歪なリナリア

フランスルネッサンス建築の白亜の洋館。木造瓦葺の2階建て、ゴシック建築の八角尖塔が西洋の雰囲気を更に創出している。門を潜り洋館の玄関まではシンメトリーの鮮やかな庭園、洋館の裏側には庵を備えた厳かな日本庭園が広がっている。

田崎は久方振りに帰郷した我が家の外装に改めて感服した。幼い頃からその絢爛さは理解していたが、D機関であらゆる訓練を積んでから目の当たりにすると、また違った様に見える。
同期を連れて茶会でも開けばどんな反応をするだろうか。波多野と甘利は大して興味がなさそうだ、三好と意外と神永が好むかもしれない、そんな珍妙な考えを巡らせて首を振った。

ーー馬鹿なことを考えている場合じゃない。

石砂利を踏みしめて田崎は洋館へと歩みを進めた。


「嗚呼、若様お久しゅうございます」
「只今、婆や。変わりはないかい?」
「えぇ、えぇ勿論。若様もお変わりない様子で」
「はは、たった数カ月で変わりはしないさ」

左様でございますね、と控えめに笑いを零す老婆はこの屋敷の中で最年長の使用人だ。幼き頃から田崎の身の回りの世話を甲斐甲斐しく行ってきた。
恭しく頭を垂れた老婆は初老の執事に目配せする。執事は音も立てずに田崎のボストンバッグを預かると階段を上がっていった。

「適当な所に置いといてくれ」

その背に声を掛けた田崎を振り返ると深く頭を垂れ、そして足早に進んでいった。

「相変わらず仕事は早いけど寡黙だな」

苦笑する田崎に、老婆は眉尻を下げて同意した。



内地から海を越えて辺境の地で満州国を世界に伝える勤めに精を出している。イギリス留学で培った国際感覚と堪能な語学、そして彼の「家柄」が為す、他には早々真似の出来ない「仕事」をこなす好青年。
これが田崎という人間の表の世界での経歴だ。
眉目秀麗で誰もが羨む名家の若様が、実は陸軍内部に創設されたスパイ養成学校で訓練を受けたスパイなどとはここにいる誰もが露ほども知らない。

若様はこの度、忙しない勤めの労いとして暇をもらい帰郷した。

……というのも建前である。


田崎は左右へ視線を走らせ老婆に尋ねた。

「アイツは何処に?」

その声音は旧知の仲の者に対するそれだと悟り、老婆は苦笑した。

「今は園内におられます。若様が帰られるのなら花を摘まなくては、と」
「己が摘まれないと意味がないのにな」

肩を竦めた田崎に老婆は眉尻を下げた。

ーー本当に困ったお嬢様だ。

行ってくる、と老婆に声を掛け田崎は中庭へと足を進めた。



季節の花が彩る、見事な英国庭園。オールドローズ、フリチラリア、鮮やかな朱色から可憐な牡丹色、藍色、薄萌黄色、見渡す限りの色彩美に田崎は感嘆の色を隠せなかった。
庭師の手入れが行き届いたこの空間だけは、まるで非現実と見紛うほどで鼻腔を抜ける香りに薄く笑みが溢れた。

足を進めていくと、蔓が見事に巻きつき緑のアーチを描いている一角にたどり着く。その一角に田崎は見慣れた後ろ姿を見つけた。


「名前」


その後ろ姿に呼びかければ、相手は袖の爽やかな薄手のワンピースをひらりとたなびかせ振り向いた。

「あら礼二、久しぶりね!」

可憐な少女。端的に言えば今の彼女はそのような存在だ。小柄な身体、顔に対して大き過ぎるほどまあるい瞳。
しかし、一度社交場に赴けば驚くほどその可憐さは鳴りを潜めて、美しい女性へと変貌することを田崎は知っている。
良家のお嬢様に相応しい、器量と気品、聡明さを兼ね備えた才色兼備の令嬢、それが目の前の、名前、という女だった。

