この世界に来てから、人の優しさが妙に身に染みるようになった。
掛けられる労りの言葉、案じる言葉。全て私を気遣う言葉群で、私と言う存在がどれだけ怪しく、不可解であってもその言葉をかけてくれる人達は私と言う存在を決して邪険に扱わない。一人の人間として心配してくれているその優しさが、むず痒くて、あったかくて、そして同時にじわりじわりと罪悪感が胸を蝕んでいく。
そつなくこなすのは得意だ。笑顔を貼り付けてやり過ごすのにも慣れている。
それでも、人の好意と善意に胡座をかけるほど、私の心は強くできていない。
優しさという薬が、向けられる懐疑心で小さな傷を作った心に塗られていく。大丈夫?力になります。そんな薬を塗られて、嬉しさ反面、薬を塗られた箇所はやっぱり痛い。
痛い、いたい。八方塞がりな気持ちのやり場を持て余している中、それは起こった。
「……嬢ちゃんはなんだ、密入国か?それとも就労ビザ切れの違法滞在者か?」
あまりにも唐突な問いかけに、思考回路はひどく混乱した。え、なんで私こんなに敵意たっぷりの視線を向けられているの?というか、
「はい?」
貴方、だれ?
待て待て。私は、今日秋穂さんが忘れたという保険証を片手に店を出た。店から十五分程度の個人病院、透析を受けることのできる病院まで走って保険証を届けた。ありがとう、ごめんなさいね。と何度も頭を下げる秋穂さんに、いえいえ、と手を振ってひと仕事終えたと意気揚々と帰宅の途についていた。
途中、地区の集会所の前を通った時、それは起こったのだ。
「ああ、最近流行りの難民ビザってやつか?」
「おい、よせよ」
「うるせえ!言わなきゃ気が済まねえんだよ」
何の話だ。というか、何だこの人たち。年齢は六十代から七、八十代のご年配の皆様。白髪が年齢を感じさせるお爺さん達のひとり、たぶんまだこの中では年若い方だろう。そんなお爺さんからの敵対心に私は混乱していた。
そもそも、私は集会所の前を通っただけだ。その時たまたま、このお爺さん達は集会所からぞろぞろと出て来た。交友関係が限られている私の生活において、後期高齢者枠に入る知り合いなんて店長と妻の秋穂さんくらいしかいない。阿笠博士はまだお会いしたことないから除外、そもそも、後期高齢者枠に入れたら失礼か、髭と頭頂部で判断してはいけない。
だからこそ、出てきた老人達に私は視線だけは少し向けたけど、特に何を思うわけでもなくその前を通り過ぎた。ああ、お爺ちゃん達の生涯学習の会か何かかな?最近多いよね、程度の認識だった。
けれど、お爺ちゃんの一人はそうではなかったらしい。
密入国?就労ビザ切れ?難民ビザ、はテレビのニュースで見たことがある。難民ビザの発行申請と審査期間を利用して日本で特別な就労許可を貰う特殊滞在の事だ。難民審査の期間は長いため、一定期間就労が認められている。
難民ビザなんて呼ばれ方をしていると問題視されている、あれか。この爺ちゃん、よく勉強してるんだな、と頭の隅で呑気に思ったけれど、実際にお爺ちゃんから私に注がれる視線も声音も、全くもって友好的なものではなかった。
そもそも、なんの話だ。
「あの、なんの話ですか?」
取り敢えず、状況も敵意の理由も何もかも分からない。というか人違いじゃないかと曖昧に笑いながら友好の態度を示したけれど、お爺ちゃんは鼻を鳴らした。
「しらばっくれんな、この異邦人が」
ええぇ、純日本人です私。どこからどう見ても日本人でしょ、私。そりゃ、国のために命張るイケメンゴリラほど日本愛に溢れてはいないかもしれないけれど、日本が大好きな日本人です。
「私は、…日本人です」
国籍だけは本物なので取り敢えずそこだけは主張しておく。弱々しい声だけれど、視線だけは外さずに言い切った私に、お爺ちゃんは、けっと吐き捨てた。
「馬鹿言えよ。あの男が抱える奴なんざ、ロクな奴がいねえんだ。どうせ、どっかのブローカーの手引きで入った奴らだろう」
「ぶろ、え?」
「それともあれか、ニュースでやってた密入国グループの残党か?」
「密入国…て」
身に覚えはない、けれど聞き覚えのある単語だ。その単語関連のニュースといえば私の脳裏に刻まれていた。
確か、初めて風見さんに会ってから一週間経った頃、図書館の外で尾行していた男性に詰め寄ったあの日。あの時、図書館で見た新聞の欄にあった。
密入国者を囲っていたグループが摘発されて残りのメンバーを警察が追っている。その下の記事には、一千万円相当の商品の強盗事件があった。あの日見た新聞記事に、確かにあったその単語。
ああ、あれのことか。なんて考えても、なんでお爺ちゃんがそんなことを私に言うんだ。
そう思って、頭を働かせて、お爺ちゃんの言葉にひとつ引っ掛かりを覚えた。
(あの、男…?)
