ふわふわする。頭の中に靄がかかって、曖昧模糊な思考が脳内を漂っている。くらくらと視界が船をこいで思わず身体が傾く。熱を測らなくても分かる。
これは、風邪だ。

(さいあく)

朦朧とする意識から察するにこれは熱がひどいタイプの風邪だ。腹痛や下痢などの症状はないからウイルス性の腸炎などではないことがせめてもの救いか。単なる風邪じゃなかったら医者にかからないといけなくて、でも健康保険証どころか住民票や戸籍までない私は医者にかかれない。いや、正確にはかかることはできる、全額自己負担で。無理、お金、大事。

頼れる誰か、をこの世界に来てからの交友関係から弾き出そうと回らない思考を無理にぐるりと一回転させて見たけれど結局首を振った。仲良くしてもらっている人達は何人かいても、そこに手を伸ばそうとするのは、私が引いている一線が許さない。
回らない思考を閉じて、はあ、とため息をついた。

(別に、あっちでも一人だったし)

頼れる誰か、なんてそもそもいなかった。家族と呼ばれるそれすら、そんな対象ではなかった。

身内との仲は良くも悪くもなかった。強いて言うなら、あれは身内というより同居人だ。家族という最小単位の社会、集合体を回すための駒として父母と兄弟がいたに過ぎない。冷めた家庭といえばそれまでだけれど、私にとっては居心地が良かった。
必要以上の干渉はせず、必要な出資は惜しまない。何一つ不自由することなく、私は社会人となりすぐに家を出た。帰ることのできるときは帰っている。盆と正月は親戚づきあいもあるため帰って来るよう要請があるからだ。別段、離れた土地に住んでいるわけじゃないからいつでも帰ることはできるけれど、足は遠のいた。
大切、ではなかったからだと思う。いや、大切ではあるのかもしれない。けれど、特段執着はしていない。家族という集合体の一員として過ごして、それだけだ。育ててくれた恩はあるから、定期的に帰ってはいるけれど大した会話も交わさない。ご飯だって一緒に食べるわけじゃない、両親は共働きでいつだって家にいるのはどちらか一人。兄弟はもう随分と帰っていないらしい。顔を合わせるどころか、連絡すらとっていない。

風邪を引いたら自分で治して、頼りたい人間なんて特にいなくて。全部ひとりで出来たというより運良くひとりでの運用が可能な人生だったと言うべきか。他人の力を借りることは沢山あれど、借りることができなくてひとりで困ったということは幸いなことになかった。

(冷蔵庫…何もない。水があれば、大丈夫かな。あと、店長に連絡)

茫洋とした思考でやるべきことの優先順位を決める。まずは、とスマホを取り出して店長に連絡しようとしたけれど、相変わらず電波が悪い。昨今は、無料通話アプリという大変便利なものがあるため、電話ができない私のスマホでも人に連絡ができるけれど、Wi-Fiが超重要だ。
数件しか登録されていない連絡先から店長の番号をクリックする。
ああ、でも電話する時は気をつけないといけない。なるべく声を作って、明るく高いトーン、熱があることだけ伝えたらあとは大丈夫と電話を切る。手早く済ませないと、心配性の人達だから来るだなんて言いかねない。
頭の中でシミュレーションして、ボタンをタップする。

「もしもし、店長ー」





笑いかけてくれる人がいた。
霞んだ視界の中で、柔和な笑みを浮かべて私の頭を撫でる。その掌の温もり、感触、何より私の鼓膜に届く心地良い声音が心を揺らして自然と笑みを作る。洸ちゃん、洸ちゃん、と私の手を引いて、時に私が手を引いて。
時折、その手が離れると私は大泣きした。やだやだ、とその場にうずくまり、泣きじゃくり、愚図る駄々っ子なんて大概面倒なものなのに、その人はいつだって聖母のような笑みで私と視線を合わせてくれたのだ。

大丈夫、ここにいるよ。

そうしてまた、手を繋いで歩き出す。風の音や虫の音色のオーケストラに聴き入りながら、二人一緒に帰路につく。

楽しいね。
そうだね。
手、離したらやだよ?
離さないよ。
本当に?
本当だよ。だから、安心して。

《洸ちゃん》

名前を呼ばれるたびにむず痒く、けれど心地良い気分になった。子犬よろしく、尻尾を振ってもっと構ってと手を握り返す。温かくて、でもちょっぴりマメが出来ている働き者の手。

あれは、そうー



「……お、…あ…ちゃん」

自分の声が鼓膜に響いて、視界が開けて天井の木目が映って、霞みがかった思考が開けていく。ぼう、とする頭は現実を徐々に知らせてくれる。

(…熱、あったんだっけ)

