小道を抜け、大通りを歩き、行き着いたところは一駅ほど離れた場所にある廃工場だった。するりと店長は辺りを確認することもなくその中に入っていった。不用心にもほどがあるんじゃないだろうか。誰かに尾けられているとか思って欲しい。
対する私は入念に周りをチェックした。もちろん、尾行を含めてだ。店を出てから此処に来るまで、背後だけではなく建物の影、窓、色んなところに目を光らせた。素人なりに警戒心をマックスにして店長を追った。
店長が廃工場の入り口の角を曲がったところで、一気に小走りで直線距離を詰める。同じ角に到着すると、手鏡で敷地内を確認した。
店長は敷地のどこに行ったのかを確かめるために視線を地面へと向ける。少しばかりぬかるんでいる地面には大人の男性と思しき足跡が、三つほどあった。おそらくその一つは店長だろう。
(あと二つある)
ということは、あと二人、誰かいる。その事実に、私は生唾を飲み下した。
かつて店長は、密入国者を仲介するブローカーにまつわる事件に絡んでいた。そして、今、私に嘘を吐いて誰かと会っている。
私は黒のお気に入りのポシェットからある物を取り出した。カチリとスイッチを入れると、先端にパチンと稲妻が走る。使用方法は入念に自宅で確認した代物だ。先日、インターネット通販で購入した。高威力だから使う時には慎重にならないといけない。うっかり誰かに使えば、私がお縄になってしまう。
更にもう一つ、小型のICレコーダーを取り出して胸ポケットに入れる。何かあった時に使えるかもしれない。ミステリー漫画の金字塔の世界に来たのだ。用心に用心を重ねるのは悪いことではないだろう。
息を大きく吸って、ゆっくり、ゆっくりと吐き出す。ばくばくと耳に煩い心臓の鼓動を落ち着けてから、私はその足跡の上をそろりそろりと歩いて先へと進んだ。
廃工場は鉄鋼製品でも製造していたのか、至る所に大型の機械が置かれていた。ゆうにビル四階はあると思われる高さまで屋根がそびえ立っている。
足跡は工場の裏手に続いていた。周りに目を光らせながら足を進めていくと、微かに、声が聞こえて来た。低い声、声質からして男性。声に気づいた私は音がする方に誘われる。近づくにつれて、ばくばく鳴っていた心臓に拍車がかかる。もはや、口から心臓が飛び出すのではないかと言えるほど、緊張が全身を巡っていた。
一度、ぎゅっと胸のあたりで拳を作り、はぁ、と息を吐く。視界を閉じて、暗闇を広げる。鼓動を落ち着けて、でも警戒は怠らないように全身の血潮をコントロールする。
うん、大丈夫。
無意識にこくりと頷いて、緊張を少しでも和らげる。だんだんと近づく声は、断片的に聞き取れる距離まで近づいた。
生唾を一つ飲み込んで、私は、建物の角から僅かに顔を覗かせた。
(え)
刹那、動揺が身体中に走った。視線の先の光景に瞳が揺れた。どくどくと全身の血が勢いよく巡る。全ての神経が過敏になって、状況を俯瞰することも、分析することも困難なほど、私は動揺した。
予想していたのは、屈強な男とか悪相の輩とかそんな人間だった。だってそうじゃないか。店長は、裏稼業に従事するような人達と知り合いだった。その手の人間を雇っていた過去があった。寄り合いと嘘を吐いて、隠れて誰かと接触なんて、凡庸な思考しかできない私は真っ先にそんな線を疑ったのに、蓋を開けてみれば、なんだ、これ。
陳腐な推理なんか無意味だったと突きつけられて。けれど、疑問は更なる疑問を生む。
なんで、風見さんと店長が話をしているのか。
現実が伝えるのは事実だけなのに、その事実に首を傾げて眉を顰めた。ついでにもう一人、隣にいる人間は風見さんの部下だろうか。目を凝らしてその顔貌を確認すると、脳裏に思い当たる人物がいて、はっと息を呑む。
(図書館とかで私を尾行してた、捜査員)
そう。《偶然》安室透が現れたことにより逃げ去ってしまったあの捜査員が、風見さんの横に控えていた。
外れた予想に動揺して、積み重なる疑問の山が私に折り重なってくる。けれど、なぜ、なぜ、と黙考する時間的余裕なんてない。茫然としている私の耳に、断片的な単語が入って来た。
「……違う…あ、…子……関係……」
「は…のり……は、薄れ……」
何。何の会話だ。
違う、とは何が?店長は何を否定したの?
