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神代千歳は幼い頃から、きちんとしていた。きちんとするということは、即ち、楽ができるということを幼い頃から体感として学んでいた。楽をするためにはきちんとしなければいけない。きちんと学び、育つからこそ、楽をすることが出来る。勉強も運動も、とにかくきちんとしていけば、楽をすることに繋がると千歳は知っていた。楽をする、手を抜くことが出来るのはきちんとしてきたからだ。きちんとすることを体で覚えているからこそ、ぬくことができる。
几帳面でありながら、大胆な性状となった千歳は、中学高校大学と問題なく進学した。ただ、唯一、千歳が難問としてぶち当たったのは、就職だった。就職はきちんとするではなく、ぬくのも肝心だ。しかし、ひとつの企業に割けられる時間は限られていて、きちんとした後にぬくことは困難だ。
考えた結果、千歳が行き着いたのは、きちんとした学校だった。

「先輩、いい加減提出締め切りのものを回してください」
「悪いねえ、神代ちゃん」
「心にもないことを言うくらいなら手を動かしてください」

多摩警察署、刑事課。乱雑な机上となっている無数のデスクの中で比較的ましな部類の机に座っているのは、警察官というにはあまりにも線が細い男だった。その隣で、千歳は死んだ魚のような眼でパソコン画面を凝視しながら一心不乱にキーボードを打っている。
昼行燈な男の声に片眉をひくりと動かした千歳は、自分の机の隅に置かれた紙製のボックスの蓋を開けると、中に手を突っ込んでガサゴソと漁った。カリカリと無情な音が響いたと同時に、隣席の初老の刑事が、「ほらよ」と、彼女の机に投げ込んだのは個包装のチョコレート。「ありがとうございます」と能面を貼り付けた彼女は、チョコを口に含むと再び作業を開始した。
神代千歳はきちんとしている。きちんと、というのはつまり、頭をよく働かせるということでもあった。よく考え、よく動き、よく反省する。物事のサイクルを上手く回して、最適解を導く作業を千歳は得意としていた。
故に、脳は常に糖分を欲していた。

「飴ちゃんいる?」
「いりません」

語気を強めた千歳に対して男、もとい、千歳の指導役の刑事である九字院偲は、「つれないねぇ」と包み紙を剥いで飴を口に含んだ。彼は三年前に移動してきた千歳を、今日まで指導してきた功労者だ。甘党の千歳に対して開口一番、「飴ちゃんいる?」からのコミュニケーションに幾分か救われたことは事実だが、後々にそれが文字通り、甘えの口実に使われ始めたあたりから、千歳は彼に対する認識を若干改めた。報告書類が遅いことに幾度となく振り回されてきた自覚がある。今日も今日とて、先輩刑事の尻(ケツ)を拭いていた。
溜め込まれた書類。昼行燈な先輩刑事。アイドルじみた風貌は刑事と言われても一瞬戸惑うが、それでもれっきとした刑事だ。「先輩、いい加減に」と、この日何度目かの苦言を呈しかけた千歳の言は、しかし刑事課区画へと入ってきた上役によって止められた。

「九字院、神代出てこい。登戸駅近くのマンションで死体が上がった」


駅周辺でも高級住宅として名高いマンションは、世帯向けの住居のはずだが、遺体は独身の大学病院の医師ならしい。遺体の身元は、調べる前に現場にいた第一発見者が九字院に伝えていた。一人は、渋面を顔に貼り付けていたが、もう一人は死体に慣れていないのがよく分かる反応を示していた。
慣れた手つきで検死する九字院に倣い、千歳も遺体を調べる。一糸纏わぬ姿に僅かに眉を潜めたのは、何も遺体の姿を見たからではない。

