零の右腕の休日

 自分がワーカーホリックという自覚は薄々あった。無茶振りをする上司に小言を漏らしつつも、国のため、人のために駆ける彼の背を眩しく思い、同時に近づきたいと願うから多少の無茶は引き受ける。故に、休み返上な上に命が幾つあっても足りない現場に片手では足りないくらい遭遇した。爆発に巻き込まれて怪我をしたり、上司の首に付けられた爆弾の解除ほどの危機的状況はさすがになかったが。
 というわけで自分は今、半ば強制的に休暇を取らされている。「風見さんも大概ですよ」「休日なんてここ数ヶ月、ほとんど取ってないでしょう」と、部下たちにやいのやいのと説教され、ぐうの音も出ずに閉口していたらトドメの一発。
「先輩は普通の人なんですから、ちゃんと休みましょう」
 背後に綺麗に口元に弧を描いた上司に気づかずに自分を気遣った部下は、五秒後にはその上司に肩を掴まれ、どこかに連れ去られた。「そうかそうか、そんなに風見の代わりを務めたかったか」「嫌です! 私はワークライフバランスを大事にする現代っ子なんでいたたたたた! 腕がもげる!」と、言葉の割に仲良さげにフロアを後にした二人に、ほっと一息しつつ若干の嫉妬心を覚えた自分は、やはりワーカーホリック気味だ。
 ふう、と一息つく。日本を代表する都市公園、上野公園の休日は賑やかだ。穏やかな秋晴れの下、国立科学博物館などの公共施設が園内に人を呼び込む。屋外イベントも開かれ、親子連れから観光客まで幅広い層が行き交っていた。
 風見がいるのは、園内中央部に位置する噴水池の外周。木製のベンチが設置され、テイクアウトのフードを手にしたり、歩き疲れたりした人々が腰を下ろす。肌を撫ぜる秋風が心地よく、目を細めて思い思いの時間を楽しんだ。
 一定の時間で水が勢いよく吹き出して、飛沫が辺りを煌めかせる。穏やかな日々を体現するような光景に、風見もまたぼんやりと、ゆったりと流れる時間を肌身で感じていた。乳幼児連れた年若い夫婦、パンフレットを手にした外国人観光客、スマホで通話しながら歩く学生風の女性。瞳に映る人々を横目に噴水を漫然と眺める。
 嗚呼、こんな日々はいつぶりだろう。
 思えば、警察官として所轄に配属された当初から、走り続けてきた気がする。ただ、人を守りたい。その一心で厳しい訓練に耐えた。彼の下で働く中で、人は善人や悪人に綺麗に分けられるわけではなく、さまざまな色が混じり合うように、多くの感情を内包して生きていると知った。その中で、警察官として自分が何を為すべきか、何を求めるべきかをいつも探し続けている。自問自答を繰り返しながら、この先も仕事を続けるのだろう。
 立ち止まってみると、自分自身を俯瞰して物事を考えることができる。とはいえ、考えるのはいつも仕事のこと。ここ最近、実家から「ところで、いい人は?」と事あるごとに尋ねられるから、意識的に私生活のことは考えないようにしていた。
「いい人、か」
 人並みに興味はある。おそらく、たぶん。とはいえ、風見にとって恋愛とは、時間と心に余裕がある者の特権だった。公僕、しかも私生活が犠牲になりがちな公安警察官の自分が、誰かと共に未来を歩く姿はイメージできない。上司曰く、カタブツすぎる、ということもあり、婚期は遠のくばかりだった。
 ふと、視界に仲睦まじく歩く男女や、赤子を連れた年若い夫婦が入る。自然と目で追ってしまう自分とはかけ離れた日常に、小さく嘆息した。
 ──矢先だった。
 
「気が緩んでますね、先輩」

 とん、と大人二人分空けて、同じベンチに女が座った。視界の端で、スマホを片手に喋る様子が見て取れたが、決して視線をそちらに向けない。その程度の反応は気が緩んでいてもできる。
 指向性を絞った声が、風見の耳朶を打つ。
「休日を謳歌されてるようで何よりです」
 ならば、わざわざ一般人を装って近づいてこないでくれ。
 頭を抱えたくなった風見だが、隣の気配は何故かひどく愉快そうだ。自分の上司に首根っこ掴まれて連行されていたとは思えないほど楽しげだった。普通の人だから休めと言っていた筈なのだが。
 ひとつため息を吐く。通話相手なんていないというのに、スマートフォンを耳元に当てて話すということは、何かしらの案件なのか。結局、ワーカーホリックからは抜け出せないのかと嘆息した風見だったが、彼女はからりと笑った。
「お休みのところ悪いんですけど、ちょっと、私の仕事を手伝ってほしいんです」
 休めと言ってきた張本人が、ものの二時間程度で言葉を反故にしたことは突っ込まない。尾行か、盗聴か。ロクな手伝いではないだろう。なにせ、お願いの仕方が仕方なのだ。
 ベンチを指先で二回叩く。了承の意を言外に伝えれば、彼女は、とん、と勢いよく立ち上がった。数歩、前に出て、直角に曲がったと思ったら、今度は意外なことに風見の目の前に来た。
「ワーカーホリック気味な先輩に、ゆっくり休んでもらうっていう仕事なんですけど」
「……は?」
「体が仕事モードなのか、外をぷらぷら歩いたり、要観察対象のところに行っちゃったり、仕事を頼まれたら内容も聞かずに了承しちゃったりする先輩を家に連れ戻して休ませる、て仕事を、上司から仰せつかってまして」
 スマートフォンは、もう耳元にはない。面をあげた先、視界の中の彼女は、悪戯っ子のような笑みを浮かべた。
「今日こそはゆっくり休みましょう、先輩」
 嗚呼、自分の日頃の疲れどころか、子どものような嫉妬心まで上司には見抜かれていたのかもしれない。
 差し出された手に、自らのそれを重ねる。引き上げる力は意外と強くて、思わず前のめりになった。「疲れすぎですよ」と微笑む彼女に、「うるさいな」とそっぽ向く。
 帰る道すがら、どんな話をしようか。そういえば、彼女には恋人がいるんだろうか。人並みの恋愛経験は、休日の過ごし方は。弾む心は少しの間見ないふりをして、今はこの時を楽しもう。
 今日はまだ、始まったばかりなのだから。