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数日後。正崎検事と文雄事務官との協議の結果、野丸の周辺は正崎の友人、安納の周りは正崎、死んだ因幡については警察側である九字院と千歳で受け持つことが決定し、千歳は、九字院の指示で聖ラファエラ医科大学へと向かった。
大学に着いた千歳は、受付を通して真っ直ぐ、因幡信の研究室の学生の元へ足を運んだ。刑事が来た、ということで当初は当惑気味だった学生達も、歳の近い且つ女性刑事の千歳に早い段階で気が緩んだのか、ものの十五分程度でリラックスして会話するようになっていた。

「因幡先生ここのところ、けっこう上の空なこと多かったんですよ。ぼーっと何かを見つめたり、かと思えば頭を抱えたり。真面目な先生だから何か悩んでいたのかもだけど」
「仕事に行き詰まっていたとか、かな? 実験が上手くいってなかったとか」
「あーあり得るかもしれませんね。先生、毎日夜遅くまでパソコンに向かってデータ処理してましたから」
「データ処理?」

学生の一人が発した情報に千歳が反応する。学生は頷き、「何かの試験データだと思います」と答えた。

「でも、先生絶対に手伝わせてくれなかったんです」
「それどころか、近づいただけで怒られたから、やっぱり行き詰まって気が立ってたのかもしれないですね」
「あんなに周り見えてない先生、見たことなかったよねー」

学生から話を聞いた千歳は謝意を伝えると事務局へと向かった。
温厚な性格、声を荒げたところなど見たことがない因幡の普通じゃない姿。見られることを拒んだデータ。
いったい、何のデータを、扱っていたのか。


「──因幡先生のパソコンですか…ノートパソコンの方の…?」

怪訝な表情を隠さずに、男は千歳を見遣った。
千歳が向かったのは、因幡の所属長だった麻酔科教室の羽飼教授の元だった。同じ麻酔科だった因幡の私物は、試験データなども含まれるため一旦彼が預かっているということだ。
視線に含まれる警戒心に、千歳は貼り付けた笑みを崩さずに答えた。

「事件性は低いんですけど、念のため調べなきゃ行けないのが警察(ウチ)の仕事なんです」

へらりと笑って「すみません」と、眉尻を下げる。唐突に現れた刑事に、羽飼は不安の二文字を顔に貼り付けていた。聞けば、以前、検事もやって来たとのことで、あの強面がやって来た後に刑事が来れば、そりゃあ、あからさまに逃げたいと顔に出る程度にはなると、千歳はちょっぴし同情した。
故に、千歳は努めて笑顔を取り繕った。事件性は低いことを強調し、大学側に現段階で何かあるわけではないことも念押しし、さらに相手をその気にさせることも忘れない。「大変ですよね」「すみません」と、終始、面倒ごとに巻き込まれて散々な目に遭っている彼に、全身全霊を込めて、労苦を労る言葉を連ねた。
邪気のない笑みと、和やかな様相、柔らかな言葉に、羽飼も気を良くしたのか、気難しげな顔を徐々に緩めていった。「ちょっと、待ってもらって良いですか?」と、固定電話を取りどこかへ電話を掛ける。「えぇ、はい。すみません、良いですか?……ありがとうございます」と受話器を置くと、「分かりました」と彼は頷いた。

「遺族の方にも了承を頂いたので、どうぞ。持っていってもらって構いません」

──よし。

内心ガッツポーズを決めながら、千歳は貼り付けた笑みを更に深めた。「助かります」朗らかな笑顔に部長は満足げに「いえいえ、大したことないですよ」と、もはや当初の警戒心は皆無に等しかった。
パソコンを袋にしまい、駐車場へと向かう。因幡が学生にも見せなかったパソコンだ。一体何が入っているのか。
図らずも足早になる千歳は、しかし玄関付近で一人の学生に呼び止められた。

「あの、……警察の方、ですよね?」

黒髪を二つに纏め、眼鏡をかけた女学生がおずおずと千歳に問いかけたことにより、千歳は必然的に彼女の前で立ち止まった。
どこか気弱そうな学生だ。千歳の視線に、彼女は呼び止めたにもかかわらずぴくりと肩を揺らした。「そうですが、何か?」と、問い返した千歳に、学生は一度瞼を伏せる。憂いた相貌で口をまごつかせる彼女に、千歳はひとつ瞬くと、しっかりと視線を合わせた。

「何か、聞きたいことがありますか?」

緩めた目元、柔らかな声音。人に安心感を与える声のトーン。相手が喋りやすい環境を作れば、自然と言葉は交わせる。学生は一瞬逡巡したが、直ぐにぽつりぽつりと話し始めた。

「因幡先生のことなんです…」

学生は、因幡の研究室で学んでいたという。故に、因幡がどのような人物かもよく知っていた。
しかし学生は、その因幡の様子がここ最近おかしかったと、因幡の自殺前の様子について語り始めた。

