秋雨

さわやかな秋晴れだ。太陽は夏のように肌をさすものではなく、風も心地よい。
軍靴の足音が着実に近づいてきているはずの日本でも、一般の庶民にとってそれは遠いどこかの地の話のようで、こうして下町のカフェに集う若い男女や年頃の娘たちは今日も平和な会話を楽しんでいる。

三好は一本タバコを取り出し、彼らを尻目に一服しようとした。
ごそごそとマッチを取り出そうとすれば目の前にお目当てのものを出される。その差し出された火にタバコを近づけてゆっくりと息を吸って吐くと、三好は火をつけた人物に笑いかけた。

「すみませんね、名前さん」
「いえ、三好さんいつも来られたらすぐ吸われるから、準備していたのよ」
「おっと、お見通しでしたか」
「あら、気づいていたくせに」

やだわ、とくすくす笑う女性に三好は眉尻を下げて笑った。
名前はここのカフェの給仕だ。老夫婦が切り盛りするここの唯一の女給仕。何でも、両親が他界したため遠縁の夫婦に引き取られたらしい。
彼女の働きぶりとその笑顔はここへ来る客の楽しみの一つだ。
中には、もういい歳の彼女に縁談を薦める客も少なくないが彼女はすべて断っている。

「私には心に決めた人がいるんです」

これが彼女の断り文句だ。誰だ誰だと詮索する客をのらりくらりと彼女はかわす。そんな会話すらここに来る客は楽しんでいる。

「今日はいつまでいらっしゃるの?」

コーヒーの準備をしながら彼女は三好にそう尋ねた。慣れた手つきで進めるその作業を見ながら三好は、そうですね、と考える素振りを見せる。ちらりと名前を見れば期待するような視線を彼に送っていた。

「閉める時間はいつも通りですか?」

三好のその一言に名前は嬉しそうに顔を輝かせる。じゃああそこの公園で、と三好に耳打ちするとテーブルから注文を入れた客の元へと小走りで向かっていった。
あまりにもわかりやすいその反応に三好は苦笑する。

(心に決めた人、ね)

三好はもう一度深く息を吸うとゆっくり煙を吐き出した。



「ごめんなさい、待ったかしら」
「気にしないでください、それほど待っていませんから」

夕方。三好は昼間に名前と約束した公園に足を運んでいた。公園といっても簡素なもので、鉄棒とベンチがあるだけでほとんど空き地だ。周りは日本家屋が立ち並ぶ住宅街。人通りはまばらなそんな場所。
仕事を終えた名前がそんなところで佇む三好のもとへと走ってきた。

「いつもこんな場所でごめんなさい」
「人目が気になるんでしょう?仕方ないですよ」

申し訳なさそうに俯く彼女に三好は朗らかに笑った。すると彼女は顔を上げて安堵したような笑みを浮かべる。

2人は公園のベンチに腰を下ろした。
爽やかな秋晴れ、夕暮れ時の町にはカラスの鳴き声が響く。軍靴の足音など聞こえないほどここは穏やかで緩やかな時間が流れていた。

「綺麗ですね、空」

そんな橙色に染まる空を見上げて名前は呟く。三好はそんな彼女と同じ空を眺めた後、そっとその手に自分のそれを乗せた。
ぴくりと彼女は反応するが敢えて三好を見なかった。代わりに薄っすらと笑みを浮かべる。
まるで恋人達が過ごすような時間が流れていた。



三好が彼女のカフェに出入りするのは言わずもがな任務の一環だった。
あろうことかソ連側のスパイとなった人間がいるらしい。共産主義の思想にとりつかれる輩はここ最近水面下で増えてきている。彼らを泳がせ情報を入手するのも手だが、まずは目星をつけなくてはいけない。
調べた先で出てきたのが彼女のカフェだった。下町の一角、人の出入りが激しいわけではない。しかし、目星をつけた協力者は皆このカフェに必ず立ち寄っている。
三好は名前に近づいた。彼女は開店から最後まで店にいる人間だ。彼女なら相手の顔を覚えることが可能なはず。
甘利ほどではないが、三好も女性の扱いは得意な方だ。簡単だちょっと木がある素振りを見せて引く、相手にも気があれば変化が表れる。
彼女は見事に釣れたのだ。



「名前さん」

空は茜色に変わっていた。そろそろ帰路につこうかと立ち上がった名前に三好は声をかけた。振り返った名前に笑みを作りながら問いかける。

「ここ最近、よく店に来る妙な客はいませんか?」
「え?」
「貴女目当てで頻繁に出入りする客が居ないかと思ってね」

遠回しに目星をつけていく。名前はうーんと唸った後、そういえばと口を開いた。

「ここ数ヶ月、だと思いますけどうちにきて誰と話すでもなく、新聞を見てコーヒーだけ頼んで帰って行く人はいらっしゃっるわ。いつもコーヒーばかりだし、お話をするわけでもないけれど、でも周りをちらっと見る癖があるみたい」

