自分の存在を俯瞰すれば、この上なく怪しいことなんて分かっていた。記憶喪失の人間、調べても出てこない身の上。刀海洸という人間は確かに存在しているのに、その存在を証明する情報は何一つとしてない。
誰からも信用される要素なんてなくて、だからこそ、受け入れてくれた人に腹の底から依存をしていた。寄る辺のない自分を拾ってくれた店長、は最たるものだったのかもしれない。降谷さんや風見さんなどの疑うことが仕事の皆さんから向けられる疑念に少しずつ磨耗する神経は、掛けられる心優しい言葉に相殺されていた。
けれど、その言葉に甘えて、騙す形になっていることに胡座をかいていたのも事実だった。
好意を無下にしてはいけない。向き合わないといけない。徐々に罪悪感が身を侵食していく中で、ひとつ見つけた綻びが全てをひっくり返して。
そんな真っ当な感情は、真っ当な身の上だからこそ成立し得るのだと、知ってしまった事実は伝えている。

調子に乗るなと神様が言っているんだろうか。
どこかで自分は浮かれていたのだろうか。

考えたところで答えが出ないことはよく知っている。要は自分の気の持ちようだ、こんなもの。
此処は物語の世界で、私はただの一読者にすぎない。キャラクターを騙すとか、騙されたとか、そんな話なんて至極どうでもいい。公安の彼らが何を考えていて、店長が私の何を報告していたのか、それらは全部全部全部、瑣末な問題なのだ。

私は、帰らないといけない。

大切なのはその一点だけだ。


「私は、」


此処に居てはいけない。
それだけが、唯一無二の、信じられる事実だった。





頭の中に記録された地図を広げて真っ直ぐ目的地へ向かう。何回も向かったその場所は足が既に覚えているのか、茫洋とした思考の中でも難なく辿り着くことが出来た。
東都環状線に乗ってふた駅。辿り着いた駅の改札を抜けて着いたのは、既に懐かしいというレベルとなった場所だった。

此処は、あの日、私がこの世界に来てしまった場所だ。

無作為に足を動かして、ぐるぐると付近を歩き回る。雑多なノイズ、ブロックが敷き詰められて色が落ちたモノクロの世界。その非現実に落とされたあの一瞬の現象は此処で起こった。次元の壁を超えた不可思議な現象はあの時この場所で確かに自分の身に起こった現実だ。
風見さんと接触して以降、来ることができなくなっていた。変に勘繰られてはたまったものではない、と馬鹿みたいに取り繕っていたのに結局のところ懐疑の目を向けられているんだから、そんな私の思惑に意味なんてなかった。笑えない、本当に笑えない。

付近を散策して、そして胸中に灯る僅かな期待にかけてみる。その期待に、拳をぎゅっと握りしめた。
もしかしたら、また起こってくれるかもしれない。不可逆的要素がなくても、起こるかもしれない。
希望的観測だと分かっていても、近辺を歩き回ることをやめられはしなかった。
もし、もし、と。可能性があるのかないのか、発生確定条件があるのかないのか、何も分からない。それでも、ただただ歩いて歩いて…何十分かは歩き続けた。

時間だけが過ぎていく。無為な行為に、世界が自分を嘲笑っているかのように思えた。

「………なんで」

ぴたり、と足が止まった。視線の先は色鮮やかな現実で、その鮮明さが今の自分の現状を如実に表していて。
これは現実で、自分がここにいる。
お前はまだ帰れないよ、と色彩の世界が笑う。
変わらない。あの、モノクロの世界は出てこない。

「なんで、何も…」

何十分と歩いても変わらない現実に、勝手に口が紡いだ。


「何も、起こらないのっ!」


刹那、握りしめた拳を強い力で引かれた。同時に、「危ないっ!」と空を切り裂くような短い叫びが鼓膜に届き、私の身体はくんと引かれ、数歩ほどよろけたところで前方へ倒れこんだ。

え、まって、何。

「……は?、え」
「……馬鹿か!アンタ!!」

思考が錯綜して、まとまってくれない。目の前の現実に眉をひそめる。
なんで、コナン君が目の前で息を上げているんだろう。というか、なぜ君がここにいるの?学校帰り?
浅く呼吸を繰り返すその姿に口を開けて呆けてると、隣から凛とした声がかけられた。

「こんな車通りの多い道で、赤信号の中、道のど真ん中にいるなんて、貴女、死にたいの?」
「……え、……あ…」
「彼が腕を引かなかったら、今頃トラックに轢かれてたわよ」

