罪と罰

「善人が救われるなんてつまらないわ」

春風が吹き、木々が鳴く。枝葉に緑が生い茂り緩やかな時が流れる中、その流れを断ち切るような鋭い声が響いた。

田崎は視線を彼女へと向ける。

「何だよ、急に」
「お伽話っていつだって善人が救われるじゃない。つまらない」

そう言う彼女が手にとっていた本は童話の類だ。成る程、幼子に読まれるそれらは確かに善人が救われる。
パタンと興味なさげにそれを閉じ、大仰に足を開いた彼女に田崎は、はしたないぞ、と苦言を呈したが、ニタリ、とこれまたはしたなく彼女は笑む。

「はしたなくていいわよ。これが私なんだから」

よいしょ、と草むらに寝転がり、彼女は蒼天を見上げた。釣られて田崎も見上げる。雲ひとつない空は穏やかな時を運んでいる。さらりと吹く風が心地良い。

「なぁ」
「なに?」
「何で嫌いなんだ」
「なにが?」
「善人が救われる物語。後味良いだろ」

何気ない問いだった。つまらない日常において、田崎はこの時間が好きだった。
全てが万事上手くいく。まるで、物語の主人公のように田崎は己を捉えていた。
家柄、才能、技量。全てが申し分ない己はまさに、彼女のいう物語の主人公足り得るだろう。善人かどうかは別として、善人のフリならできる。
だからこそ問うてみたかった。

彼女は、名前は田崎を一瞥すると再び視線を空へと移した。

「善人はね、愛されているの」

蒼天に掲げた掌が、彼女の顔に影を落とす。

「善人というだけで愛されているの。誰もが彼らを愛して羨むのよ。その上救われるだなんて」

ぞっとしないわ、とケタケタと笑う彼女は矢張り普通と少し違う。田崎は肩を竦めた。
しかし、その言葉を理解はできた。

世界はいつでも正しさを、公平さを、善を重んじる人間を求めている。彼らが救われ、正義を前に跪き、弱き者に傅く姿が好まれる。
勧善懲悪。物語はいつでもこの世界の希望を体現する。

「なら、悪人はどうすれば良い?」

その世界を逆行する彼女の言葉は面白い。田崎は続いて問うた。
彼女は田崎を一瞥することなく答えた。

「どうもしないわ。ただ、悪人こそ救われる存在よ」
「悪人のくせにか」
「悪人だからよ」

悪人だから救われるべきなの、と呟く彼女は田崎を見つめる。

「何故、悪人だからなんだ」

その瞳に映る真摯な色がやけに気になった。田崎は彼女に促した。
田崎のその知的好奇心を悟ったのか、彼女はニタリと笑む。

「悪人はどうして悪人だと思う?」

問いに問いで返すとは、無粋だと眉根を寄せた田崎に彼女は変わらず笑みを浮かべて、そうしてまた空を見上げた。

「善を知らないからよ」
「善を…知らない?」
「そう。善を知ることができなかった」

哀れな子達、と囁くその声音はひどく優しげだった。

「善を知らずに生きてきた子どもが救われないなんて、後味悪いじゃない」

眉尻を下げた彼女が田崎を見つめる。あまりにも普段と違うその相貌に田崎は息を呑む。
自由人で、自分本位で、ずる賢さまで備えた恐ろしい女。
そんな彼女が、佗しげに笑うのだ。


「礼二はまごうことなき悪人ね」


春風が吹く。ざわりざわりと、草木と共に真白の花が揺れた。



ーーー



昔の夢を見た。田崎は閉じていた瞳をゆっくりと開いた。
車窓から見えるのは、田園と緑生い茂る山々。

日本は終戦を迎えていた。戦争中も満州、上海、東南アジアから日本と各国へ赴き多忙を極めた田崎だったが、戦争の激化とともにスパイは無用の産物と化して行った。
情報収集には努めた。おかげで用済みとして現地で徴用される事もなく、こうして本国の地を踏んでいる。

車窓越し見えた田園、その周りに咲く小さき花々に、田崎は夢に見た彼女に再度想いを馳せた。




ぶちりと引き千切られ、無残に地に臥したのは先ほどまで華麗に咲き誇っていた花々だ。
庭先の彩り溢れた草花の空間。見事に整備されたその空間に咲き乱れていた花を彼女は、無慈悲に無造作にぶちりと引き千切った。

「こんなものより、道端の雑草の方が綺麗ね」

憎々しげに見つめるのは、誰もが羨むガーデン。荘厳でたいそう煌びやかな花の空間に、彼女はそう吐き捨てた。

妙に今日は機嫌が悪い。
田崎は彼女に問う。

「どうしたんだ」
「どうもしないわ。ただ、こいつらが気に食わないの」
「当たっても仕方ないだろ、花は此処から動けない」
「だからよ」

だからなのよ、と震える声音が印象的だった。

花は手折れば輝く。彼女は常にそう言っていた。
そこにしか咲くことができない花々は、手折りその種子が風に乗り旅をすれば自由に羽ばたける。
それができない花は、そこらの雑草より無価値で空虚な存在なのだと。