「因幡先生、口数少ない先生でしたけど、すごく面倒見が良い先生だったんです。でも、ここ最近になって急に人が変わったみたいに、ずっと仕事詰めになって」
「心当たりはある? 変わったきっかけとか」
「……あの、お爺さんと女の人が来始めた時から…だと思います。それから、だんだん、あんな感じになって」

お爺さんと、女。それはまさに、今自分達が知りたいと思っている人間達のことだ。

「因幡先生のところに時々来てた人達のことだね」

安納智数と、謎の女。脳裏に浮かべた二人の画像に、千歳は思案した。
彼らと接触し始めてから、因幡は次第に自分の仕事にのめり込むようになった。真面目な医師が、面倒見の良い先生が、自らの研究によって人格すら変わってしまった。人間何か大きな転機があればそれはなきにしもあらずだ。大きな転機の後、人の性格が若干変化することはなくはない。
ともすれば、安納智数との接触は、その大きなことだったのか。議員秘書との接触、何かを頼まれていたのなら、確かにそれは──

「……こわ、かったんです」

震えた声が耳朶を打ち、思惟に浸っていた思考が浮上する。「え?」と目を瞬かせた千歳に、学生は縋るような瞳を向けた。

「先生のこと、最近怖くて…いつも、何かにずっと没頭しててッ…その様子が、怖くて、変で、私…ッ」

辿々しくも、必死に因幡の異常性を訴える彼女に、千歳は息を呑む。千歳の両腕をしっかりと掴んで俯いた学生に「落ち着いて…?」と努めて平静な声を保ったが、学生の震えは止まらなかった。

「怖かったんです。だって、あんな、あんな……」

──何かに憑かれてるみたいな。

耳朶を打った学生の言葉に、千歳の動きが止まる。硬化した彼女に気づくことない学生は、喉奥から声を絞り出した。

「あんなの、普通じゃないッ…」

因幡信は、何に取り憑かれていたのか。そんなオカルトじみた推察とも呼べない思考を一蹴されたのは数日前だ。しかし、それが現実であるかもしれないと、らしからぬ思考が頭をよぎる。
ただの学生の軽口なら一蹴していた話だ。しかし、全身で因幡の異常性を伝える彼女に、事件の異質さが濃縮されている気がした。これは、単なる自殺なのか。仮に政界が絡んだ事件だとしたら、いったい何がそこまで因幡を、異常にさせたのか。

「刑事さん、お願いです。先生に何があったのか、絶対に突き止めて下さい」

泣きそうな瞳に千歳がしっかり頷く。震えながら必死に伝えた彼女に、千歳は真っ直ぐ視線を向けた。

「大丈夫です。それが、私の仕事だから」

立ち止まって考えていても意味はない。自分に今できるのは、手に入れた証拠品から、原因を突き止めることだけだった。


パソコンを持ち帰った千歳が、並河のデスクに詰め寄ったのは署に戻って小一時間経った時のことだった。

「なんで調べられないんですかッ」

憤然とした面持ちの彼女に、並河は長く深いため息を吐く。「仕方ねぇだろう」と頭を掻くと、忙しなくフロアを駆け回る捜査員達を見渡した。

「自殺の線でほぼ確定の事件な上に捜査本部も小規模だ。んなところの証拠品の解析を優先的にやる必要がねえ」
「ッ、でも、……関わっているのが」
「野丸龍一郎の私設秘書か?」

先んじて言われた名前に千歳がぐっと言葉を詰まらせる。並河は再度ため息を吐くと、目を眇めた。

「関わっている証拠がねぇんなら、現時点での優先度は低くなる。それに、奴さんは大人しく私設秘書だと明かしたんなら、やましいことが何一つないか。やましくても騙くらかせる何かがあるってこった。となれば、俺達の領分だけじゃなくなってくる」

念を押した言葉を理解できないわけではなかった。政治が絡む事件となれば、特捜も動く案件だ。寧ろ、当初の読み通り、特捜の方が適任かもしれない。
言い含める並河の視線に、千歳は視線を一度落とした。瞑目し、瞼の裏に浮かんだ学生の相貌に、再度口を開く。

「確かに、正しいのはそうだと思います。この事件は、優先順位を高くするものじゃない」

自身に言い聞かせるように紡いだ後、瞼を上げ、どっしりと構えた並河を見据えた。

「でも、それが善いと思えません」

きゅっと結んだ唇は、側からみれば駄々っ子のようなそれで。意見を通したいが、理屈は分かる彼女にとって、今できる精一杯の抵抗だった。
正しさと善はイコールではない。正しいから、善いとは限らない。燻る胸の内を吐露する部下に、並河は視線を外して明後日の方向を向いた。