私に気があるなんてないですよ、と微笑む彼女に三好はなるほどと密かに口角を上げた。

女性の目というのはとても貴重だ。細かな動作に目を配り相手を観察する。給仕となる彼女は客の所作など覚えようとしなくても目につくのだろう。

「貴女がそう思わなくてももしかしたら想われてるかもしれませんよ?」

微笑む彼女に三好は悪戯っぽい笑みを浮かべる。その笑みに名前はクスクスと笑って、あり得ませんね、と言葉を紡いだ。

「ねぇ、三好さん」

お互い笑いあった後、名前は三好に問いかけた。何ですか、と彼女を見た三好は目を見張る。
夕焼けに照らされた彼女は美しく、いつもの可憐なお嬢さんとはまた違う雰囲気を出していた。

「私、三好さんの不思議なところ好きなんです」
「不思議なところ?」
「えぇ」

一歩、二歩名前は歩みを進めてまた三好を振り返る。

「三好さん、まるで探偵さんみたいに色んな方を見てらっしゃるでしょう?」

女性の目というのはやはり恐ろしい。三好は再認識した。自分もそう見られていたのかと内心苦い思いを覚えたが、同時に湧き上がったのは彼女に対する関心だった。

「そうですか?」
「はぐらかしても無駄です。私、三好さんのことずっと見てるんですから」
「それは照れますね」

参ったな、と笑う三好に名前も微笑む。
夕焼けが落ちるまで後少し。秋晴れが続くのは確か今週まで。来週からは雨の予報だ。
三好は彼女を見つめる。夕焼けに照らされた姿はひどく美しかった。

「三好さん」

再び名前を呼ばれた。三好は、何ですか、と再度問いかける。
彼女は三好を見て、そして


「私の心も、見て下さい」


困った様に笑った。


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天気予報の通り、その日は雨だった、秋雨だ。暫く雨が続くだろう。

