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因幡信の自殺に関連して、千歳は正崎から渡された、因幡の元を頻繁に訪れていた人間の情報を洗った。
名前は、安納智数。ネット検索をかけてもヒットしないということは、表舞台に出る人間ではないということだ。
携帯番号があることが幸いした。因幡信の自殺に関する捜査の一環と言えば、否が応でも協力せざるを得ない。因幡の元へ頻繁に訪れている人間なら尚更だ。
固定電話に手を伸ばしかけた千歳は、ふと、自身に落ちた影に手を止める。

「まぁた、九字院に付き合わされてんのか」

ぽん、とデスクに置かれた飴。見上げれば、老年の刑事が呆れ顔で千歳を見下ろしていた。

「付き合っているつもりはないんですけど…」
「アイツは好き勝手に動くから、ついていくの大変だろ」
「どちらかと言うと、好き勝手動くのに書類回して貰えないのが一番やめて欲しいですね」
「違いねぇ」

ケタケタと笑う刑事に、千歳はむっとむくれ面になった。

「並河さんの部下じゃないですか。手綱は握って下さいよ」

じとりと鈍い視線を送った千歳に、並河と呼ばれた刑事は肩を竦めて苦笑した。
並河は、九字院の元指導係の刑事だ。齢五十の老年刑事で階級は警部。あと数年すれば、県警本部の刑事部長になるだろうと目されているほど、優秀な刑事だった。九字院に刑事のイロハを教え込んだのは並河で、故に、千歳は並河を尊敬しつつも時折、書類に関する苦言を並河にも漏らしている。この手の業務が杜撰なのは並河譲りではないかと。
ため息を漏らす千歳に並河はくっくと押し殺しきれない笑いを溢した。

「アイツはお前のこと大好きだからな、仕方ねぇよ」
「大好きって……使いやすいの間違いでしょう」
「そういうのを引っくるめて、大好きっつーんだよ」
「訳がわかりません」

ひとつ大きくため息を吐く。どこか昼行灯なところといい、九字院と並河は妙なところで似ている。いや、似通ったのかもしれない。

「なに話してるんですか」

缶コーヒー片手に部署に戻ってきた九字院が並河の隣に立つ。交互に二人を見遣った視線に、千歳は不満げな瞳を返した。

「お前が神代のことを囲いすぎって話だよ」
「ちょ、並河さん!」
「囲いすぎ…ですかねえ」
「偶には他の若い奴の相手もしてやれ。お優しい九字院先輩に指導してもらうのを楽しみにしている奴もいるだろ」

九字院偲は警察官らしからぬ風貌をしている。すらりと高い背丈、引き締まった体躯、細い腰。どこぞやのモデル事務所に所属していると言われた方がしっくりくる相貌だ。加えて、喋りも上手い。何故警察官になったのか不思議なほどだった。
故に、特に若手の刑事から九字院は絶大な支持を集めていた。当然と言えば当然だ。若く、ルックスも良く、仕事もできて高いコミュニケーションスキルを持つなど、崇敬されておかしくない。男女問わずの人望だった。
「んー、そうですねえ」と九字院は考える素振りを見せたあと、ちらりと千歳に視線を落とした。交錯したそれに、千歳が首を傾げる。

「……出来の悪い子ほど構いたくなるっていうじゃありませんか」
「……それ、どういう意味ですかねえ」
「ほら、こういうところが楽しいんですよ」
「ッ、せーんーぱーいー!」

ダンッ、と机を叩いて勢いよく立ち上がった千歳を尻目に九字院はヒラヒラと手を振りながら部署を後にする。怒りの矛先を向ける相手がいなくなったことで、勃然とした面持ちのまま千歳は椅子に座り直した。

「ほんっとうに、アイツはお前が大好きだな」
「嬉しくありません」

鼻を鳴らして固定電話の受話器を手に持つと、千歳は安納智数の携帯番号が書かれた紙に視線を移した。雑念を振り払うように、強めにボタンを押す。「根を詰めすぎるなよ」とその場を後にした並河に頭を下げつつ、意識は電話に集中した。
数コール後、受話越しに返ってきたのは、しゃがれた老人の声だった。

「もしもし、安納智数さんの携帯でお間違いないですか?」



九字院が片手に飴の袋を抱えて部署に戻ったのは夕方のことだった。因幡信の解剖結果の報告を受け、資料を読み直した後に休憩を入れて戻った先、目に入ったのは、デスクでパソコン画面を気難しい顔で見つめる千歳だった。

「なに難しい顔してんの」
「先輩…」

ひょこりと画面を除けば、出てきたのは、

「……野丸龍一郎?」

豪胆な印象を受ける大物政治家、野丸龍一郎の公式ホームページ。近いうちに執り行われる新域域長選挙に立候補している、自明党の幹事長だ。最有力候補と目される、政界のドン。
何故、そんな大物政治家を検索しているのか。首を傾げた九字院に千歳が紙を差し出す。

「安納智数が何者か分かりました。けど、」
「けど?」
「これは、警察(うち)の領分ではないかもしれません」

言いながら千歳の視線がパソコンへと向く。九字院の視線も釣られて液晶画面へ転じた。

「……安納智数は、野丸龍一郎候補の……私設秘書です」

九字院の目が僅かに見開かれ、「へえ?」と、どこか不適に口元が歪められる。細められた瞳が威風堂々とした面構えの男を鋭く見据えた。
政界の大物の私設秘書が、自殺した麻酔科の医師と通じていた。字面だけ見ると政界の隠微な何かを勘繰りたくなるのは何も自分達だけではないだろう。