「俺達の領分じゃない可能性が高いと、俺は言ったな?」
「……はい」
「……おい! 九字院」 

並河は、唐突にデスクで資料を見ていた九字院を呼んだ。「はいはい」と、ひょうきんな声を返してその場に来た九字院に、やはり視線を合わさずに呟く。

「この件は、俺達の領分じゃない可能性が高い。残念ながら、現時点で証拠品のパソコンはさっさと解析に回すことは不可能だ……俺達は、な?」

外されていた視線が、一瞬合わさる。その一瞬に、九字院は口角を上げた。「そうですねえ」と飄然とした声音を返した彼に千歳が眉根を寄せる。千歳の不審な視線を二人は受け流すと、並河は九字院にパソコンを渡し、九字院は千歳に目配せをする。九字院の視線に連れられて、千歳は部署を後にする彼を追った。

「──どういうことですか」
「餅屋は餅屋に、てところかな?」

休憩室の一角でココアを飲む九字院の声はどこか弾んでいた。とても、手に入れた証拠品がさっさと解析に回せない捜査員とは思えない態度に、千歳は言葉の意味を考える。餅は餅屋、俺達は不可能。跳ねっ返りな捜査員として有名並河の意味深な笑み。

──ふと、思い当たった可能性に千歳は嘆息した。

「……餅屋はこんな時間に開いてるんですか?」

時刻は午後十一時を回っている。一般の会社員なら帰宅する時間だ。
千歳の問いに、九字院は飄々と答えた。

「ワーカーホリック気味の餅屋だから、心配ないでしょ」

失礼だと思いつつ、どこか納得する自分がいた。


深夜のファミレスに大の男二人と年若い女が顔を突き合わせている姿は側から見たらシュールかもしれない。さらに言えば、アイスティーにガムシロップを三つ、ミルクを六つ入れる男は更に絵面の奇妙さを増長させていた。「飲めるのか、それは」と怪訝な顔をした餅屋こと正崎に、九字院は笑顔で「おすすめですよ。頭が回っていいんです」と答える。ますます眉間に皺を寄せた正崎と同じ反応を、彼に出会った頃の自分もしていたなと千歳は苦笑した。
糖度が二百パーセントはあるだろうアイスティーを口に含み、九字院は話を切り出した。因幡信の教室の生徒に聞き込みをしたこと、因幡が学生には秘密の仕事を夜遅くまでしていたこと、そして──

「これが、神代ちゃんが取ってきた、因幡のパソコンです」

薄いノートパソコンをテーブルに置けば、正崎は目を瞠った。

「差し押さえたのか?」
「いえ。事情を話して、快くお渡ししてもらいました」
「そ、そうか…」

千歳が微笑を湛えれば、若干引きつった顔面で正崎がえもいわれぬ受け答えをする。顔に出ている、どう話をつけたんだ、という疑問を無視して、千歳はパソコンを指先でつついた。

「調べようとしましたが、さすがにパスワードが設定されています。警察(ウチ)の専門の部署で調べたいんですが、あいにく、捜査規模の小さい事件だと、後回しにされて捜査が進まないんです」
「……要するに、検察(こちら)でどうにかできないかと?」
「話が早くてありがたいですな」

隣の九字院が援護射撃をすれば、正崎はふと思案顔になった後、頷いた。聞けば、別件で検察側の専門の部署も手一杯のはずだが、なんとかする、とのことで、この餅屋はやはりブラックかもしれない、と千歳は彼と仕事を共にする文雄に若干同情した。
運ばれてくる料理をつまむ二人を尻目に、さすがにこの時間から物を食べる元気はない千歳は正崎の話をメモしていく。

「票田工作に女ですか」
「秘書の安納は、野丸龍一郎の裏の仕事を請け負う飛び道具ってとこですかね」

一通りの話を聞いたところで、二人は情報を整理した。
安納智数が票田工作のために若い女を使っていた事実。正崎と文雄が取ってきた新しい情報だ。その情報が意味しているのは、野丸龍一郎の裏の仕事の引受人が彼になっている可能性が極めて濃厚、ということで、正崎としては今すぐ本丸に乗りこみたい心持ちということだった。
正崎の内に閉じ込められた憤懣に、しかし千歳は分析する。

「けど、まだ地固めが終わってませんよね」
「あぁ。この程度なら野丸は逃げ果せる。もう少し張り付くつもりだ」
「まぁ、それが最善でしょうな」

票田工作中の議員の私設秘書が訪れていた医師が自殺した。謎の仕事を引き受け、様子がおかしくなった後の話だった。これだけ聞けばやはり、何かしらの裏があることは想像に難くなく、九字院はパソコンを見つめて口角を上げた。

「それに、いったい何が入っているのやら」

戯けた調子だが、視線はいやに鋭い。千歳と正崎の視線も自然とパソコンに移った。

何が、どう繋がっているのか。真実はいったい、何なのか。
結ばれつつある点と点が生み出すものを、まだ誰も知らない。





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