ふと、お爺ちゃん達にちらりと視線を走らせた。何気なく目に入ったのは、手にしているA4サイズの紙。目を細めてその文字を見て、私は思案する。
お爺ちゃんからの敵意がショックなわけではなかった。そもそも意味がわからない。
それ以上に、お爺ちゃんの発言と私への嫌悪がひどく引っかかった。
彼らは集会所の中から出てきた。手に持っているのはこの地区のイベント表だろう。ちらりと月間スケジュールという文字が見える。表示されているのは来月の数字だ。
今は月末。月末に集会所で次の月の月間スケジュールを確認する、ということは彼は地区の寄り合い幹部の可能性が高い。こういう集会所では、地区の行事などを代表者が寄り合いで話し合い、まとめていくものだ。
そこで、んん、と首を捻らせる。
「あの、話が読めないんですが、私は皆さんにお会いしたことがありますか?」
穏便に、口調は緩やかに。
寄り合い幹部。地区の代表者である年配の方々が、此処にいる。
引っかかりとしては十分だった。
物腰柔らかな私の言葉に、敵意を向けて来ていたお爺ちゃんとは別の人が、困った様子で答えてくれた。
「いや、あのねえ。君、あそこで働いているだろう」
「……あそこって、溝口夫妻に雇われていますが、」
それが何か、と聞く前に、お爺ちゃんの様子が変わった。ぴしり、と緊張が走ったように、それぞれの表層は硬質化した。誰もかれもが、顔に影を落として口を一様に閉ざした。まるで、そのことは触れられたくないと言わんばかりの態度に、ぞわり、と嫌な空気が肌を刺す。
その冷たく、こちらに一線を引くような様相に私は思わず生唾を飲み込んだ。なに、これ。なんで店長達の名前を出した途端に、こんなことになるの。だって、店長はー
渋面が広がったあの敵意満々のお爺ちゃんは、低く唸るような声を吐き出した。
「……て、くれ」
「え」
思わず聞き返して、そうして、少しだけ後悔する。
呟かれた言の葉は、低く重かった。
「とっとと、出て行ってくれ」
心の底から、その言葉を請い願う色が深く込められていて。
明確な拒絶と、敵意、嫌悪、凡ゆる負の感情を一気にぶつけられた私は一瞬くらりと来た。ここ最近、あまりにも優しく微睡むような感情を向けられすぎていて、こんなどす黒い感情には慣れていなかった。
*
ぬるま湯が肌を伝って、落ちて行く。ざあざあと止めどなく降り注ぐお湯を身体に受けた。曇った浴室内で、これまた曇った鏡面を見上げる。白くなったそれを掌で拭った先、出てきたのはやけに疲れた顔貌だった。
シャワーを浴びたくなったのは、やけに身体が熱かったからだ。
ひどく汗をかいた。嫌な汗だった。ドクンドクンと脈打つ心臓が早鐘を打つに連れて汗の量は増えていった。事実を咀嚼して受け入れて行くにつれて、汗腺から吹き出すそれは嫌なシミを服に作った。
「ひっどい顔」
嗤った顔は、歪んでいた。
知らない相手からの敵愾心、猜疑心、そんなものは至極どうだって良い。人間、近しい人間からの負の感情が一番堪えるものだ。知らない相手からの取るに足らない感情なんて、驚きはするものの深く自分の心に楔として打ち込まれはしない。痛くも痒くも無いその感情をいちいち取り合う必要もない。
