りませんといった、出入り口が一つでスプリンクラーが設置されていない、古びた雑居ビルの地下二階。適当な時間になったら帰ってやろうと、段がある一番後ろでステージを見ていると、彼女≠ヘ現れた。
「みんなぁ! 今日もありがとう!」
 並んだ三人のうち、センターの女が、甘ったるい声で媚を売る。作り物の笑顔、目線だが、それでも偶像に夢を見る数多の男達は鼻息荒く応える。作られていると分かっているのかいないのか、そんなことは些事と言わんばかりに、女達が目一杯売り続ける媚を消費する。
「今日は、私達のユニットの結成式も含めたライブだから、みんな楽しんでねー!」
 会場からコールが飛ぶ。声援に応えるように、女達は手を振った。仮初の笑顔で、平等に愛を伝える彼女らを見ていた波多野は、ふと、一番右の女に目を留めた。
 センター、一番左の女達に比べて、おそらく少し歳上。青を基調とした安っぽいギラついた衣装が若干浮いている。派手さも愛らしさも他二人には劣る印象を受けた。センターの女が「新人ちゃんです!」と紹介したから、アイドルを初めて日が浅いのだろう。
 男達が、品定めするように彼女を見る。最推しの添え物程度にはなるか、或いは箱推しするほど彼女も魅力的か。
 一方的で、ともすれば暴力的な数多の視線に、彼女は──
「よろしくお願いします」
 にこり、と。最上級の笑みを、向けた。
 男達が息を呑む音が波多野にまで伝わった。それほど、あまりにも彼女の笑顔は完璧だった。緊張など微塵も感じさせない、蠱惑的な笑み。何者にも自分は侵されはしないという意志の強さと、全ての者に自分を捧げるという博愛精神が混在したような、完璧さだった。
 初ステージとは思えないほどの胆力は、その後のパフォーマンスでも発揮される。
 彼女含め、三人のダンスは高レベルだった。振り付けの細かさはもちろん、手先の向き、視線の移し方、体の使い方の細部まで作り込まれていた。
 しかしその中で、やはり彼女は異質だった。レベルの高さもそうだが、その挙動は全て、こちらを意識している=B自分がどう見られているのか、何を求められているのか、全てを瞬時に把握して微修正しながら演技しているような異様。およそ地下アイドルとはいえない、言うなれば──
「同業かよ」
 凡ゆる仮面を付け替え、騙し、本当なんてどこにもないと体現して生きる自分と、同じような気がした。