確か、店長に電話した後、そのまま布団に戻ってそこから記憶がない。眠るようにそのまま意識を飛ばしてしまったんだろう。まだ頭痛の波が引かない頭を抑えて天井を仰ぐ。脱水を起こしかけているかもしれない。朝起きて、店長に連絡を入れる前にコップ一杯の水を飲んだだけだ。栄養はなくても、水分を取らないのはマズイ。
鉛のように思い頭を起こして上体をあげると、ふと、目尻と頬を濡らす雫に気付いた。

(なんで、泣いてるんだろう)

泣くようなことがあったっけ。靄に覆われた思考を手繰り寄せてもよく分からない。なんとなく、懐かしくて、胸が少しだけ締め付けられたそんな想いが確かにあったと思うけれど、それが明確に何なのかは分からなかった。
はあ、とため息を吐く。とりあえず、この船酔いをしているような頭の揺らめきと、鈍い痛みをどうにかしたかった。水を飲んでもう一眠りしようと、ぼんやりと思案した頭で考えてよいこらせと立ち上がろうとした時だ。


「まだ寝ていた方が良いですよ」


悲鳴を上げそうになった。咄嗟にでかかった声を必死に飲み込む。
こんな時、どんな反応をするのが正解だろう。臨戦態勢を取って相手との距離を開け、まずは出方を伺うのか最善かもしれないけれどあいにく私は病人。できることといえば、ピシリと固まって声の主を見遣ることくらいだった。

「どう、して…ここ。というか、鍵」
「以前、送って差し上げた時に部屋は分かりましたし、鍵なら店長から合鍵を頂きました」

あっけらかんとそう答えたのは、ここにいるはずがないベビーフェイス。今日も見目麗しい端麗な顔立ちで、柔らかな金髪は陽光に反射してきらめいている。
彼に相対した時の反応は、頬を薔薇色に染めて視線を下げ、胸を打つ動悸に逡巡する、が一般的な女子の反応かもしれないけれど、それ以上に、辟易としてしまった。警戒するのすらもはや面倒くさい。ここに彼がいる理由を聞き、私は、はぁ、と間の抜けた感嘆文を漏らした。

「……店長からのお願いですか」
「そんなところですね。今日は寄り合いがあるから難しいから、と。正確には、連絡先を交換している梓さんが様子を見てくれるよう頼まれていましたが、彼女は買い出しに行かないといけなかったので、僕が代わりに」

店長、いつのまに梓さんと連絡先を交換していたんだ。そして、なら買い出しを安室さんが行けばよかったんじゃ、と彼の顔を伺ったが、ポアロのエプロンを着けている彼は私の視線に気付くと、台所へと姿を消した。
なんだ、いったい。そう首を傾げた時、ようやく気付いた。

(……いい匂い)

あれ、冷蔵庫の中は何も入っていなかった筈なんだけど。
うん?、と唸った私の元に安室さんは、盆に湯気の立つ品を持ってやってきた。

「起きられたなら食べてしまいましょうか」

柔和な笑みと一緒に召し上がれ、と言わんばかりの豪華な病人食。お粥、漬け物、味噌汁、野菜と鶏肉の煮付け、全て少量となっている胃に優しいメニューだ。きっと味付けも完璧であろうことが伺える。
ぽかん、と目を丸くする私に構わず安室さんは卓にそれらを並べてくれる。たっぷり十秒は時間を使った後、私はぽつりと安室さんに問いかけた。

「あの、冷蔵庫空だったと思うんですが」
「ええ。ですので、買い出しに行きました」
「わざわざ?」
「何か問題でも?」
「……問題というか…」

もはや何から突っ込めばいいんだろう。揺らめく思考では何も考えられなくて、ただ目の前のご馳走が美味しそうということしか頭は仕事をしてくれない。美味しそうだね、そうだね、と相槌を打ちながらそれでも、なんで、と疑問は残る。
というか、この寝起きどスッピンをあの安室透に見られているってなかなか恐ろしい状態である。
しかしながら、それ以上に喉を通って出た言葉は、

「……なんか、すみません」

迷惑をかけたなと純粋に思った。
もしかしたら、監視の意味も含めて来たのかもしれないけれど、きちんとしたご飯を作ってくれたのは申し訳ない。

「謝られるのは、あまり嬉しくありませんね。せっかく作ったんですから、早く食べて元気になってください」

視線を下げていた私は、安室さんの言葉に彼を見上げた。困ったように笑う彼は、どうぞ、と私に食を促す。
それもそうだ。作ってもらっているのに、このままにしておくのは失礼で。
「いただきます」と手を合わせて、私はまず粥を口に運んだ。口に含んだ瞬間、鳥ガラ出汁の薄い味が口の中に広がり、仄かな塩気も感じられる。頬が落ちそうなほど絶妙な味付けだ。病人食とあって濃い味ではないけれど、薄すぎない。正直、粥だけ食べていても良いレベル。

