送り火

夏特有のからっとした暑さじゃない、ジメジメとした暑さ。昨夜の雨のお蔭で涼しい風が吹くかと思えば、相変わらずの熱風が頬を撫ぜる。

あまりの暑さに名前は深くため息をつき、手にしていた団扇を投げた。幾ら扇いでも届くのは熱風ばかりだ。身体の熱を冷ますどころかじわりじわりと上げて行く。

格子に張り付いてけたたましく鳴くアブラ蝉を指先でピンと跳ねると、雲ひとつない蒼天を拝んだ。


「名前さん」


己の名を呼ばれ、名前の心臓がどくんと跳ねた。その声はひどく透き通っていて、常に柔らかに名前の身を包んでいく。

眼下に立っていた切れ長の目で、色白な好青年に名前は視線を遣った。



「おかえりなさい、田崎さん」




田崎というこの男は、四年ほど前から名前の祖母が管理している長屋に住み始めた青年だ。何処かの貿易会社に勤めているらしく、専ら外へと出ている。こうして住処に帰ってくることは数ヶ月に一度で、名前と話をしたことも大してなかった。


「この度は何処へ向かわれていたんですか?」

湯呑みに茶を注ぎそっと差し出しながら、名前は晴れやかな声音で田崎に尋ねた。
田崎の話はいつも面白かった。行く先々の国の風土、食文化、習慣、それらをまるで書籍に書いてあるかのように饒舌に話す彼に初めは呆気に取られていたが、今ではそれが名前の楽しみだ。

「今回は前と同じところなんですよ」

目を輝かせる名前に田崎は苦笑した。

「同じところでも田崎さんのお話はいつも色々な発見がありますから」
「大したことは話していないんですけどね」
「ここから出たことのない私にとってはどれも新鮮ですよ」

さぁ早く、と先を促す名前に田崎はやれやれと肩を竦めると紡ぎ始めた。


数ヶ月ぶりに帰省した田崎の話は矢張り面白かった。
そして同時に、その柔らかな声音が大層心地よかった。
名前は田崎の話に耳を傾けながらもその表層に視線を這わせた。
稀に見る美男子の田崎から発せられる音はその面に相応しく透き通っている。時折目を細め、訪れた地を懐かしむ表情は彼の人柄の良さを体現している。


(素敵な方…)


数ヶ月に一度しか会えない、何処の者かも分からない相手に名前は少なからず慕う淡い心を抱いていた。





「名前さん少し良いですか?」

田崎が帰省して数日経った日。炊事場で夕餉の準備をしていた名前に田崎が声をかけた。

「あら、田崎さん……どこか行かれるんです?」

外行きの装いでひょこりと顔を出した田崎に名前は目を丸くした。夕餉の支度をするような時間だ、普段の彼なら内着で名前の仕度の見学をするか、或いは自室で仕事に精を出すかのどちらかに限られている。

仕事の関係先との打ち合わせだろうか、そんな考えが名前の頭を過ぎったが田崎から発せられたのは思いもよらない誘いだった。

「少し外に行きませんか?」
「外…?今からですか?」

名前は手元で刃が通るのを待っている茄子に視線を落とした。八百屋の主人が今朝方取れたばかりだと言っていた自慢の野菜達は粗方切り終えたが、まだ魚の捌きと仕上げが残っている。

格子から入る茜色からして日の暮れまではあと少し。今から外へと出ると夕餉の時間にはとても間に合わない。

(でも…)

名前はちらりと田崎の顔を見た。
折角の誘いを断る選択肢を選びたくはない。

さてどうしたものかと、名前は唸った。


「行っておいで」


降ってきた声に名前は振り返った。
思案していた名前の背中を押したのは、柔和な笑みを携えた祖母だった。

「お祖母様、いいの?」
「いいもなにも、大事なことだからねぇあれは」
「あれ…?」
「田崎さん、あれに行くんでしょう?」

祖母の言葉に名前が田崎を見遣ればこくりと彼は頷く。
ぽかんと1人置いてけぼりになっている名前を他所に、祖母は彼女の割烹着をテキパキと脱がせると、その身を田崎へと押し出した。

「わ、お祖母様っ」
「はい、行ってきなさい。田崎さんお願いします」
「ありがとうございます」

はしと名前の身を受け止めた田崎は紳士の笑みを浮かべると困惑した様子の彼女の手を取った。
田崎の温かさが指先から伝わり思わず硬直した彼女の手を引き、彼は茜色の空の下へと歩き出した。





西の空に夕日は沈んだが、暮れが残り薄っすらと雲に茜色を落としている。
夜の闇がゆっくりと近づく時分、八王子にある浅川には幻想的な光景が広がっていた。

竹などで組まれ、薄い和紙を巻いた灯篭が無数に散らばり川面を照らす。その光と夕影が相成り、辺りは厳かな雰囲気に包まれていた。


名前は目の前に広がる光景に目を奪われた。古くから行われてきたこの行事のことが頭から抜け落ちていたのは、真横にいる青年が久方振りに帰ってきたことが原因だ。そして今、その彼と共にこの空間にいる。


「覚えておられたんですね、灯籠流しのこと」
「偶々ですよ。夕方に出掛けた時、向かいの店主が話しているのを聞いたんです」

2人揃って持っているのは質素な灯籠だった。古い竹と薄っすらと色味の出ている落水紙で作られた灯篭は多く作ってしまったという住民から譲り受けた物だった。

中心で揺らめく灯りが田崎の端正な顔を揺らす。伏せられた瞳は何処か憂いを帯びているようで、ひどく美しかった。

名前はふと川面へと視線を戻した。


灯篭に込められているこの世の人間の想いは様々だ。
故人への願い、悔恨、惜別。
灯籠流しは死んだ人間のためにあるものではない、この世に生きている人々の為に在るものだ。