「──まさかとは思ったけど、やっぱりか」
 目を瞠った彼女に苦笑すれば、彼女は困ったように視線を逸らした。「あー……」と少しだけ目が泳ぎ、けれど観念したように肩を落とす。
「なんか悪いな。言わない方が良かったか」
「いえ、それはそれで後から精神的にキツイので、むしろありがとうございます」
「そりゃどーも」
 波多野の指摘に、彼女は「あー」とか「うー」と、言葉にならない呻き声を漏らす。ステージ上では完璧な偶像になりきっていた彼女が、今やすっかり、ただの女子大生だ。
「あの、波多野さんは、アイドルがお好きなんですか?」
 ひとしきり呻いた彼女が、ちらりと波多野を見遣る。伺うような視線に、「どう見える?」と口元を緩めれば、彼女は、うん、と唸った。
「たぶん、違いますよね」
「へえ?」
「あ……間違ってたらごめんなさい! けど、なんというか波多野さんは、興味なさそうに見えます」
 なかなかの洞察力だ。「何でそう思う?」と、波多野は弾んだ声音で聞き返す。
 彼女は、間髪入れずに返した。
「だって波多野さん、演技が得意でしょう?」
 向けられた視線が、違うはずがない、と語る。確信を持った問いかけに、思わず全身が粟立った。
「神永さんと田崎さんは場を楽しまれていましたけど、波多野さんは、数合わせで来たから話は合わす、て感じでした。その場の雰囲気に合わせて自分を着飾ることができるタイプの人って、アイドル好きにはあまりいないんですよ」
「……そうなのか」
「そうですよ」
 とん、と彼女は一歩前に出る。ネオン煌めく場末の歓楽街で、妖しいスポットライトを浴びながら語る。
「着飾ることができる人は、偶像に夢見て没入するどころか同じ偶像になり得てしまう。そんな人たちは、勉強するために来ることはあっても、夢見るために来るわけがない」
 「だから、波多野さんは違うんです」と、くるりと振り向きざまにとびっきりの笑顔を投げつけてくる彼女に、波多野は降参のポーズを取った。
「悪い。同僚に誘われて行っただけだ」
「謝らないでください。そういう人も多いですから」
 クスクスと、彼女は年相応の笑みを溢す。その姿はやはり、どう見てもただの女子大生だ。
 だが、ステージ上で見せたあの、全方位からの視線を受けて自分を塗り替える作業を、彼女は無意識のレベルで日常でもやっている。聞けば、先ほどの合コンも波多野と同じく数合わせできたと言うことで、合コン一つとっても場を壊さない程度に話を合わせたり、相手の顔色を伺い表情をつくる技術を持ち合わせているのだろう。
 ラブホ街ではなく最寄駅に向かう道すがら、話を聞くに連れて波多野は彼女に興味を惹かれた。
「あのさ、またライブに行っていいか」
 駅に着き、互いに別の改札へ向かう直前、ふと彼女の腕を掴んで呼び止める。これじゃあ迷惑なファンになるだろう、と直後に冷や汗が背筋を伝ったが、彼女はきょとんと目を丸くすると、口元を緩めた。
「ぜひ来てください。お待ちしてます」
 ぎゅっ、と掴んだ手に、彼女の手が添えられる。さらに唐突に、彼女は背伸びをして波多野の耳元で囁いた。

「次は、もっと近くで見てくださいね」

     *

 完璧なアイドルとは、どんなアイドルでしょう。
 誰にでも平等に笑顔を向けて、高品質な歌とダンスを届ける存在。どの角度から見ても、いつどこで見てもアイドルであることを忘れない、存在そのものがアイドルの何か。或いは、ありのままの自分を曝け出して、ファンと同じ地平まで堕ちてくれる不完全な何か。
 完璧なアイドルの定義は人それぞれで、けれど今日もファンは自分だけの♀ョ璧なアイドルを求める。無意識に無自覚に、無責任に欲望を押し付けて、悦に浸る。
 私が考える完璧なアイドル?
 そんなもの、決まっています。
 完璧なアイドルとは──何者にもなれる存在。
 笑顔を振り撒く、声のトーンを一定に、ダンスが上手い、それは当たり前。そんなものはアイドルであるため技術の範疇。
 仮面を付け替えて、奥底にある本音を覆い隠す。完璧なアイドルとは、自分も他人も騙し通せる、嘘つきなんです。