寄り合いを終えたお爺ちゃんから向けられたそんな負の感情は、最初こそ心の表面に傷をつけたけれど、内側は存外平気だった。平気だったのは、まだ彼らのことを私が知らないからだろう。もし、あのお爺ちゃん達がとても根が優しい、好々爺のような人物だったら私の心は既にポッキリ折れている。
知らない人間からの敵意より私には気になることがあった。
《あそこで働いているだろう》
ひとりの老人の問い掛けは、重く深く心に突き刺さった。それまで、全くと言っていいほど何も疑うことなく過ごしてきた自分を嘲笑うかのような事実を、楔は告げていた。じわりじわりと広がる傷跡が痛くて、思わず顔を歪める。
店長は、嘘を吐いていた。
それは、思っていたよりよっぽど衝撃的な事実だった。なぜ、どうして、と疑問が巡る前に私の心に暗雲が立ち込める。ただのその事実が、ひどく私に冷え切った心象を抱かせた。
嘘を吐くには、吐くなりの理由がある。それでもその理由は分からない。ただ分かるのは、店長は私に知られたくない何かがあるのだ。
そしてそれはおそらく、
(私は、無関係じゃない)
ノズルを回してお湯を止める。ぽたりぽたりと濡らした髪を伝って落ちる雫を徐に眺める。脳裏に刻まれた、拒絶の声と表情を思い返して思案した。
寄り合いで抜ける。店長はそう言っていた。バツ印が付いていた日は寄り合いの日。そして、ここ数週間でそれが増えたと言っていた。
いったい、誰と会うことが増えたんだろう。
加えて、あのお爺さん達の言動も気になった。明らかに店長に対して好感情を抱いていない。お爺さんが言っていた、あの男、とはおそらく店長のことだ。
密入国、就労ビザ、難民ビザ、というのとは今まで店長が雇って来た人達はそういう危ない感じの人達だったということになる。
ふと、お爺ちゃんの一人が言っていた言葉がリフレインした。
《ニュースでやってた密入国グループの残党か》
危ない人間を雇っていた過去、寄り合いと嘘を吐く、ここ数週間頻繁に行われる寄り合い。真実を結びつけるにしても、圧倒的に捕捉するための情報が不足している。
これ以上はたぶん、考えても意味がない。
けれど、動かなきゃなにも解決しないし、なにも分からない。きっと、分からないまま何かに巻き込まれる気がする。コナン世界あるある、だ。
タオルで髪と全身を拭き、脱衣所で下着を履く。鏡面に映った自分の顔を見て、苦笑した。
存外、堪えてるのかもしれない。歪んだ顔面がそう告げている。
心配してる。頼ってくれ。最近どうだ。
店長の言葉だけじゃなくて、この世界に来て私に向けられた労り、身を案じる声、視線、全ての優しい事象が急に恐ろしくなった。
大丈夫。梓さん、蘭ちゃん、秋穂さんのあの言葉は演技じゃない。あんな表情、演技で作り出せるわけがない。
それでも、心が押し潰されそうなほどの不安と恐怖は消えてくれなかった。
何が本当で、嘘か。
どこまでが本当で、嘘か。
嘘を吐き続ける自分への罰なんだろうか。
疑心暗鬼になる心に、乾いた笑いが漏れた。
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