人が自分を認識するには、他人が必要だ。幼子が徐々に自己を認識するのも、他者という鏡を通して自分の輪郭を認識するからだと、大学のゼミで教授は言っていた。人間を人間たらしめるのは、知性でも教養でもなく、同じ人間なのだと。
私というヒトは、私の周りの人間が形作った。私の思想信条、血肉、凡ゆる私を構成するものは外界から与えられた物質と情報の集合体。人間なんてそれぞれ似たようなものだ。
でも、それは、元いた世界の私だ。

なら、此処にいる私は何なんだろう。

考えたところで無意味な問いに目を瞑った。瞼の裏には暗闇が広がっていて何も見えない。それがまるで、私の過去と未来を表しているように思えて、緩慢に瞼を上げた。

天井の木目を数えたのは今日で何回目だろう。
この世界に来て、この場所に来て、働いてキャラクターと出会って、懐疑の眼差しを向けられながらも、平穏な日々をそれなりに過ごして来たと思う。それなりの日々を歩んで今がある。

正直、馴染んで来ている自分が少し怖い、と思っている。

それは、生活そのものに、というのもあるけれど、一番はこの世界の在り方に対して思考が馴染んでいることに対してだ。
二次元世界に飛び込んだ私の存在は、作中には描かれないイレギュラー。高次元世界からの来訪者として、あり得ない知識を保有する存在。この世界におけるキャラクターの立ち位置、動き、思考、本人しか知り得ないことを知ってしまっている。
だから、どのようにこれから自分が動くべきか、どうすれば平穏を保てるのかを考えることに慣れて来てしまっている。
元来、人間は自分の環境を良くするために動く生き物だけれど、私の場合は、高次元、作り手ならぬ読み手側からの思考となっていて。私だけがチェスボードを俯瞰して眺めて、相手は下から見上げることしかできない、まるでそんな状況。もちろん、私は頭の回転なんて早くないし、推理力なんて皆無だから下から眺めながらも手元を見て駒を進めることができる、コナン君とか安室さんとかそんな人達には敵わないのだけれど。
ただそんな、物語の構成上起こりうることを俯瞰しながら思索を深めることに慣れて来てしまっているのが、少し恐ろしかった。

此処にいるのに、どこか別の場所にいるみたいで。
人の優しさ、暖かさ、温もりを感じて安堵しながらも、別の私はひどく冷徹な気がした。


「……やめだー!やめ!」

あー、と唸ってゴロンと寝返りを打つ。盗聴器に音が入ってたら、何やってんだこいつ、と思われてるだろう。聴け聴け、どうせ何も出て来やしないから。
ふふん、と軽く鼻を鳴らして私は現在の状況を少し整理した。

就籍許可申請を出してから、一ヶ月以上が経っていた。相変わらず、申請が通る兆しは全くと言って良いほど見えない。時折、家裁に足を運んで風見さんに会うことも慣れてきた。あ、最近休んでなさそうとか、目の隈が赤井さんになっている、とか考えながらも何も知らないフリをして笑みを貼り付けるのもなかなか疲れる。疲れてませんか?大丈夫ですか?ご飯食べてますか?と聞くと決まって大丈夫と言われ、ちょっと揶揄ってやろうとして、ご飯作りに行きましょうか、なんて言ってしまえば、真顔で結構ですと言われたのち、揶揄うのはやめて下さい、ときたもんだ。鉄壁かよ、違うか私に魅力がないだけか。

風見さんの真面目すぎる相貌を思い出して、するりとコンセントを指でなぞる。その近くでスマホを開けば、案の定、Wi-Fiさんは彷徨っていた。
家の中の盗聴器は外していない。外してしまったら、逆に疑われそうだと思うからだ。ただの一般人が盗聴器の可能性に辿り着いて取り外したら何事かと私だったら思う。
盗聴器を仕掛けたのが誰なのかは断定できていない。私の勝手な推測で、治安を守る彼らかもしれないと推理めいたことをしてみたけれど、断定できる証拠なんて何ひとつない。だからこそ、犯人側と繋がるこの証拠品をまだ取っ払うことは得策とは思えなかった。
幸いなことに、監視カメラの類がないことは、隈なく探したため確かだ。正直、監視カメラの方が嫌だったからそこはほっと胸をなでおろした。