「……まぁ、ただ、ねえ」
「はい。特捜案件の可能性はありますが、断定はできません」
「例え、現実に何かあってもこの程度の情報じゃ、黒も白にあっという間に変えられちまう」
「大人しく身元を明かしたところをみると、そこを探られて不利益になることはないとの判断だと。なので、可能性の話です」

因幡信は単なる自殺か。大きな陰謀の影に隠れた他殺か。
はたまた、自殺【させられたか】。

「まあ、不利益ではないでしょうな」 

苦笑した九字院に今度は千歳は首を傾げた。先を促す視線に九字院がペラリと紙をみせる。

「解剖結果は初見の通り。麻酔による緩慢な自殺、で処理されそうでね。注射痕もなければ争った形跡もない。あと、あの頭髪と皮膚片はやはり因幡のものだった」
「他殺の線はやはり薄いと」
「まあ、他殺でなくてもそれこそ、自殺させる、とか、自責の念に駆られて自殺する、とかもあるから関係ないとも断言できないけど」

政治家が絡むと巨大な陰謀論を推測しがちになるが、実際のところそのような世論が形成されるほど政治家というのは能足りんなわけではない。特に、野丸龍一郎ほどの政治家なら言わずもがなだ。
イメージが第一の政治家は、例え内実がどのようであっても、表面上は清廉潔白、クリーンを保つ。むしろ、【それすら】できない輩は政治家になるべきではない。清濁併せ持つことのできない人間など、政治という感情を削ぎ落とす世界には必要とされない。
巨悪を隠し通せない、顔に出る人間は、政治家として三流だ。野丸ほどの男が、すぐに叩けば出てくる埃の原因になるとは九字院には考えられなかった。

「特捜案件の可能性は高いけど、立件となると難しい感じですね」
「あの検事さんなら、何がなんでも真相を突き止める感じはするけどねえ」
「なんでそう思うんですか?」

千歳の問いかけに、九字院はニヤリと口角を上げた。

「あのタイプはね、悪いことを許さないんだよ」

「少し、神代ちゃんに似てるかも」とくっくと含意のある視線を寄越した九字院に、千歳はじとりと鈍い視線を送りため息を吐いた。

「それなら、まったく似てませんよ」
「そう?」
「そうです、だって」

九字院を正視した彼女は、うっすらと眼を細めた。

「正しいことが、善いことだけとは思っていませんから」

仄暗い瞳に九字院は目を瞬かせた。
正しく、善い。それを否定する彼女の瞳はひどく怜悧だった。息が詰まるような圧迫感を伴った視線に、九字院は思わず息を呑む。
正しいことと、善いことはイコールではない。正しさは必ずしも善い結果をもたらさない。

「悪事を働いた悪い人をスケープゴートにして正しさを盾に踏み潰すのだって、善いことではないでしょう?」
「まぁ、それはあの検事さんだって否定するだろうけど」
「でも、法律上で悪いのは、悪いことをした人間なんですよね。じゃあ、その他大勢の人達は善いのか。道義的に正しくなくても、法律というストッパーがないと、人はいつだってタコ殴りにします」

「悪いことには罰を。正義を行使する職業にぴったりの人と私なんて、似てるわけありませんよ」と、千歳は肩を竦めた。
中世ヨーロッパでは、悪人の処刑は民衆の最大の娯楽だった。貴族相手に導入されたギロチン処刑は民衆の最大の娯楽となった。
自分より立場が上の相手への不満の捌け口となったそれは、現在も形を変えて【存在している。】
どこか、憂いた目を宙に向ける彼女は、視線を下げ、少しばかり口元を緩めた。

「悪いことって本質的には【分かっているはずなのに】」

何かを追想するような声音だった。侘しげな相貌に九字院は言葉を紡ぐことができなかった。
一度得た、糾弾する快感、を手放すには労力がいる。麻薬のように、一度使えば歯止めが効かない。もっと、もっと、と人の不幸を探し始める。
大丈夫、これは、【良いものだ】と。

「ねぇ、先輩」

一等、低められた声音が九字院の耳朶を打った。

「これは善いことだと自分を、ある種洗脳して、悪いことを正当化するのには理由があるんです」

酷薄の笑みが、彼に向けられたその時、
九字院は、生唾を飲み込んだ。

「魅力的なんですよ、悪いことって」

仄暗い瞳に、感情の色は見えなかった。

「だから、踏み外すとね、駄目なんです。それが、許される状況にさせられると、人間簡単に、酔いしれちゃうんですよ」
「……それは、【経験談?】」

努めて軽い口調で問いかけた九字院に、千歳はきょとんと目を丸くすると、視線を僅かに逸らした後、苦笑した。

「さぁ、どうでしょう」





蠱惑的な笑みを浮かべた女だった。華の十代を謳歌している、その印象を他人に深く与える風貌の女だった。
金属のテーブル越しに対峙した女は、最初の印象と随分と違っていた。ひどく怯えた、狼狽したあどけない少女のような様相から一転した女は、口元に弧を描き、目元はねっとりと緩められ、愉悦を隠さない視線が向けられた。
分からなかった。
どうして、女がそれほど愉しいのか、分からなかった。

『ねぇ、刑事さん。教えてあげます』

優艶に笑んだ女は、笑いながら、理解できないことを紡いだ。


『悪いことって、とても、楽しいの』







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