     *

 ちっぽけなライブハウスは、今日も満員御礼だ。そもそもの収容人数が少ないから当たり前なのだが、それでも、週に一度のライブによく人が来るものだ。ユニットによっては数日に一度やほぼ毎日開催しているが、それでも似たような集客ならしい。アイドルとの近さに惹かれるファンが多いことが伺えた。
 その、週に一度のライブに、波多野が通い始めて一ヶ月。同僚からは「ついに波多野さんも……」「え? 波多野ってそういう趣味?」と、軽蔑やら哀れみやらなんだかいろいろ混ざった視線を向けられ、話を漏らしたであろう福本に蹴りを入れた。本人曰く、「嬉しくて」とのことだが、ユニットごとに推しがいてほぼ毎日ライブに行っているお前と一緒にするな馬鹿野郎。
 悪態をつきつつ、けれど波多野は彼女の元に通うことをやめなかった。さすがに握手会に参加することは憚られ、さらに彼女からのお願いだった「次はもっと近くで」も、気恥ずかしさからなかなか足が進まず、いつも最後尾でじっくり眺めている。
 ユニットの結成日から、彼女は相変わらず完璧なパフォーマンスを見せた。全方位に見せる作られた笑顔、所作、視線、声。どれをとっても他二人に引けを取らない。地下アイドルではなく、事務所に所属すればいいのではと感じるほどだった。
「みんなぁ! 今日も来てくれてありがとう!!」
 甲高い声が狭い室内に反響し、被せるように野太い声の男達と若干の女性の声が入り乱れる。パフォーマンスの完成度が高いからか、女性ファンも増えたように見えた。
 波多野の視線が、いつも通り右端の彼女に移る。「みなさん、よろしくお願いします」と、一礼した彼女に、早速ついた固定ファンが歓声を上げた。その声の方向に視線を向け、にっこりと微笑む彼女。全ての声の主に笑みを向けるような、そんなことはありえないというのに、まるでそうあるかのような微笑みに、会場中が息を呑む。「今日も頑張って!」「応援してる!」。自然と湧き上がる、推したい、という欲求を受け止めた彼女は、いつも通り、完璧なアイドルを演じるためにステージ真ん中に移動した。
 ──その時だった。
「っ、」
 ふと、その瞳が、流れるように動いて。一度、顔を伏せて瞬いた視線が一瞬、波多野に向けられた。確実に、最後尾にいる波多野と交錯した視線。他の誰にも分からないほど一瞬で、けれど幾度か§bしたことがある波多野だからこそ、彼女の意図を読み取れた。
 二人のそれが絡み合った刹那、彼女の唇が動く。某かを紡いだが、喧騒にかき消されて声は誰にも届かない。しかし波多野には、その呟きが何か≠ェ分かった。
 徐に、波多野はスマホを取り出した。画面をタップしてメッセージアプリを開く。一番上にある、青薔薇のアイコンとのやり取りを見つめた。

『今日こそは、ちゃんと近くで見てください』

 合コンで連絡先を交換したため、メッセージや、時折、電話もする関係になり、その度に波多野は誘われていた。とはいえ、彼女も冗談半分のような言い方だったため、適当に相槌を打ちつつ、決して近くに行こうとはしなかった。
 だが、今回は違う。メッセージ、電話、そしてステージ上からのお願い=B
《やくそくですよ》
 ふっくらとした、あの唇で形作られた言の葉に、何か魔力でもあるのだろうか。
 頑なに最後尾に張り付いていた両足が、ゆっくりと前方へと波多野を誘った。
「それじゃあ! 最初はこの曲で行くよ!!」
 七色のスポットライトが、ステージを照らし、ミラーボールが室内中に明かりを届ける。ポップな前奏から入り、パフォーマンスはスタートした。音響機器から届く音楽、歌声、合間に入る合いの手が場の空気を盛り上げる。
 非日常を空間ごと演出し、正常な判断ができなくなるような漠然とした不安感さえ覚えたその時、曲のサビの部分で、かちりと、彼女と目が合った。

「愛のお薬 たくさんちょうだい」

 妖艶な微笑みが、間近で波多野を捉える。潤んだ瞳、弾ける笑顔と汗、自分だけを見据えたその、双眸。
 大きく心臓が高鳴る。鼓動は早鐘を打ち、漂う甘い匂いが波多野の鼻腔をくすぐった。

 ライブ終わりの握手会になると、少しばかり熱気は収まった。あれほどライブに熱中していたファン達が整然と列を作る様は非常に面白い。
 三列に揃ってはいるが、彼女の列は一番人数が少なかった。当然と言えば当然だ。三人の中ではまだ駆け出し。ファンがつく時間もない。とは言え、波多野から見れば十分にファンは付いている印象だ。
 一人、また一人と握手、そして一言二言、推しに愛を語って去っていく。全てのファンに平等に微笑みを振り撒く彼女に近づくにつれて、甘く刺激的な匂いが増した。
「波多野さん、ちゃんと前に来てくれましたね」
 ようやく来た最前列で、彼女は波多野にちゃめっ気のある笑顔を向けた。にっこりと手を差し出した彼女の手に、波多野は自分のそれを重ねる。
「後ろの方がよく見えるんだよ、色々と」
「えー、そうですか? けど、前の方が雰囲気が分かりやすいでしょう? あと、握手会じゃないと伝えられない言葉もあるから、今度からはきちんと来てくださいね」
 ぎゅ、と両手で手を握られる。少しばかり後列の男が怪訝な顔をしたが、彼女は意に介さずに波多野を見据えた。一言二言、もうこの場から離れなければいけないが、彼女は掴んだ手を離さずに、紡いだ。
「波多野さん」
 甘い匂いが、強くなる。感覚を麻痺させるような、匂いが鼻について。
 確信めいたそれは、彼女の言葉で現実味を帯びた。

