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日も沈み、夜の帳が降りる。内勤の署員の大半は帰宅して、刑事課に残る人数も疎らになってきていた。
刑事課のデスクで、千歳は、自殺した因幡信の調査資料を見つめ、ひとつため息を吐いた。

「いつまで残ってんの」

コトリ、と置かれたのは缶コーヒーではなく野菜ジュース。声の主を見遣った千歳は、うん、と唸ると目頭を抑えた。

「気になっちゃうんです。因幡の自殺」
「気になる?」
「なんというか、妙なことしかないから」

因幡の恍惚とした表情を脳裏が浮かぶ。昇天、その言葉がぴったり似合う、顔。因幡の顔に、千歳は語りかけたくなる。何故、どうして。

「……先輩」
「うん?」
「どういう時に、自慰行為をしたくなりますか?」

ぼつりと問いかけた声はいたく淡白だ。色の乗ってない、平坦な声。しかし、聞かれた九字院はたまったものではない。数秒間を置いてから、盛大なため息を吐いた。

「神代ちゃん、それセクハラだからね?」
「捜査の一環です。で、どうですか?」

淡々と続ける千歳にため息を吐きつつ九字院も律儀に答える。

「お願いだから、他の奴にそんなこと聞かないでね…まぁ、そりゃ、アレですよ。そういうことをしたい気分の時」
「性的欲求が高まる時…例えば、アダルトビデオを観ながらとか、そういう時ですか」
「明け透けに言わないで頼むから。まぁ、男なんて大概そんなものでしょ。好きな相手のこととか、AV観ながらとか、とにかく欲の解消のためにやるもんですよ」

肩を竦める九字院に「なら」と千歳は怪訝な顔を向けた。

「因幡は死を感じながら性的欲求を解消していたことになります」

しん、と静寂が二人の間に下りる。互いに、言葉の意味を噛み砕こうとしていた。
恍惚とした表情、自慰、死。結びつかない点を無理やり繋げて、しかしそれは、人の倫理からあまりにもかけ離れたものだ。人間の理解の範疇を超えたもの。

「……異常者…かねえ」

神妙な声になった九字院に、千歳は首を振る。

「学生への聞き込みでは、とても真面目な先生、ということでしたけどね」
「死を感じながら……もしくは、死、そのものを享受していた…これがまともな人間の思考だとは、あたしは思えませんがね」

辟易とした相貌の九字院に、しかし千歳は思案顔で続ける。

「九字院さん、死を望むってどんな状況を思い浮かべますか?」
「まだやるの? これ」

じとりと視線を送った九字院に、真っ直ぐな眼が返される。九字院は肩を竦めた。

「安楽死、かねえ。一般的に考えれば」
「生への絶望から死を渇望する。死が救いになるから安楽死を望む。確かにそうですね」
「んー、あとは……自爆テロ…は少し違うか」
「…そうですね、命を使ってはいますが、命を落とすことそのものが目的ではありません」
「ただ、因幡の場合、安楽死も違わない?」

九字院の問いに、千歳はうなずいた。

「彼は大病も患ってなければ、人間関係も仕事状況も問題は見られなかった。絶望から死を渇望する理由がない」
「テロみたいに、無差別殺人の結果として死んだわけでもないからこれも違う。なら、神代ちゃんは、何故因幡が死んだと思うんだい?」
「……初めは、宗教が原因だと思いました。因幡個人が何らかの宗教に入信して、そこで洗脳状態にされたと」

カルト教団の集団自殺は数の違いはあれど世界各地で発生している。洗脳状態の信者が不可知の世界を求めて自殺するというのは、珍しいことではなかった。

「だけど、因幡がこちらの監視下にあるカルト教団の信者という情報はないね」

ペラリと九字院が調査資料をつまみ、因幡の経歴が記載された箇所を見る。備考欄の情報には、特定の宗派・無、と書かれていた。

「はい。ただ、カルト教団でなくとも、多くの宗教は死後の世界について明記しています。輪廻転生、天国、地獄、煉獄。この世からの解放を求めて死を選ぶということはあり得ない話ではないです…けれど、」
「けれど?」

思案顔になった千歳は、うん、と唸った。

「宗教の本質は、良く生きることです。生きるための指針、心得を記したのが宗教ですから。どの宗教でも、死を選ぶことを勧める教えは存在しない。死を受け入れろと説いていても、死を望めとはどこにも書かれてはいないんです。だとしたら、」
「あの表情は、まぁ、不自然だよねえ」

現場写真を見つめながら、九字院が苦笑する。
死に対して、因幡はあまりにも、悦んでいた。恍惚とした表情で、自慰行為まで行って、悦んでいた。特定の宗教に入れ込んでいた事実が確認されていない因幡を、何がそこまで誘ったのか。

「死への魅力……みたいなものでしょうか」
「魅力って、馬鹿げてるでしょ」

一笑に付した九字院に、しかし千歳は気難しい顔を崩さない。
恍惚な笑みを浮かべて、死を望む状況は異常だ。死を望むのは、生きることに反する。死後の世界への救いでもなく、死そのものを、終わりを望むなんてことは、人間が出来ることだろうか。
そう、それはまるで──