「酷い雨ですね」

そっと三好の前にコーヒーを置いた名前は外を見て眉尻を下げた。雨のせいで客の入りはまばらだ。

「本当に酷い雨だ」

三好は同意する様に呟く。普段は客の声で溢れる店内が、今日は雨音が響いていた。
閑古鳥が鳴く状況に名前は深くため息をついた。

「雨が続いたら売り上げが下がっちゃうわ」
「人が来てくれた方がやはりいいんですね」
「当たり前ですよ。商売ですから」

悪戯っぽい笑みを三好に向ける名前は先日の女性らしい雰囲気から一転、何処にでもいるお嬢さんだった。

「名前、そろそろもういいよ」

三好と名前が談笑していると老夫婦が奥から顔を出して彼女にそう言った。

「こんな状況じゃ商売上がったりだからね。あがっても大丈夫だ」
「でもお爺様」
「雨だけど彼と何処かに行ったらどうかね」

彼女に負けず劣らず茶目っ気のある老人は、三好に片目をつぶって笑いかける。
お爺様!、とあたふたする彼女に三好は近づくとその手を取った。

「では、お嬢さんをお借りします」
「え、三好さん」
「気ィつけてな」
「行ってらっしゃい」

老夫婦に見送られながら、2人は雨の下町へと繰り出した。


「ごめんなさい、お爺様ったら」

真っ赤な傘を片手に彼女は三好の隣を歩く。申し訳なさそうに彼を見遣る彼女に、三好は微笑んだ。

「僕も2人きりになりたかったから良かったです」

三好のその言葉に彼女は目を瞬かせる。そして恥ずかしそうに傘の柄をきゅっと握って俯いた。

住宅街の中で歩みを進める。行き先はいつもの場所だ。
三好は彼女の先を歩き、彼女は後ろから付いてくる。互いに付かず離れずの距離は心の距離を表している様だった。

住宅街の中にある寂れた公園。三好は先に公園に入り彼女も続こうと一歩踏み入れた矢先、くるりと三好が振り返った。

「三好さん」

どうしたの?と三好に近づこうとした彼女に、



「ゲームは終わりです、名前さん」



三好がむけた表情。
細められた目。どこか冷めた眼差し。

名前はその姿を見て納得したように微笑んだ。



この1週間、三好が調べた結果だった。
なるほど彼女の言うとおり、男は確かに共産主義の連中と繋がりのあるスパイだった。しかし、もう1人。

「常に店にいて情報の伝達役を貴女も行っていたんですね」

協力者が常に1人とは限らない。彼女は橋渡し役であり、そしてスパイの1人だった。

彼女の人を見る目の鋭さは女性だからではなかった。彼女自身がその身を闇に落としていたからだ。

「いつかこの日が来ると思っていました」

困った様に笑う彼女はやはりいつもの彼女だ。

「父が軍に殺されて、母が後を追ってから私もおかしくなってしまったんでしょうね」

その深い闇に光が差した。この世の中を変えよう。理想の世界を作ろう。

戯言だと三好は嘲笑する。共産主義の内情を知らずに書物と口伝えのまやかしだけで理想などと吐かす愚か者どもだ。
しかし、彼女がその甘言に浸っていたとも思えなかった。

「貴女はあのような思想に染まる様に思えない」

三好の言葉に彼女は苦笑する。

「思想とか、理想とかどうでも良かったんです。ただ、目の前の現実から逃げるために私は足を踏み入れてそして逃げ出せなくなった」

裏切れば世話になっている老夫婦に何をされるか分からない。危ない綱渡りをするしか残されていなかった道で彼女はギリギリのラインを保っていたのだろう。

三好は一歩彼女に近づいた。

「駄目よ」

ふわりと彼女の傘が三好に向けられ、三好は足を止める。傘が下された時に彼女の手にあったのは液体が入った小瓶だった。

「こんなものを用意してくれる人達が理想の社会を作ろうだなんてとんだ茶番ね」

雨に打たれ彼女の体が濡れていく。
三好はそんな彼女を見つめた後、にこりといつもの笑みを浮かべた。

「貴女って人は」
「え」

三好が傘を名前の真上に向かって投げた。思わず視線が上向いた彼女に距離を詰めれば、彼女が小瓶の中身を飲む間もなく三好はその手を掴みそれを回収する。

「貴女に死なれたら困るんですよ」
「それは、騒ぎになるからでしょう?」
「……そうですね」

分かりきっているように彼女は笑う。三好は彼女が手にしていた小瓶を地面に叩きつけた。割れた小瓶から溢れた液体は自決用のそれだろう。
割れた瓶を見て彼女は悲しそうに笑った。

「私、もう帰るところなんてないのに」

裏切り者には死を。彼女が裏切ったと分かれば、彼らは地の果てでも追いかけていくだろう。

降り注ぐ秋雨に濡れた彼女の頬を雫が伝う。
三好は雨に濡れるその体を抱き寄せた。
突然の行動に名前は目を瞬かせ体を硬直させる。

「三好さん?」
「なら僕のものになればいい」

抱きしめている彼女の動揺が三好に伝わった。

何を言っているんだと三好自身自嘲した。けれど首を振る。
利用するだけだ。国内の協力者は多い方がいい。いつもやっていることだ。女は落とせばいい。
そう自分に言い聞かせた。


抱きしめる三好の背に、名前は腕を恐る恐る持っていく。



「……ごめんなさい」



唐突に、彼女は三好を力いっぱい突き飛ばした。突き飛ばされた先の彼女に三好は目を見張った。まるでその動作が、スローモーションのように感じられた。
離れた体、さめざめと降る雨、立ち尽くす彼女は三好を見てどうしようもなく悲しい表情で、笑った。


「ありがとう」


刹那、一発の銃声が聞こえ彼女の体は崩れ落ちた。


崩れ落ちるその体を三好は手を伸ばし抱きとめる。すぐに銃撃のあった方を確認すると深くハットを被りその場を足早に立ち去る男が見えた。
銃声により、民家からは怯えた声が聞こえ始める。
三好はそこで気づく。


(最初から彼女は捨て駒だったのか)


彼女は尾行されていたのだと、三好は奥歯を噛みしめる。
彼女が組織から抜けることを想定しておそらく付けていた。仲間に自決薬を渡す様な連中だ。彼女のことなどハナから信用などしてなかったのだ。

そして、彼女はこの結末を知っていた。

「なんて馬鹿な人だ」

虫の息の彼女の頬を撫でれば、彼女は三好を見上げてやはり笑った。

「ねぇ、三好さ、ん」

三好のその手を弱弱しく握り彼女は口を開く。何だい、と三好は握られたその手を握り返した。

「お願い、三好さん」
「名前」
「私を、」

細められた目、震える唇。その言葉の先を言う前にぷつりと、人形のように彼女から力が抜けた。
耳障りな雨音が三好の耳に響く。


「聞こえませんよ」


ぽつりと三好は呟く。
騒ぎを聞きつけた住民や憲兵らしき人間がやってくるのが尻目に見えた。
彼女の正体はいずれ暴かれる。そして自分は、彼女に騙された哀れな青年なのだ。

三好は空を見上げた。
曇天の空、相変わらず秋雨が降り注いでいた。