「遺体は、この部屋の住人、因幡信。聖ラファエラ医科大学病院の麻酔科の准教授です」
「だからこその、これ、ね」

因幡の隣にある装置に目を向けて九字院が、ふむ、と唸った。それは、総合病院には必ずある代物。

「これ、全身麻酔に使うやつですよね」
「そうなの? 詳しいねえ」
「医療系のドラマとかでよく出てくるやつですよ」

見覚えのある装置は全身麻酔用の機械だ。手術をする際に使うそれは、確か、喉に直接管を挿入するはずだが、被害者はマスクを使用している。

「神代ちゃん、見解はどう?」

思惟に浸っていた千歳に九字院が相変わらずの軽い調子で尋ねる。千歳は、「初見なのでなんとも言えないですけど」と前置いた上で答えた。

「自殺…と思えます。断定はできませんが」
「へえ、どうして?」

僅かに弾んだ声音の九字院に千歳は淡々と続ける。

「防御痕が今見る限りは見られないのと、この装置は麻酔科の医師など専門職の人間でないと扱えないものです。まぁ、同じ麻酔科の医師や技師も扱えるので、他殺の線も否定はできませんが……」

千歳はそこまで言うと口を噤んだ。続きを紡ぐことを躊躇う彼女に、九字院が視線で促せば、ひとつ間を置いて彼女は答えた。

「……あまりにも、被害者の顔は幸せです。とても、殺される人間の顔には見えない」

被害者、因幡信の表情に九字院も同意する。
因幡の顔は恍惚としていた。至福の時を楽しんでいるかのようだった。まるで、自分が死ぬことを心の底から悦んでいるような顔だった。とても殺される人間の顔ではない。
かといって、自殺する人間のそれかと言われれば首を捻る。過労やストレス、世の不条理に絶望して大方の人間は自殺する。因幡の表情はとてもそうとはとれない。

「ま、分からんことは多いけど、まずはお話を聞きましょうかねえ」

ちらりと九字院が視線を遣った先、強面の男は難しげな顔で因幡を見つめている。妙なところに、妙な人間が居合わせたものだと、千歳はやけに冷静な男に視線を置きながら思った。
東京地検特捜部の検事と事務官。現場の第一発見者は、ただの自殺現場に居合わせるには不自然な組み合わせだった。


多摩署の刑事課の隅のソファで、千歳と九字院は第一発見者の二人の聴取を行った。検事の名は正崎善、事務官の名は文雄厚彦。置かれた名刺を眺めた千歳は、正に検事になるべくしてなったような男に視線を転じた。
検察と警察は仲が良いかと言われればそうではないというのが現実だ。同じ、捜査、を生業とする二つの組織。肝となる情報をどちらが握っているかなどで縄張り争いが起こることは往々にある。
九字院はどう動くのか。視線を遣った先の九字院は、千歳にニヤリと悪い顔を浮かべると、正崎に向き直り、質問を投げかけた。

《特捜部が動くということは、政界が絡む何か大きな事件なのか》

初手の質問としては妥当なものに、千歳は心中で頷く。省庁の対立など今は不要だ。
九字院の問いに、彼の意図を察したのか、正崎は、製薬会社と大学の研究不正事件を追っている最中に、事件に遭遇したことを大人しく述べた。それは、確かに、大々的には取り上げられていなかったが、新聞の片隅に載せられていた事件だった。ということは、担当検事は目の前の男なのか。名前の通り実直な人間なのだろう。
彼に千歳が抱いた性状と同じものを感じたのか、九字院は検死結果などの情報を伝えることを了承した。

「じゃ、神代ちゃん」

ん、と出された手に資料を置く。千歳が置いたのは、纏められた検死結果が記載されたペーパーだった。

・被害者、因幡信は麻酔自殺をした可能性が高い。
・約三十時間かけて麻酔を吸入し、自ら緩慢な死を実現させた。
・抵抗痕はなく、因幡本人が機械を操作したと考えるのが妥当。

判定は九割型自殺。諸所の理由を述べつつ、大まかな検死結果を述べた九字院が、最後に少しばかり言いにくそうに千歳を見遣った。視線の意図に気付いた千歳は彼に代わって、説明を続ける。

「もう一つ、気になることが」

一つの写真を取り出した千歳は、二人にそれを見せた。因幡が座っていたリクライニングチェアとフローリングが写されていて、よく見るとカメラのフラッシュが何かを反射している。