は、の、り?薄れる?風見さんは何と答えた?
疑問符しか出てこない。直線距離としては数メートルのとても近い位置に三人がいるのに、声を拾わない自分の耳が恨めしい。焦燥感が募る中、耳をそばだててもう一度音を拾う。けれど、聞こえてくるのは不明瞭な音の羅列と妙に焦りを感じさせる店長の声音だけだった。
内容の聞き取りは困難かもしれない。これ以上、此処にいるのは得策ではない。いつ三人が話を切り上げてこちらに帰ってくるかは分からないのだ。
ICレコーダーの電源を落とすと、私は足早にその場を後にした。
整理できない思考を抱えたまま帰宅の途につき、私は、真っ直ぐ最短ルートで家へと戻った。街灯の少ない道を通ったのは、久々だった。
階段を上がり、鍵を開けて、身体を玄関へと滑り込ませて後ろ手に鍵を占める。一連の動作を滑らかに行った後、私は、詰めていた息を一気に吐き出した。息と共に心臓まで吐き出しそうだった。心を、身体を落ち着かせるように深呼吸して、震える体躯を両腕で抱きめても震えは治まらない。
思考は安定せず、ぐるぐると巡っている。名推理が光る名探偵様達にご教授願いたいほど、今の私は気持ちの落ち着け方を知りたかった。それほどまでに動揺していて、鼓動の早さに息が苦しくなる。
(……考えなきゃ)
黙考しろ。突きつけられてきた現実、身の回りで起きた事象を羅列して、この状況を解いていけ。
自分自身を叱咤して、ひとつ大きく息を吐いた私は思案する。思考を働かせておかないと不安が胸を支配しそうで、それから逃れるために必死に頭を回転させる。
情報と情報を結びつける作業の過程で、私はある気づきを覚えた。
どうして店長と風見さんが、という問いは今までのさまざまな疑問と結びつく。点と点が繋がる感覚に目眩がしそうになった。
公安警察である風見さんと店長が秘密裏に接触しているという事実が導き出す真実はひとつしかない。それは、私が見てきたこの世界の物語において、見たことのある光景だった。
店長は、公安の協力者だ。
それは、どう足掻いたって疑いようのない事実だった。一般人が秘密裏に公安警察と顔を合わせている。協力者という以外になんの理由があるというのか。
そう考えると辻褄があう所が出てきた。
何故、私の帰宅時間を彼らが知り得たのか。
何故、早い段階から風見さんが接触してきたのか。
全部説明がつく。協力者として動いているなら、監視対象となる人間の情報を逐一報告することは何らおかしなことじゃない。
どのような経緯で店長が公安の協力者になったのか。公安は民間の協力者を獲得するために、対象と密に接する、或いは弱みを握って強請る、などの方法で情報提供を求める。
店長の場合、考えられるのは何か。足りない頭を捻って、今までの情報をパズルピースのように繋ぎ合わせる。こんな作業は生まれてこのかたしたことがない。名探偵にでも任せたい気持ちを殺して必死に思考を巡らせる。
かちり、かちり、と情報を枠内にはめていく中で、私はふとあるピースに着目した。
(……密入国、証拠不十分、お咎めなし)
先日、あのお爺ちゃんから聞いた話だ。密入国者を仲介するブローカーが摘発された際に伸ばされた捜査の手。入れ替わり立ち替わりあのアパートに入居する怪しげな輩。限りなくクロだと思われた店長は、何事もなかったかのように解放された。
公安警察は、違法で危険な捜査もする。
刑事モノ、公安警察関係の書籍や小説を読んだ中でよく見てきたフレーズ。網膜に刻まれたその言葉が思考の中で浮き立った。