「お薬、もらいましたよ」

 瞬間、体が自然と動いた。
 すぐ左の列、センターのアイドルと握手をしていた男の肩を掴む。ぎょっと目を見開いた男が血走った眼を向け、目の前のアイドルも血の気が引いたように手を震わせていた。
 その手に持つ、小さな手提袋を見つめて、波多野は胸ポケットに手を突っ込む。

「あんた、今、彼女に渡した物を見せてもらえるか」

 甘い匂いが、鼻につく。見せつけた警察手帳を合図に、一つしかない出入り口は封鎖された。

     *

 新生アイドルユニットのセンターの覚醒剤所持、握手会での譲渡事件は、瞬く間に世間一般に広がった。というのも、ライブハウス自体が覚醒剤の売買に利用されており、芋蔓式に密輸に関わっていた主犯メンバーまで釣れることになったためだ。
 もちろん、ユニットは即日解散。期待の新星として名を馳せかけていた彼女の夢は、儚くも散ってしまった──
「あ、甘利さん! お待たせしました!」
 ──という筋書きでもないらしい。
 事件から一週間後、所轄の調書作りに付き合っていた彼女と波多野は再会した。何故か無関係の甘利に誘われて、小洒落たカフェのテラス席で。
 目の前に現れた彼女は、あの合コンで出会った時と同じように、カジュアルなパンツスタイルだった。着くや否や「お待たせしました」とか「お疲れ様だね、何飲む? 炭酸だめだっけ?」とか、いやでも何となくは察する状況に、少々、いやだいぶ頭を抱えたくなる。二人の会話を聞きつつ、置物のように黙っていた波多野は、飲み物がテーブルに届いたのを見計らい、意を決して彼らの間に割って入った。
「とりあえず、説明しろ」
 思った以上に低い声が出た。
 しかし甘利は、昼行灯な様子で話し始める。
「えっとね、とりあえず、彼女は俺の親戚の子。大学四年生で、就職先も決まってて単位も取り終わっているから、時間有り余ってるんだよね」
「そうか。……いやそうじゃない、そうじゃなくて」
「なんで私がアイドルやっていたかとか、あの場にいたかとか、ですよね」
 話にならない甘利の代わりに、彼女が説明を引き取り、淡々と経緯を語り出した。
「私、初めはあのライブハウスで裏方バイトしてたんです」
 波多野が話を聞くに、彼女は、アイドルに興味は微塵もなかったという。ただ、卒業までの期間、大学近くで羽振りが良いバイトをするためだけに、求人のあった件のライブハウスで働いていた。
 しかしそこで、異変に気づく。
「アイドルの子達を近くで見てたんですけど、なんかいつも前列に来る何人かから変な匂いがしてたんです。ライブ中も、何人かが物の受け渡しをしてるし、やっぱりおかしいなと思って」
 彼女の持ち前の洞察力だろう。全方位からの視線を受け、自分を形づくれる彼女だ。自分に視線が向いていない時、他人が何をしているかを見ることなんて造作もない。たとえそれが、人が密集するライブハウスでも、だ。
「アイドルが貰った物って危ない物があってもいけないからスタッフが確認するんですけど、何人かのアイドルはそれをさせてくれないから、いよいよ怪しいなってなりました。でも、私は警察官でも何でもないから、なら、自分が貰う立場≠ノなれば、ちゃんと物が手に入るかなと思いまして」
 鋭い洞察力から一転、いきなり雑頭になった。「なんでだよ!」と突っ込んだ波多野に、「ですよね」と困った顔をするものだから、波多野もそれ以上何も継ぐことができなかった。
 結局、ユニットの結成を夢見ていたセンターの子の思惑もあり、彼女はアイドルの道を進めた。事務所がバックにない地下アイドルだからこそ出来る力技だったが、それでも、持ち前の運動神経、器用さ、コミュニケーション力が相まって、ステージに立つまでには至った。
 親戚の甘利に連絡を入れたところ、派遣されたのが福本、小田切、そして波多野だったという。「聞いてねえ」と不貞腐れた波多野に「あの時点では、まだ何の嫌疑もかかってなかったし、半分は福本の私用。実際、あの日は受け渡しはなかったしね」と甘利が苦笑した。
 事の顛末を聞けば、なるほど、と合点がいくところばかりだった。彼女と甘利の関係性も十分理解はできた。
 しかし波多野には、解せない部分が山ほどあった。