「帰ってくるなんて珍しいじゃない?なあに、縁談でも薦められたわけ?」
「そんなことで帰ってくるわけないだろう」
「あは、そうよね。礼二御坊ちゃまは満州でのお勤めが多忙を極めている優秀なお方ですものね」

からっと一笑する姿は良家のお嬢様とはかけ離れている。公式の場では慎ましやかに、伏し目がちに微笑を携えるこのお嬢様にはこのような側面があるのだ。

田崎は盛大なため息を吐くと、ちくりと釘を刺した。

「お前、縁談先でそんな口の利き方するんじゃないぞ」

じとりと視線を遣れば名前がきょとんと目を瞬かせた後、挑戦的な瞳を向けて宣った。

「礼二に関係があるのかしら、そんなこと」

小馬鹿にするような声音に田崎の片眉が上がる。その物言いが、同期の彼と重なり苛立ちが募った。

「心配してものを言ってやっているんだ、感謝くらいして欲しいね」
「ふぅん、心配、ね?」
「……なんだよ」

挑戦的な瞳から一転、名前が目を細めた。田崎の深淵を覗き込む、そんな居心地の悪さを感じ思わず言葉尻が小さくなる。
名前は田崎のその変化に気づいてかどうか、ぱっと目を逸らすと静かに己を主張する一輪にそっと手を添えた。


「貴方はいつだって他人なんかどうだって良いじゃない。それこそ私でさえ」


パキリ、と静かに花が手折られる。掌で尚その可憐さを主張する花を、くしゃりと、握り潰す。
田崎へと近づいた彼女はずいと拳を彼に突き出すと、掌を真下へ向けた。はらはらと無残に皺れた花びらが地へと落ちる。


「嘘はよくないわね」


藤色のキキョウの花弁が足元に散らばった。その花弁を一瞥した田崎は皮肉に口元を歪める。

「不誠実な男は嫌いか」

キキョウ。花言葉は、誠実。
名前は田崎の言葉に、恐ろしく清廉な微笑みを浮かべた。

「いいえ?好きよ」

落ちた花弁を踏み締め田崎の横をすり抜けると、余りある無数の花々へとその白い手を伸ばす。
柔らかな指先が花弁を撫で、香りを嗅ぐ仕草さえ彼女を囲う花々より美しい。
毒の棘を持つ彼女は常に可憐に笑むのだ。

ちなみに、と名前は口を開いた。

「ついこの間、縁談を断ったばかりだからもう暫くは何もないわ」

まるで天気の話をするかのような口振りに田崎は頭を抱えた。
知っている。だからこそ、自分は呼び戻されたのだ。
田崎は盛大なため息をつくと、眉を僅かに吊り上げた。

この一見才色兼備なお嬢様は、ひとつ皮を剥げば破天荒なじゃじゃ馬の姿を見せる厄介な女だった。家同士の結び付きの強い田崎と名前は、古くからの友人、要は幼馴染なのだ。

田崎が呼び戻されたのは、他でもないこのじゃじゃ馬が無下にした縁談が原因だった。
親が用意した男を、会っては蹴り会っては蹴り、ここ数年名前はそれを繰り返していた。そうして、縁談を蹴るたびに田崎の生家に顔を出しては花を摘むのだ。いちいち縁談を断る度に此処へと赴く。誰もが田崎と名前の『秘めやかな関係』を勘繰り、そして遂に自分達でカタをつけろと田崎は呼び戻された。

お冠の両親の顔が目に浮かぶ。田崎は優婉に花を掬う彼女を見て憂鬱な気持ちとなった。

「今度は何が気に入らなかったんだよ。顔か?それとも、鼻持ちにもならない御託にうんざりしたか?」

以前、名前がぼやいていた事をそのまま口にすれば彼女は、そんなんじゃないわよ、とケラケラ笑う。

「優しい人だったわよ。ハンサムだったし馬鹿じゃなかったし、陸大を出られてる方でね、つまらない薀蓄もないしお父様とお母様も大層気に入っておられたわ」

なら何故、と田崎が問う前に名前は、でも、と被せてきた。


「私のために生きることのできない男なんて真っ平御免よ」


吐き捨てられた言葉と同時に手折られたのは紫苑。その花もまた無残に地に付すことになった。
ぴしゃりと彼女が言い放った言葉に田崎は即座に視線を走らせた。人の気配は周りにない。彼女の口から出た言葉を聞いた人間はいない。
田崎はスゥと切れ長の目を更に細めると、ひとつ低い声で咎めた。