「幾ら煌びやかでも、気取っていても、結局ただの雑草より不自由で囚われている」

そんなものになんの価値があるのだと。花に重ね合わせる己を彼女は恨んでいた。
彼女は自由であり不自由だ。己の枷の中での自由を楽しみながら、しかしその外の世界に憧れる。家のしがらみを理解しながら納得できない、納得し得ない現状を厭いながら彼女は今日も花を折る。

「ねぇ、礼二」

手折りながら彼女は常に田崎に言うのだ。

「何だ」
「私ね、いつかきっとなるわ」


ーー雑草になってみせる。


ひどく真の込もった、馬鹿げた決意だった。




(で、雑草になったわけか)

何と馬鹿な女だと、田崎は幼馴染の相貌を想った。でしょう?としたり顔をしているのが眼に浮かび、思わず顔を歪めた。
1人嘆息し、車窓から外を伺う。


彼女はある日消息を絶った。それはもう唐突に、何の前触れもなく。
陸軍の将校との縁談が出たからか、原因が何かは分からない。兎にも角にも、彼女は忽然とあの屋敷から姿を消した。
血眼になって使いを出し、探し回る両親の動向は田崎も知っていた。

そして、彼女が消息を絶ってから、田崎の耳には奇妙な噂が入ってきていた。

赴任した地で、係留地で、彼女に似た女の情報が度々聞かれたのだ。
あり得ない、かぶりを振りながらも現地の協力者にそれとなく確認すれば、確かに、育ちの良さそうな日本人の女がその地に存在した。その女を見たと言う情報が多く寄せられた。

任務の合間を縫って、田崎は情報を頼りに足跡を辿った。
しかし、奇妙なことに、彼女に行き当ることは一度たりと叶わなかった。
自分の思い過ごしなのか、その不可思議さに、田崎には彼女のその馬鹿げた決意が思い出された。




『雑草になってみせる』



(どこまで飛んでいくんだよ)


田園の周りに線路の傍に生える彼女達を見ながら、列車は東へと向かう。




ーーーー



東京、田崎は故郷の地に立っていた。幸いなことに空襲で被害を受けなかった邸宅には自分を慕う使用人達が残っており、田崎の姿を見るや否や駆け寄ってきた。
若様、若様、と縋る使用人達に存外悪い気はしない。思っていた以上に自分は慕われていたのだなと苦笑しながら、しかしその中でも頭の隅を掠めたのは、彼女だった。

ざわりと、あの春のひと時と同じ春風が吹いた。

使用人達の声が遠くに聞こえる。田崎はふと視線を上へ向けた。
蒼天の空に茜色が滲んでいる。雲ひとつない晴天のこの日はあの時と同じ空色だった。今は、そう、あの真白の花がーー



(確か、あの花は)




鳥籠の中の鳥は美しい。人に愛でられ、人に育てられ、寵愛されることで美しさに磨きがかかる。何の不安も、危険もなく過ごす豊かな日々。
籠の中の安寧と引き換えに失ったのは、羽ばたく自由だ。
花も鳥も、人の手が加えられれば其処でしか生きていけない。全てが保障された場で生き続けなければいけない。
多くは其処で朽ちることを選ぶ。其処での生を謳歌し、充足した一生を終える。

しかし、その安寧を飛び出す者もいる。

与えられた生より、掴み取る命を。レールの上の一生より、吊り橋渡りの人生を。


彼女は、確かに雑草だった。





「随分と遅かったわね、礼二」

挑戦的な瞳は相変わらずだ。怜悧な笑みを浮かべて彼女は田崎を見据えていた。

市を一望できる丘の上。草木が芽吹き、都会的なビル群と対比される一等地。
田崎と彼女、名前の追憶の場所。
屋敷を出た田崎は、春風に誘われ真っ直ぐこの場所へと足を運んだ。

変わらぬ彼女に、田崎は肩を竦めた。

「お前は自由過ぎる」

嘆息してみせれば、戯けた調子で彼女が返す。

「あら、それを礼二が言うの?」
「どういうことだ?」

怪訝な顔付きになった田崎に、彼女は、名前は目を細めた。品定めする、田崎の奥底を見つめるあの眼だ。
化け物たる田崎すら畏怖するあの、瞳。
ぞくりと、背筋が粟立つ。

「分かっているくせに」

名前はからりと笑った。


「楽しかったでしょう?沢山の人を出し抜いて、いろんな仮面を被って生活をするのは」


するりと出たその言の葉に、田崎は目を見開く。

しかし、彼女が見せた相貌は田崎に気づきを与えた。



「ずっと見てきたわ、貴方を」



(……嗚呼)



