秋晴れ

夏から秋へ変わる頃、季節の変わり目。この時期は秋雨が振り梅雨の様な長雨となる。
三好はゆっくりと床から起き上がると外を見つめた。相変わらずの雨だ。

(雨は嫌いだ)

嫌な思い出と共に、もはやこの体では経験していないはずの感触が蘇る。
人の死に際のその感触。

『私を、』

ゆっくりと事切れるその感覚と、聞けなかった言葉。
後悔はしていなかった。彼女を泳がせていてもいずれは暴かれる。ならばこちらち引き込んでおこうとした。

三好は考えて目を伏せる。今となっては関係がない。

自分はもう三好ではないのだから。

部屋のテレビをつければ、短いスカートを履いて髪を巻いたキャスターが今日の天気について喋っている。
あれから数十年。三好が生を受けてから二十数年。記憶が蘇ってからはほんの数年。

大戦は多くの命と引き換えに太平の世をもたらした。人々はどん底から這い上がり、この国は目覚ましい発展を遂げ今に至る。まるであの戦争はなかったかの様に時代は移り変わった。

(つまらないものだな)

三好はため息をつくと寝巻きからスーツへと着替え始めた。

この生を受けてからも三好は三好だった。相変わらず他と違った。圧倒的な自負心とそれに見合う結果を持って帰ってきた。世でいうエリートコースを進んできた。

しかしそれまでだ。

あの頃のようにその力を発揮する場は残念ながらあまりない。いや、あの頃の様な危険な綱渡りをする感覚が薄れていた。

これが平和というものなのだろうと三好は笑う。いっそのこと、他国のスパイにでももう一度なろうか、そんなことを考え時計を見れば、出勤の時間だ。

(天気予報は、雨だったか)

午後からの天気を見損ねたがあまり余裕がない。三好はテレビを消すと傘を持ち、雨の中へと足を進めた。


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大手企業のプログラマー。若手の中でも才があり、迅速かつ丁寧な仕事ぶり。相手先との関係も良好、社内での評価も上々。女性の扱いにも長けている。

完璧超人と同じ若手の男子社員から言われるほど三好は出来すぎていた。お前なら会社立ち上げるくらい余裕だろうという同僚の軽口に対しては、そんなことない、と謙遜する。

(そんなつまらないものに興味はない)

上が人を動かすことなど容易にできる。下から動かす方がよっぽど面白みがある。
エリートコースを進んだ三好がわざわざ普通の企業の一社員となっている理由だ。上からの命令に辟易している若手を尻目に彼の評価はうなぎ登りだ。
あまりにも出来すぎている生活に一度ヘマでもしてみようかと思うほど、三好はやはり化物だった。



「お疲れ様でした」


定時に帰ることなど当たり前だ。押し付けられた仕事すらこなして尚それなのだから他の社員もはや嫌味すら言う気が起きない。
三好は鞄を片手に颯爽と会社を後にした。

相変わらず雨は降り続いているが、微かに光が見える。

ふと、三好は思い至った。


(あの場所はどうなっているのだろう)


生を受けてか数十年、記憶が戻って数年一度も訪れたことはなかった。
あの日も今日の様な秋雨だった。彼女の体から生が落ちていく感覚を忘れたわけではない。

(一度だけだ)

それでも、あの時と同じこの雨の中三好はいつもと違う方向へと歩き出した。


地下鉄を乗り継ぎ郊外へと向かう。私鉄が張り巡らされた東京は移動するのに不便なことがない。
近くの駅につけば、立っている建物はもちろん変わっているがあの頃の下町の雰囲気は微かに残っていた。
記憶を頼りに歩みを進める。

あの日は彼女が後ろから付いてきていた。真っ赤な傘をさして一歩引きながら一定の距離を一歩一歩。決して近づかず、しかし離れず。

三好はおもむろに振り返った。


(いるわけないだろう)


当たり前だが、後ろには人っ子一人すらいなかった。
郊外の下町、住んでいるのは老人ばかりの小さな町だ。この時間帯は夕餉の準備などで家にいる人間が多い。

三好は歩みを再び進める。空襲の後の区画整備でもここは変わらなかったようだ、家々が変わっても道は変わらない。
あの時の記憶を塗り替えるように三好は足を進める。

前を見れば、公園の入り口が見えた。

あと少し、十字路の一角、左手に見えるその公園は今どうなっているだろう。三好は下を向きながら歩き、そして公園の前で立ち止まるとゆっくりと顔を上げた。


真っ赤な傘が視界に入った。


三好は目を見張った。思わずその場に固まる。期待などしていなかった。けれど心のどこかで焦がれていた。

くるりと振り返ったその姿はあの時の面影が残る、お嬢さんそのものだった。



「やっと、会えた」



変わらない笑顔と細められた瞳。彼女の口から紡がれた言葉は三好の心を溶かす。
振り返った彼女には、一筋の光が差していた。

三好は傘を置く、雨は止んでいた。


「あの時の言葉を聞いていませんから」


一歩ずつ、ゆっくりと歩み寄る。彼女はおかしそうに笑った。

「私、思い出してから毎日ここに来てたんです」
「それは、随分と待たせましたね」
「えぇ、それはもう」

ぴたりと彼女の前で止まった三好に、彼女、名前は優しく笑いかけるとその頬に手を添える。

「でも、言い損ねたのは私だから」

ごめんなさいね、と笑む彼女の手をそっと握り返す。
あの時とは違う、暖かく血が巡るその手だ。生の巡り合わせに三好は誰でもない何かに心の中で感謝した。

「名前」

三好は彼女に促した。彼女は三好のその表情に至極嬉しそうに、そして泣きそうになりながら紡いだ。



「私を、攫ってちょうだい」



言い終わるや否や、三好は彼女の体を抱きしめた。彼女も応えるようにその背にしっかりと腕を回す。

「やっと聞けた。名前」
「三好さん、私」
「もういいんだ。全部、もう」

三好は名前の肩に手を置き、その唇を奪った。一瞬硬直した彼女だが、すぐに目をつむりその祝福を受ける。


退屈な日々だった。つまらない日常だった。
けれど、この日常ならばこの暖かさは消えない。するりと抜け落ちる生をもう味わうことはない。

互いの唇が離れる。幸せそうな顔をする名前に三好は深い満足感に包まれるのを感じた。

「名前」
「はい」

今度はこちらが紡ぐ番だ。
三好は彼女の頬に手を添えひとつ息を吸った。



「僕とともに生きて下さい」



最上級の彼女に贈ることができる言葉だ。
泣きそうになっていた彼女は、目に浮かべた涙を流しながら答えた。


「喜んで」


再び口づけを交わす。
雨が上がり、微かに空が茜色に染まっている。

あれから数十年。
祝福と言えるような秋晴れを予想させる空の下での再会だった。