名前は落水紙越しに、淡く柔かな橙色を放つ灯篭を見つめた。

想いが河を下り願いとなって海へと帰る。人の想いが故人をあの世へと還すのだと名前はそう考えていた。


名前は無数に揺らめくその灯火をぼうと見つめた。
このひとつひとつにどのような想いが有るのだろう。そう物思いに耽っていた彼女に隣の田崎が声をかけた。

「きっと、多くの人が大切な人なことを想うのだろうね」

相変わらず人の良い笑みを浮かべる。
名前は自らに向けられたその笑みをじっと見つめた。一見とても純粋で、心の底まで透き通っているようなその笑みの中に微かに揺らめく綻び。


「田崎さん」
「ん?」
「何かあったんですか?」


ぴしり、と透き通っていた笑みが表層に貼りついた。名前は貼りついたその笑みを剥がすように田崎に語りかけた。

「違ってたらごめんなさい。でも、わざわざ田崎さんが此処に誘って下さったのは理由がある気がしたんです」

ぴくりと田崎の眉が動いた。

数ヶ月に一度帰ってくる、そんな深くなくしかし浅くもない奇妙な関係が紡がれているだけ。
しかし、その中でも伊達に彼を見続けて来たわけではなかった。

その目元から、声音から、口元から、何処となく昼間のあの紳士的な彼とは離れた、言うなれば、田崎という人間ではない誰かが、


「何だか、とても寂しそうだから」


憂いを帯びた瞳は、田崎であり田崎ではなかった。

何故でしょうね、そう眉尻を下げて笑えば彼は目を瞬かせた。



既に空の茜は歩き去り、闇が辺りを覆い尽くしていた。
想定外、そんな表情を見せた彼はしかし直ぐに口元を緩めた。



「やはり、貴女と来てよかった」



え、と田崎を見返した名前を他所に彼は川面へと近づくとそっと灯篭を浮かべた。
さぁ、名前さんもと促され名前も同じように手にしていた灯篭を川へと流す。

ゆらゆらと2つの灯篭は柔らかな光を放ちながら還っていく。
この世への旅路に別れを告げ名残を惜しみながらゆっくりと進む、そんな情景にも名前が思えたのは、矢張り彼女が生きているからだ。

名前は田崎の横顔を眺めた。
細められた切れ長の目が、流れ行く灯篭に向けられている。


「田崎さん」


徐に、名前は田崎を呼んだ。

彼の視線と名前の視線が交錯した。




「行っては駄目です」




何気なく紡いだ言葉だった。
田崎の僅かに見開かれた瞳を見つめ、名前は彼の浴衣の裾を掴んだ。


「名前さん」
「……行かないで」


ぎゅうと裾を掴む掌に力を込める。


ーーーどうして、そんな顔をするの


憂いを帯びた田崎の瞳に見えたのは、誰かを偲ぶ色、そして、



「彼方に行ってしまうことに、良いことなんてないでしょう?」



羨望の眼差し。
まるで、故人を羨むようなその視線に名前は思わず彼の手を掴んだ。
離してしまっては、彼は彼方に行ってしまう、そう錯覚するほど彼の瞳は真っ直ぐだった。

田崎は名前の不安げな顔にふと笑うと、裾を掴んでいたその震える手をとった。
思わぬ彼の行動に名前は身体を震わせたが、田崎は御構い無しにぎゅうと握りしめる。

「行かないさ、何処にも」
「田崎さん…」

尚も心配そうに空を見上げる名前に田崎は瞳を伏せ、ぽつりと呟いた。


「………知り合いがね、死んだんだ」


名前を見つめていた瞳を彼方へと向かう灯篭に向けて、田崎は目を細めた。

「だけれど、彼は彼の仕事をやり遂げて死んだ。完璧に、非の打ち所がないくらい」

語る田崎の横顔は矢張り端正で美しい。しかし、憂いを帯びた瞳により何処か儚さも感じられる。

「彼はとても満足して死んでいった。同じような仕事をしていた自分にとって、それが……」

向けられた笑みに名前は思わず息を呑んだ。



「俺には眩しく思えてね」



酷く美しい笑み。けれど、とても儚い。

名前はひとつ目を閉じてそして開いた。

握られている手にそっと己のもう片方の手を添える。


「でも田崎さん」


両の手から伝わる彼の熱を慈しむように、その手を心の臓へ近づけた。


「生きているから私はこうして田崎さんとお話できるんです」


胸の鼓動が肌を通して田崎に伝わる。
巡る命の輝きは何よりもこの世に生きる者への祝福だ。


「だから、」


それは決して、あの世にはない今だけのものだ。




「私には、貴方がとても眩しいんです」





どんなに時世が荒く冷たいものとなっても、この想いだけは変わらず永遠に持ち続けるだろう。
生きている限り、その祝福を享受している限り。



闇が街を覆い、ぽつりぽつりと消えていった人気により辺りは静けさに包まれていた。
さぁ、と夏の風が吹く。夏草が揺れ、虫の音が響いていた。



「……名前」


名を呼ばれ、それに応えようとした名前の口が彼に封じられる。

月明かりと、僅かに届く灯篭の灯りが2人を照らしていた。