 経緯をあらかた説明し終えたところで、甘利のスマホが鳴り、電話に出るとすぐに血相が変わった。「ごめん! エマが」と話した瞬間、しっしと波多野は手を払う。再度、謝罪をして去る甘利を一瞥しつつ、その甘利に朗らかに手を振る彼女を見据えた。
 ずいぶんと、都合よく%d話が来るものだ。
「なぁ、まだ聞きたいことがあるんだけど」
 じっと、彼女の瞳を見つめれば、ぱちりと丸い瞳が見つめ返す。交錯する視線はあの時と同じだが、どこか付き物が堕ちたように見える。「どうぞ」と促す彼女に、波多野は一つ息を吐くと問いかけた。
「お前なら、裏方バイトしながらでも証拠集めくらいできた気がするんだが、本当にアイドルに興味はなかったのか」
 少なくとも、波多野の目には、彼女はアイドルを心の底から楽しんでいるように見えた。偶像と理解しながら、それを呑み込んで尚、スポットライトを浴びることに喜びさえ感じているように。
 波多野の質問に、彼女はふと、微笑む。困ったように、観念したように、小さく息が吐き出された。
「……貰う立場になれば、とか言いましたけど、半分はこじつけです」
「……もう半分は?」
「面白そうと思ったんです」
 軽く肩を竦めた彼女は、ありし日を懐古するように、虚空を見つめた。
「完璧で不完全な偶像を演じる機会なんて、今後もう訪れない。スポットライトを浴びて、嘘を吐き続ける人生を少しでも体感してみたかった」
 期待と好奇、凡ゆる欲望を一身に受け、その全てに応える偶像を作り出す。ただ媚を売るだけではない。人の感情の機微を細かく読み取り、そして自分の中に落とし込んで最適解となる人格を再現する技術。アイドルとは、仮面を付け替える職業だ。一般の社会人とは性質が違う。
 それを体感したかったと話す彼女は、しかし声のトーンを落とした。
「……ただ、私には過ぎた世界です。あの一時だけは楽しめても、いつかきっと、人間が嫌いになっちゃう。だから、あの辺でやめてよかったです」
「嫌いになる、ね」
「結局、アイドルに求められるのは無責任な願望です。どう演じても、何を表現しても、満足感は得られない。青天井の要求なんて受け取る胆力ありませんよ、私は」
 仄暗く、濁った瞳で、彼女は彼方を見つめる。たった数ヶ月程度だが、彼女が舐めたのは甘ったるい砂糖菓子のような世界だけではなかったことが伺えた。
 完璧に見えた彼女の、素顔のような表情を見た波多野は、さらに一つ問い質す。
「あと一つ、聞きたいことがある」
 視線を向けた彼女を、正視した。

「お前、最初から♂エのことを知ってただろ」

 ──事の顛末を聞けば聞くほど、解せなかった。
 彼女が偶然=A数合わせの合コンの場に現れて、ライブハウスのアイドルと思い至って、連絡を取り合って。挙げ句の果てに、波多野に何も伝えないまま、それでも現行犯逮捕のステージには上がらせた。
 何も知りませんでした、とはいかないが、一体どこから波多野を認識していたのか。甘利から説明を聞き、波多野は確信に至った。
「合コンの日、お前は俺と初対面のように振る舞ったが、甘利からの連絡で福本が来たことは分かっていたなら、一緒にいた小田切と俺だって見てたはずだ」
 彼女の洞察力は折り紙付きだ。福本と共に来た男二人を見逃すはずもあるまい。
 波多野の問いかけに、彼女は僅かに眼を見開くと。