「何かに憑かれてるみたい、て…思うんです」

狐か狸か幽霊か。この世ならざるものに誘われて、恍惚とした死を享受したとしたら……

「馬鹿言ってんじゃないの」
「いたッ」

思考の海に沈みかけていた意識が浮上する。パシリと紙束で叩かれた頭を撫でた千歳に九字院が呆れ声で告げた。

「オカルトじゃないんだから。ほら、もう遅いから帰んなさい」
「でも、まだ調べたいことが」
「命令。お前さんの悪い癖だよ、考えすぎて深みにはまるの。良くない」

しっしと手を振る九字院にむくれ面になるが、当の九字院は引く気がないのか、睨め付ける千歳の視線に嘆息すると額にデコピンをお見舞いした。「ッ、先輩!」と憤慨する千歳の頭部に掌を置く。

「また明日」

わしゃりわしゃり。犬猫を撫でるような手付きに毒気が抜かれていく。三年余り経った今も新人のような扱いに不満顔になりつつ、千歳は部署を後にした。





《お前、やり辛いよ》

記憶の中の誰かに吐き捨てられる。うんざりと言った様相の男は、かつて千歳の指導係だった刑事だ。
こめかみを抑える刑事に千歳が食い下がる。けど、と紡ごうとした言葉は須臾に刑事のひと睨みに切り伏せられた。歪んだ相貌からは彼の心情がひしひしと伝わってきた。

《俺、もう面倒見たくないんだわ》

ヒラヒラと振られた手にこみ上げる情動はなかった。
ただ、少々、虚しさを覚えただけだ。


「聞いてんの? 神代」
「……え?」
「え、じゃねえよ。同期会の話」
「……あぁ。ごめん、あんまり頭に入ってなかった」
「はぁ?」

怪訝に顔を歪めた年若い男に、千歳が苦笑する。「ごめんって」と謝罪する千歳に、男はわざとらしく溜息を吐いた。

「そっちの取りまとめお前なんだから、しっかりしろよ。それとも、そんな時間ないくらい忙しいってか?」
「忙しいわけではないんだけど、変な案件に当たったというか…」
「お前の場合、場をこねくり回す方じゃないの?」
「音無、割と私に失礼だよね」

音無と呼ばれた男は肩を竦めた。「本当のことだろ」と澄まし顔で答えた彼に千歳は片眉を上げたが、不毛な言い争いだと直ぐに矛を収めた。
音無は警視庁刑事課に所属する巡査長だ。千歳とは管轄区域が都と県とで違いはするが、若手刑事の研修で度々顔を合わせる仲だった。同期ということもあり、時折、県を跨いだ同期会という名の愚痴兼飲み大会を開催している。
新橋の高架下の沖縄料理を提供する居酒屋にて、千歳は七月に開く会について彼と話し合っていた。メールで事足りることなのに互いにこうして会うのは、気心の知れた相手との愚痴大会をささやかに開きたいがためだった。

「で?」
「ん?」
「何に悩んでるんだよ」

音無という男は存外実直だ。悩んでいる友人がいれば放っておかない。困っている人間がいたら見て見ぬ振りをしない。情に熱く、かと言って流されてすべきことを疎かにしない。刑事としては有能な人材と言えた。

「また、先輩が書類さっさと通してくれない問題か?」
「それはいつものこと」

間髪入れずに否定した自分に悲しくなる。「ならなんだよ」と眉を顰めた音無に、千歳は、うん、と唸った。

「自殺の案件なんだけどさ、ただの自殺じゃないというか」
「他殺の線もあるのか?」
「いや、それはほぼないと思う」
「なんだよそれ」

カランと、果実酒に入った氷が音を立てる。千歳は一度喉を潤した。

「……自殺した男の顔が、今にも昇天しそうな顔でさ。自殺しているのに、悦んでる顔だったの。自殺現場だよ?」
「……死ぬことを望む理由があったとか。難病患者か?」
「難病患者でもあんな顔しないよ。それに、被害者は健康体だし、特定の宗教に入信してもない。なのに、望んで自殺した可能性が高い」
「気味悪いな」
「だから変な案件だって言ったでしょ」

はぁ、とため息が漏れる。
因幡信の自殺は自殺で処理される方針だ。当然と言えば当然で、他殺の線は極めて薄い。状況証拠を見れば、自殺以外の道はない。
しかし、動機が全くと言って良いほど見つからなかった。健康体で、金に困ってなく、仕事も順調な男が、自ら望んで死を行使した異常性だけが千歳の中で引っかかっている。

「Why done it、ね」
「動機が不透明だとさ、気持ち悪いんだよ。なんか、誰かの手の内に全部あるみたいで」

何故、どうして。それを疎かにすると、真実は霞んでいく。それだけに頼れば冤罪が生まれ、しかし蔑ろにしても冤罪に結びつく可能性がある。Who、Why、How、は全てが揃わないといけないピースだ。
そして、それに結び付くピースのひとつが、おそらく、

(F)

無数のFが書かれた一枚の紙。埋め尽くされたFで真っ黒になった紙。毛髪と皮膚片が付着した、紙。

(因幡は正常な状態じゃなかった可能性は高い。けど、何に対してそうであったかは分からない)

ごく普通、それも社会的地位が保証された男を連れ去った死。その死を差し向けた【何か】が確実にいると千歳は直感していた。直感の理由は、あの紙だ。
無数のFが、鍵を握るのか。

「神代」
「………あ、ごめん」
「お前が考え込んで何も浮かばないなら、判断材料少なすぎるんだろ。考えても無駄」
「……まぁ、そうだね」

閃きというのは、材料が揃ってるからこそ降ってくる賜物で、何もないところに現出するほど甘いものではない。
「んじゃ、参加人数だけど」と、同期会の話に転じた音無に、千歳は頭の片隅に【F】を追いやる。考えても仕方のないことは一旦保留すればいい。
しかし、喉のつっかえのように、【F】は隅で千歳の思考の中に残り続けた。





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