コナン君に盗聴器を発見してもらってから、私の生活は余計に嘘くさくなった。もちろん、梓さんや蘭ちゃん、店長や秋穂さんなど、近しくまた親切に接してくれる人々と交わす声と表情は本物で、そこに嘘偽りを混ぜている気は毛頭ないのだけれど常に素の私を演じているように錯覚してしまう。

決して独りなわけじゃない。心を砕いてくれる人が確かにいる。
けど、この微睡みに呑まれてしまったら自分自身を見失いそうで。
あくまで今の私には、帰るべき場所があることを忘れてしまいそうな現実が、怖かった。





今日のランチタイムはいつもよりサラリーマンが多く混み合った。注文を取ったら次は配膳、会計、また注文、そして洗い物。目が回るような忙しさに凡人の私はひたすら必死に手と足を動かした。時折、常連さんからのエールを背に受けて頑張った。

「つっかれたー!」

ようやくひと段落ついたのは午後の3時、もはやおやつの時間である。ぐったりとテーブルに横たわる私に店長と秋穂さんが顔を見合わせて笑った。行儀が悪かったと思い、すみません、と頭を下げる。

「いやいいんだよ。今日は特に多かったから」
「珍しいわよね。ここ最近、特に男性客が増えたわ」
「そうですよね。前までは常連の年配の方とかが多かったんですけど」

男性客の顔ぶれもまちまちで、作業着やスーツの年齢層はバラバラ。この辺で何かの工事でも始まるのかな?とかぼんやりと考えていたら、秋穂さんが「あ」と声を上げた。

「お前、時間だろ」
「そうだったわ。洸ちゃん、悪いけど片付けお願いね」

パタパタと身支度を整える秋穂さんに、分かりました、と手を挙げる。透析の時間だろう。エプロン姿だった秋穂さんは、急いで奥へと戻るとバッグを片手に店を後にした。病院は大型の透析室がある個人病院で、此処からは歩いて十五分程度。多分、また夜までには帰ってきて仕事をする気なんだろうな、秋穂さん。

さっさと片付けをして休みを取って、私も夜に備えようと厨房へと足を進める。洗い物用に買ってもらったエプロンを身につけたところで、ふと、店長がいつも使っているカレンダーが目に入った。季節の花の写真がプリントされたカレンダー。
そういえば、こちらに来てもうふた月ほど経つのかと、今までのことを思い返しながらぼんやりと考えていたら、はた、と気付いたことがあった。

「……店長、今日寄り合いですか?」

カレンダーの日付の隅に、バツ印が付いている。
他の日付を見てみると、やっぱりこのバツ印が散見された。曜日が決まっているわけではなくてまちまちなのだけれど、記憶を辿ってみるとこれは店長が寄り合いに行く日と合致している気がする。寄り合いは、昼間だったり夜間だったりと時間が決められているわけではない。よく見るとこの数週間は特に回数が多いようだった。

私の問いかけに、店長は、夕方だけね、と困ったように肩を竦めた。

「最近、多いんだ。もうそろそろ神社の大祭があるから地区の幹部連中は大はりきりなんだよ」
「へえ、祭りですか」

相槌を打って、注文や配膳で溜まっていた皿を洗いながら思い返すのは、元いた世界でも何回か参加した祭りの情景だ。
この時期は確かに各地の神社で祭が多い。勇壮な男性が神輿を担いで市町内を練り歩くなんて光景は、全国津々浦々で見られる伝統の光景だ。
店長によると、この地域の祭りでは神輿のほかに、各町内会が保有する山車が地区を練り歩くとのことで、その準備のために寄り合いで、人集めの状況や各種準備がなされているとのことだった。
地域の祭りは私も参加したことがあるけれど、とても楽しいものだった。日常から切り離された華やかな世界に没頭して、軒を連ねる屋台にはしゃいで。お囃子の音が耳に木霊する中、あの非日常の空間で神を祀るための儀式が営まれる。人が連綿と紡いで来たその営みの中、大人から子供まで、意識の程度に差はあれど、伝統を受け継いでいくのだ。
提灯が空に敷き詰められている中、その灯を辿って走る。
そんな私を見守ってくれていたのは─