「──試したかったんです」

 ふ、と。口元を緩めた。悪戯っ子のように、目尻を下げて口角を上げる。
「自分がライブ場で気になっちゃった人に、偶然″コンで出会った時、その人が、自分のことをちゃんと覚えてくれているか。アイドルをする自分に、ちゃんと興味を持って、知りたいと思ってもらえるか。自分のお願いを聞いてもらえるか、それを試したかったんです」
 マジシャンが種明かしをするように、すらすらと、言葉が流れる。
「合コンの時の女の子達は学内で適当に見繕った子です。年上警察官と合コンって言ったら二つ返事できてくれました。神永さんと田崎さんの好みのタイプは事前に甘利さんから聞いてましたから、あの後、彼女達がどこに行くのかも折り込み済みです。でないと、波多野さんとお話できませんから」
「……甘利の代打も?」
「エマちゃんの熱は嘘ですけど、エマちゃんの所に行ったのは本当です。あと、神永さんと田崎さんも仕掛け人ですね」
「あいつら後で殺す」
「まぁまぁ」
 眉をハの字にした彼女に宥められたが、心に誓った。取り敢えず、まずは神永から投げ飛ばそう。あと、何股か掛けている女子に真実を告げてやろう。
 怒りを取り敢えずは押し留め、波多野は彼女に向き直る。
「……で、年上警官をおちょくって、楽しかったってか?」
 じろりと、ひと睨みすれば、彼女は目を瞠り、しかし直ぐに片眉を上げた
「おちょくってないですよ。言ったじゃないですか、気になった人って」
 不貞腐れた、不満げな声は初めてだ。両の手を膝に置いて、少々、前のめりになりながら、彼女は紡いだ。
「一目惚れだったんです、責任とってください」
 真っ直ぐ、波多野の目を見つめる瞳。嘘か真か、これすら演技か。そんな疑義を挟むのは負けな気がして、波多野は肩を竦める。
「学生相手に手を出せるか」
「大丈夫です、二十歳超えてるので」
「女子大生なんてガキと一緒だ」
「じゃあ、卒業したらいいんですか」
「社会人経験ない奴はごめんだね」
 アイドルを演じていた時から打って変わって、直球豪速球しか投げてこない。恋の駆け引きは苦手なのか、それは波多野も同じだが。嘘で自身を塗り固めることは造作はなくても、心内を曝け出せない未熟さは年相応と言えた。
 ああ言えばこう言う。押し問答を繰り返していたが、彼女がむくれっ面で訊く。
「……じゃあ、波多野さんが認める社会人になればいいですか。波多野さんの前で、きちんと社会人として成熟したとみなされたら、考えてくれるんですか」
 何を言っているんだ、お前は。
 吐き出し掛けた呆れを飲み込んで、波多野はもはや苦笑した。
「どうやって俺に認められるんだよ。俺はお前の上司じゃ……」
 ない、と言いかけて、思い当たる。
 彼女は、完璧に演じられる女だ。他人の求める偶像を、自分が求める虚像を作り出す、天才。
「……学校に半年行きますけど、その後なら問題ないってことですね」
 むくれていた彼女の口元が、弧を描く、言質は取ったぞ、と言わんばかりの口角の上がりように、思わず冷や汗が背中を流れた。

「これからよろしくお願いします。センパイ」

 嗚呼、就職先を聞いとけは良かった、と波多野は嘆息したが、あまり意味はなかったかもしれない。
 自分は、とんだ化け物に、囚われたらしい。もう一度、大きくため息を吐いて、波多野は肩を落とした。

「お前、ホンモノの嘘つきだよ」

 波多野の言葉に、彼女は心底、満面の笑みを浮かべた。