同時に、あれ、と言葉が漏れた。
「わざと、雇った…?」
思い至った可能性に、目が見開かれ、声が震える。
唇か紡いだ言葉がひどく恐ろしくて、冷や汗がたらりと流れた。
不思議だった。無戸籍、身分証明書なし、記憶喪失。そんな人間を快く雇うことに疑問はあった。人の良い、そして危ない橋を渡りそうにない、表の世界の人間と思える溝口夫妻が何故、自分のような人間を雇ったのか。昔はそんな輩はゴロゴロいたとしても、今は違う。
入れ替わり立ち替わりでアパートに入居している、得体の知れない輩。数週間から数カ月のスパンで入った人間は何処かへ行ってしまう。近所の悪評からすると、見た目からして表の人間が関わりたくない連中だったのだろう。
では、その連中は何処へと消えていったのか。
その答えを、公安警察の協力者である店長、というピースが示唆している。可能性としては十分にあり得た。
わざとそのような連中に家を貸し出し、情報を精査して、証拠を獲得すれば、あとはお縄。
ぴたりとはまってしまったパズルピースが、私を嘲笑う。知らない方が幸せ、だなんて知られて困る人間の戯言だと一蹴していたけれど、これは、知らない方が良かったのかもしれない。
だって、こんなのー
「……全部、最初から嘘だった…てこと?」
もはや感服する。こんなの、予想していなかった。予想なんてできるはずないんだけど、思った以上に衝撃が強かった。
気付けば、体の震えは止まっていて。代わりに、口端が僅かに上がり乾いた笑いが漏れていた。
なんだ、それ。
「馬鹿じゃないの…」
片手で顔を覆い、吐露するのはいったいどんな気持ちなんだろう。私自身、何を思いたいのか分からなかった。
安室さんの気遣う言葉も行動も。
店長の不安げな瞳も、労わる声も。
「ふふ、は、はは…ははっ…」
嘘で固められた、関係だなんて。
笑いが止まらない。それが、どうしてかなんて考えたくなくて、ただ自嘲を垂れ流す。
正直、笑う以外にどうすればいいか分からなかった。
ーーなにを、真面目になっていたんだ、私。
溢れるのは、己への嘲笑だ。
此処には私を知る人間なんて一人もいない。所詮物語の世界、本当の居場所なんてどこにも無い。
なのに、なにをクソ真面目に相手に向き合っていたんだ。
騙し騙され、猜疑心で埋め尽くされているミステリー漫画の世界で真っ当に生きることがどれだけ馬鹿げているかを、突きつけられた気がした。
嘘と真実を綯交ぜにした身の上話を話すことに心を痛めて、磨耗していく神経を必死に見ないふりをして、大丈夫、大丈夫と緊張の糸を張っていたこれまでの私の生活は何だったんだろう。
いつ帰ることができるか、どうしたら帰ることができるか分からないから、嘘を交えてでも世界に溶け込んで、生きていたというのに。
帰らなければ、そう、帰る場所があるのに、何をー
「何、勝手に信じて、なにを、はは…」
馬鹿みたい。
わたしを構成する要素は、此処には、どこにもないのだ。何もないから、初めから、疑われて騙されて、そんなの当たり前じゃないか。
信頼、信用、そんな関係は一朝一夕には結べないし、その元となる身元も保障されない自分が、嘘つきの自分が、受け入れられているなんて錯覚に過ぎなかった。
そんなことに、罪悪感を感じるまでもなく、そもそもその関係にすら私は辿り着いていなかったのだ。
「ばか、みたい」
自分の認識の甘さと、愚鈍さに、泣きたくなった。
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