光と闇、隠と陽が混じり合う。
黄昏時、地平線の彼方に沈み浮かぶ2つの星がひどく鮮やかだった。
2つを背に田崎を見つめる彼女の姿が美しかった。揺らめくその姿に田崎は一歩近づく。


「名前」


記憶を辿る。此処までの軌跡を田崎は思い起こした。


「礼二」


己の名を紡ぐ彼女の唇をなぞる。その頬を撫ぜ、髪を梳く。そうして、深い茶の瞳の奥を見つめた。
勝気な女だった。自分本位で自由に羽ばたきながら、しかし己の領分を弁えた娘だった。

今、その瞳には勝気さが薄れていた。見えるのはただ、



「会いたかったわ、礼二」



ひとりの、田崎を愛した女の慈愛の瞳だった。


「名前、お前は」
「そうよ、礼二。会いたかったから私は、」



ーー『まだ』此処にいるの。



頬に添えられた田崎の掌に重ねられた彼女の手に、温もりはなかった。




何処まで調べても途絶えた彼女の足跡。奇妙な女の噂だけが一人歩きし、しかしそれは真実性を帯びていた。
田崎が行き着いた先には必ず、息づく彼女がいた。自由に道端に咲く、その可憐さに田崎は徐々に確信じみたものを得ていた。

田崎と彼女の思い出の地。其処だけは、あの戦火とは無縁だったかのように穏やかな時が流れていた。

あの時、あの時間と同じ、真白に咲き誇るイチリンソウは、雑草とは見えないほど美しかった。




「礼二、私ね。貴方を追いかけたかったの」

ぽつり、ぽつりと彼女が紡ぎ出す。

「知らされる貴方の情報なんて全部嘘って分かっていたわ。貴方はきっと、誰の手も届かない場所へ行って1人で何処かへ行ってしまう、て」

ふと、彼女の視線が花々へと移った。
視線の先のイチリンソウは、春風を受けて揺らめく。
その様を見た彼女は哀しげに笑う。

「私のことだって、なかったことになると分かっていた」

だからだと、彼女は続けた。

「貴方が全てを捨てて、自分だけになるのなら、私も全部捨てて貴方を追い続けようと思ったのよ」
「……らしくないだろう。お前は、自由で勝気で自分本位なお嬢様で良かったんだ。誰かに縋るなんてお前には似合わない」

田崎の言葉に、彼女はかぶりを振る。

「いいえ、礼二。だって、これは仕方のないことなの」

そうして、田崎の深淵を見つめた。



「私は、貴方を愛したのだから」




ーー悪人の貴方を、愛してしまったのだから。



その相貌は、あまりにも美しかった。
田崎の瞳に映る彼女は、沈みゆく陽に照らされ輝き、しかし仄かに笑む唇はひどく、儚かった。

そうして彼女は、悪人へ、触れるだけの口付けを施した。

「だから、ね。礼二」
「名前……」
「きっとこれは、私への罰なの。悪人を愛してしまった善人の私への罰」
「そんなこと…あってたまるか」
「仕方ないわよ、もう審判は済んでしまったのだから」

それにほら、と彼女が向けた視線の先には、陽と闇が混じり合う時。
黄昏時、彼方と此方の境界線。
陽の光に照らされた彼女が淡く光る。同時にその身体は薄い闇にも溶けた。

彼女は、名前は苦笑する。

「私の我儘も此処までね」
「……っ、名前」

柔らかなその髪を梳き、頬に手を添え田崎は言葉を綴ろうと口を開いたが、しかし直ぐに噤む。注ぐべき言の葉が、分からなかった。

「………駄目よ、礼二。そんな顔をしたら」

どんな顔だと、己の表層に気を遣ることもなく田崎は名前を見つめる。
儚げな双眼に映る己は、ひどく人間だった。

その相貌は久方振りだった。
魔王に己の矜持を砕かれた時以来の、人としての己がそこに居た。


「本当に、礼二は悪人ね」


くすりと名前は笑う。


「誰も愛さない、孤独を生きるくせに、そんな顔までしてしまうなんて、とんだ悪人だわ」


悪人、というのに、その声音に含まれるのは暖色だった。その声音も瞳も、彼女を構成する全てが、田崎を柔らかに包んでいた。

名前、と田崎は彼女の名を呟く。
そうして、その身体を、薄れゆく彼女を抱いた。腕の中の彼女を感じる。

「名前」

ただ、そう名を呼ぶ田崎に、礼二、と名前が紡いだ。


「だからこそ」



ーー貴方は赦される。



その言葉の意味を、問い返す間もなかった。
黄昏が去る。宵闇が近づいた。


「さようなら、礼二」


線となった陽が落ちる刹那。


「愛しているわ」


口付けが交わされた。





気付いた時には、田崎はそこに居た。ひとりで立つその場所には、ただイチリンソウが風に揺られていた。


「なにが、悪人こそ救われるべきだよ」


名前、と吐いた息とともに名が消えていく。
見上げた空には星空が広がっていた。