「洸ちゃん」

物思いに耽っていた私の意識がふと切り替わった。無意識に洗い物をしていた私は顔を上げ、その視線は店長に向けられた。
その相貌に、僅かに眉根を寄せる。
いつもは目元が緩んでいる店長の相貌が少し硬くなっていて、強張ったその相貌に私は首を傾げた。
店長は徐に私の横に来ると、洗った皿を拭き始めた。いつもなら、仕入れ作業のためにすぐに店を出て行ってしまう店長にしては珍しい行為に数度瞳を瞬かせる。どうしたんだろう、様子が少し変だ。

「店長?」

私を呼んだのになぜか口を噤んでしまった店長に声をかけると、店長は数秒間をおいてから、ようやく口を開いてくれた。

「……最近どうだい?」
「……最近?」

唐突に、店長にそう言われて。思わぬ問いかけに私は数秒言葉の意味を考えた。
最近、てどの期間のこと?そもそも、店長が私の私生活を気にしたことなんて一度もないのに何で今?というか、なんだか小声なんだけど、どうして?店長に何かあった?
この間、わずか三秒程度。
うん、と唸って眉根を寄せたら、店長は困ったような笑みを浮かべた。あー、と明後日の方向を向いたと思うとまた皿を拭き始める。
一体なんだ。私は何かしたか。最近あったことなんて、尾行と盗聴くらいなんだけど。くらい、て言葉で片付けられないね。

「店長?」
「嫁さんがな、その」
「秋穂さんがどうかされました?」

まさか、私の働きがあまりよろしくないと秋穂さんから言われたりしたんだろうか。それだったら非常にまずい。
続きを促す視線を店長に向ければ、ひとつ大きなため息を吐くと店長は、乱雑に自分の頭をガシガシ掻いた。

「心配してるんだよ、嫁さんが」


──君のことを。


また、たっぷり三秒は間を置いた。

「しん、ぱい?」

ポツリとおうむ返しに言葉を漏らすと、店長は先ほどまでの蕩揺した視線をしっかりとこちらに合わせた。
その瞳は真っ直ぐで、真摯だった。

「言いたいことや思っていることは、素直に口に出した方がいい。あいつは聡くはないが馬鹿じゃない。君が悩んでいることには気付いているんだよ」

諭すような言葉、でも柔らかな声音。
心配しているという言葉に胸が、ひどく騒ついた。店長の言葉に一瞬脳裏によぎったのは、金髪褐色肌の彼だ。

──頼って下さい。

(似たようなこと、言われたなぁ)

言葉の真実性には雲泥の差があるものの、つい先日言われた虚言は思いのほか私の心を蝕んでいるらしい。
朗らかに甘い毒を撒いた安室さんの相貌を振り切るように首を振る。違う、違う。秋穂さんは違うから。
心配してくれている。きっと秋穂さんは、私が何かに悩んでいること、には薄々気付いているからこそ、店長にそれを相談したのだろう。それが、何かまでは分からなくても、私個人の憂いを秋穂さんは汲み取ってくれている。

心配。その言葉を呑み込んで、理解して、

そうして、作り出した笑顔を店長に向けた。

「大丈夫です。あんまりにも記憶が戻らないから、どうしようかな、てそんなことろですから」

上手な嘘というものは、適度な真実を織り交ぜたものだ。
曖昧な笑みで取り繕った私に、店長は、「無理はあまりしないんだよ」と言うと、奥へと戻っていった。どこか侘しさを感じる背中に、胸がちくりと痛んだ。
店長の姿が見えなくなって、再び食器洗いを再開しようと視線を下げた私の顔に、笑みはもうなくて。
心配、と言う言葉を聞いた私は、その言葉の暖かさを胸にしまう前に、ひどく冷え切った思考を抱いた。


嗚呼、上手くやらなきゃ。


塗り重ねられる嘘に、身体が慣れ始めていた。



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