「因幡が昨日から座っていた裏付けとしてですが、尿が垂れ流しの状態でした。加えて、その周辺に飛び散っていたのが、因幡の体液…精液です」

淡々と説明する千歳に対して、文雄の表情があからさまに曇った。正崎も眉根を寄せたが、千歳はあくまで事務的に進めた。

「麻酔を注入し始めてからなのか、する前なのかは分かりませんが、射精をした形跡がありました。自殺する前の人間としてはおかしな行為ではあります」
「……ウチから言えるのはこんなとこです。後は解剖待ち、と。じゃあ交代ですよ、正崎さん」

飄然とした九字院は選手交代だと正崎に情報提供を呼びかける。正崎も、大人しく掴んでいる情報を出した。
因幡は最近疲れていた、個人的な仕事を抱えていた、出入りする人間がいた、等、事務官と調べ上げた情報が連ねられていく。

「ちなみにですが、聖ラファエル医科大学に目を付けられた理由は? あそこはあの事件と関係ありませんでしたよね?」

情報を聞き出している最中、ふと疑問に思ったことを口にした千歳に、正崎は「実は、」と一つの紙を取り出した。

「物読みの最中にこれを見つけたんです。聖ラファエル医科大学から日本スピリに提出された報告書のようですが」

出された紙に九字院と千歳が眉を潜めた。「これは」「いやはや」と、思わず唸る。
《F》の文字で埋め尽くされた紙。こびりついているのは血痕と皮膚の一部か。異様な書類は確かに、あの自殺部屋の異常さとどこかリンクする。正崎は加えて、因幡の元を頻繁に出入りしていた人間の名前と連絡先を九字院に渡した。

「出すことのできる情報は、これが全てです」
「あとは、お互いの捜査の進捗による、てとこですかな、なるほど…」

九字院は、ふむ、と唸ると、異様な紙をつまみ、飄然と笑んだ。

「この事件(ヤマ)、結構闇が深そうだ」



「──あの、すみません」

建物の玄関前で頭を下げられた千歳はきょとんと首を傾げた。頭を下げた相手、事務官の文雄に「何がですか」と尋ねる。
手洗いに行ってくると離れた正崎に、案内するとついて行った九字院。待たされることになった文雄に一人付いた千歳は、突然の謝罪に困惑していた。
文雄は、逡巡した後に、ぼそりと呟いた。

「その、女性に言わせる内容ではなかったと思って」
「……あぁ、精液の下りですか」

合点がいき、さらりと口にした千歳に文雄は目を見開いた。女性に伝えさせるべき内容ではないし、配慮があっても良かったのではと、ある種、純朴な葛藤に淡々と返す。

「大丈夫です。慣れてますから」
「慣れてるって…」
「前の課ではよく見た光景ですし、仕事なのでお気になさらず」

むしろ気にしていたらやってられない。自分がすべきなのは状況に慄くことではなくて分析だ。
平然としている千歳に文雄は眉尻を下げて頭を掻いた。

「神代さん、凄いですね。俺とそんな歳変わらないのに、冷静で」
「私は刑事ですから。むしろ、文雄さんみたいな普通の人が、あんな場に慣れちゃったら怖いですよ」

僅かに崩した相好に文雄も釣られて笑顔を溢した。

「でも、俺も検察の一人として、毅然とした態度をとることができるようになりたいです」

その声音は誰かを仰望してきるようで、「正崎検事みたいな?」と、自然と脳裏に浮かんだ人物の名を紡ぐ。文雄は、恥ずかしそうにへらりと笑った。

「正崎さん、滅茶苦茶仕事できて、ストイックでかっこいいんですよ。俺もそうなれたらいいんですけどね」
「……きっと、なれますよ」
「ほんとですか〜」
「嘘を吐いたって意味がありませんから」

またまた、と茶化す彼に千歳は念を押す。


「目標がある人は、伸びるんです」


誰かの背を追いかけて、前を向いて歩き続ける人間は強い。戯けながらも、文雄からはその気概は十分感じられる。
何より、人の心の機微に敏感で、そして心優しい彼なら、良き検事になるだろう。
「だから、頑張って下さい」と微笑んだ千歳を、文雄はじっと見つめると、唐突にスマートフォンを取り出した。なんだ、と首を捻る千歳に文雄は頬をわずかに赤らめて、おずおずと問い掛けた。

「……アドレス交換しません?」

数秒前の言葉を撤回したくなった。





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