「美味しい」

思わず漏れた本音に、安室さんは「良かった」と目尻を下げた。

久しぶりだ。熱を出して、人にご飯を作ってもらうなんて何年振り、下手したらもっと作ってもらったことなんてない。ご飯すらまともに出てこなかった家庭だ。病人食なんてなおさらあるわけない。適当な市販の薬を飲んで、胃を何かで満たして終わり。看病ではなく、病人の隔離の方が大事だ。
そういえば、この食材費どうしよう。食べている手をはたと止めたら、安室さんは「お金のことは心配しないで下さい。店長さんから頂きました」と答えてくれた、エスパーか。というより、店長ごめんなさいありがとう。

安室さんは無言で箸を進める私をじっと見ていた。居心地の悪さはもちろん感じていたけれど、正直、会話を交わすほど元気じゃなかったし、何より、世話をしてもらった手前、何かを言うことも気がひける。
何がしたいんだろう、どうして彼は私を探るんだろう。それなら、どうしてこんなことをしてくれるんだろう。獲得工作の一環だろうか。
無駄に考えると、また頭がズキンと痛む。嫌だ、何も考えたくない。今はただ、このご飯を楽しみたい。
鶏肉と根菜類の煮付けは醤油ベースに薄味に仕上げてある。蕩けそうなほどの旨味に思わず頬が緩んだ。

「お口に合いましたか?」

腑抜けた顔をしていたろう私に安室さんはくすりとひと笑みするとそう問いかけて来た。なんだか無性に恥ずかしくなって、視線を逸らしながらこくりと頷く。

「手料理ってなんだかあったかくて」

随分と家庭料理を食べてないから。そんな言葉は腹の底にしまっておく。

安室さんはそんな私をやはり黙って見つめて、私は無言で物を平らげて行く。食べ方一つでも何か探ろうとしてるのかな、なんてぼんやり考えていたら、ふと安室さんがぽつりと漏らした。

「きちんと食べてくれるんですね」

その言葉にぴたりと私の箸が止まる。言葉の意味を深読みしても仕方のないことかもしれないけれど、それを黙考してしまった。
人の手料理は暖かい。出来不出来に関わらず、誰かが誰かのために用意した物は総じて柔らかな心持ちを人に与える。
だからこそ、そこには邪な感情をいくらでも含むことができる。

(手作りとか食べないんだろうな)

「作ってもらったものですから」と、笑顔で返して、口にまた含む。
細められた瞳が、なんだかとても侘しく見えた。


結局、安室さんは片付けまで全てやってくれた。それくらい元気になってから自分でやると言っても、まあまあ、と軽くあしらわれて、慣れた手つきでパパパと片してしまう安室さんを尻目に私は白湯を飲む。ついでに買ってきました、と渡された風邪薬もありがたく胃に収めた。明日には仕事場に復帰できるだろう。
流し場も綺麗に掃除してもらい、ポアロのエプロンを片手にした安室さんが冷蔵庫を指差した。

「ウィダーゼリーと経口補水液を入れてありますから、適宜飲んでください。お粥の残りもあるので、晩か明日の朝にでもどうぞ」

貴方は嫁か何かか。完璧過ぎるアフターフォローに上手い返しが見つからず、熱も相俟ってか、ただこくりと頷いた。ありがとうございます、と頭を下げて苦笑する。

「何から何まで、お世話になりました」
「気にしないで下さい。困った時はお互い様ですから」

安室さんが困ることと言ったらもはや国家レベルの危機の時か、組織がらみの何かくらいじゃないだろうか。お互い様どころか私は蚊帳の外になる案件だ。
そんな考えを頭の隅に追いやって、私はもう一度彼にお礼を言った。彼の思惑がどこにあろうと、事実として世話になりそして助かったのだ。久々に人の手料理の温かみを感じて、看病されるむず痒い心地に頬を緩ませた。
このふわふわした思考も明日の朝には治っているだろう。市販薬も飲んで、あとは寝るだけとなった私は安室さんの見送りに玄関まで来た。靴を履いて、それじゃあ、と背を向けた安室さんに今一度頭を下げる。

その時、ふと安室さんがこちらを振り返った。

「……刀海さん」

変わらない、柔らかな相貌。
けれど、どこか含みある瞳が私を捉えた。

「何か、思い出されましたか?」

その両眼に秘めた狼の眼光が、鋭く私に突き刺さる。
熱に浮かされた頭が、一瞬クリアになった。

「……いいえ、何も」

雫が乾いてしまった頬に触れて、私は苦く微笑んだ。


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