「滅多な事を言うな。使用人に聞かれでもしたら如何する」
「出世街道を駆ける若き陸軍大尉の好意を無下にしたこと?これってそんな失言かしら」
「お国の為に命を懸けている方に対する発言としては、大きな失言だ」

田崎は語気を強めた。
勿論、本音ではない。死ぬな殺すなを信条としている自分達にとっても、国の為に命を捧げる行為は馬鹿げた、無意味な自己満足でしかない。
しかし、建前上それを聞き過ごす訳にもいかない。彼女の先程の発言は、国の為に尊い命を捧げる日本軍人、への冒涜とも取れる。

「何、心配してくれてるの?」

名前は至極楽しそうに笑う。田崎の心労など、取るに足らない、ものと言わんばかりにただ笑みを貼り付けるだけだった。


ーー心配?冗談じゃない。


田崎は怪訝な表情を隠しもせずに名前を見下ろした。

「お前の様子を見に帰らされたんだ。縁談を断り続ける理由を聞かないとこのままま此処に閉じ込められるんだよ」

歯に衣を着せずに毒突く。スマートに清廉潔白な笑みを貼り付ける必要性が彼女にはない。

田崎の苛立つ様子に名前から、この日初めてその顔から笑みが消えた。
漆黒の瞳が田崎を覗き込む。かちりと真正面から視線が合わさり、名前の口が薄く開かれた。



「まさか、そんなつまらないことのために帰ってきたの?」



ぞくりと背筋に悪寒が走る。
底冷えする様な声音だった。同時に、田崎は彼女の瞳に息を呑んだ。
暗く、丸い瞳は冷徹さを帯びていた。ひどく現実離れしたその冷然さ。
魔王、田崎の脳裏にあり得ない言葉が過ぎった。

しかし直ぐだ。心臓が掴まれた様なその感覚は、彼女がパッと笑んだことで消え去った。

「礼二、私ね他人を寄せ付けない貴方の美しさが好きなの」

先程の冷眼は一体何だったのか、そう思わせる程の切り替わりの速さ。そして、田崎の深淵を覗き込み其処に足を踏み入れるその無遠慮でそれでいて大胆な姿。

まさに、高嶺の花、を地でいく様な女だった。

「じゃじゃ馬な小娘を説得するため?そんなつまらないことのために貴方が動いたのならがっかりだわ」

名前が田崎の首筋にしなやかなその指先を伝わせた。その指先は柔らかく、巡る血潮が感じられる温かさがあるにも関わらずまるで鋭利な刃物を突きつけられている錯覚に陥る。


「ねぇ礼二、忘れないで」


ごくりと、田崎が生唾を飲み込んだ。


「貴方の孤高の美しさが私を夢中にさせるの」


妖艶な化物が、艶やかに笑った。





「……上等だな」


ひとつ田崎は息を吐いた。己の感覚を取り戻す様に、深く息を吸い浅く吐き出す。
先程まで感じていた、苛立ちも畏怖も田崎の中から消え失せていた。

この名前という女は、田崎以外の男をそもそも見ていない。
そして、田崎の本質を理解しながら其処を好いていると宣うのだ。

田崎は名前の腰を引き寄せた。
至極満足そうな笑みを浮かべる彼女に、口元を歪めるとその唇に荒々しく口付ける。
可憐で、しかし清艶な彼女を犯して侵すように咥内を舐った。息つく暇も与えず、ただその身体を蹂躙する。

漸く解放した時には、ツゥと2人の間を糸が引いていた。


「礼二」


挑戦的な瞳が田崎を捉える。



「もっと貴方を愛でさせて」



その瞳に、田崎が応えた。




「お気に召すままに、お嬢様」