冷静沈着な声色に、徐々に現実の温度を肌が感じ始めて、呆けていた思考がクリアになった。振り向いたらけたたましい音を鳴らして多くの車が道を行き来していて。そういえば、点滅信号を渡っていたっけ、と十数秒前に見た信号機の色を思い出した。
確かに、側から見たらただの自殺願望者だ。コナン君は、道のど真ん中で立ち止まり、虚ろな目をしていた私を見つけて急いで腕を引いてくれたとのことだった。

「ご、ごめんねコナン君、大丈夫?」

危ない。未来有望な小学生、ではなく高校生探偵を交通事故に合わすところだった。背筋にひやりと冷たい汗が流れて、慌ててコナン君に謝罪したけれど、彼はキッと私を睨みつけた。やばい、怒らせた。
鋭く咎める視線に思わずたじろいで、小学生が向ける視線じゃない、と年甲斐もなく狼狽したけれど、とにかく彼の怒りを収めるべく平身低頭の姿勢を見せる。

「ほんと、危ないことさせてごめ、」
「なんて顔してんだよ、アンタッ」

謝ろうとして、彼の言葉に、最後まで謝罪は口にできなくて。途中で止まった代わりに、私は「え」と目を丸くした。顔?なんだそれ。
何を言っているのかよく分からなくて、首を僅かに捻った私にコナン君は畳み掛ける。

「そんな、全部諦めたような顔…なんで、そんな顔してるんだよッ…なんで、そんな死にそうな顔してんだよ!」

半ば叫ぶようなコナン君の声が鼓膜をびりびりと揺らした。その言葉を受けて、意味を考えて、そして更に首を捻る。
悔しげに顔を歪めて私に感情をぶつけてくるコナン君に対して、無情なほど私の方は無感動だった。

なんだ、それ。

急速に、胸のあたりが冷え込んだ。
そもそもどんな顔だ。全部諦めた、て何。諦めてるどころか縋っています、現状は。戻りたいからここに来て、探しているだけだし、そもそも此の世界は私の居場所じゃない。帰るべき場所に帰りたくて、帰らなきゃいけなくて、なのに死にそうな顔ってなんだ。

「……なあに、それ」

物語の主人公だからって、何が分かる。

「よく分からないなあ。私、死にそうな顔なんてしてないよ」

私の何を、彼らが知っている。

渦巻く感情はひどく不愉快で、これがただの八つ当たりしたいだけの醜悪な感情だということは頭では理解していた。大人のくせに、高校生探偵よりも大人で、社会人で、彼らを庇護する立場の強い大人。冷静にならなきゃいけない大人な筈なのに、湧き上がってくるのは助けてもらった感謝の念ではなく、彼の善意を踏みにじる鋭利なナイフのような悪意だった。

「ならなんで、あんなとこで立ち止まったんだよ、轢いて下さいって言ってるようなもんだろ」
「ぼうっとしてたんだよ。よくあるでしょう」
「ッ、アンタはっ」
「助けてくれてありがとう。もういいかな」

善意がひどく痛くて、身にしみて、耐えられなかった。コナン君の真摯な瞳は決して濁っていないのに、燻んだ私の感情は彼の瞳を受け入れられるほど、今、澄んではいない。
今の私に、彼の真っ直ぐな感情を許容できるスペースは残されていないのだ。
コナン君を立ち上がらせて、自分も服についた埃を払う。早く、早く帰らないと。焦燥感に掻き立てられて、考えるより先に身体がふらふらと彼らの横をすり抜けてまた彷徨おうとした。

「……きちんとお礼すら言えないの、貴女」

進もうとした身体は強制的に止められる。左手に感じたのは、柔らかくて小さな手の感触だった。
視線を下に向ければ、深い蒼の瞳が鋭利な視線を湛えて向けられていた。
小学生らしからぬ視線に、口端を僅かにあげる。

「二人とも助けてくれてありがとう」
「……感情のこもっていない言葉に意味はないわ」
「それはごめんね。感情を込めているつもりなんだけど、伝わらないのかな。申し訳ない」
「感情を逆なでするような言い方ね。まるで子どもだわ」
「はは、そうだね。私、大人気ないところあるんだ」

もういいかな、と振り払おうとした手を彼女、灰原哀ちゃんはそれでも離そうとしない。他人に心を開かない、警戒心の強い彼女にしては珍しい行動に薄っすらと目を細める。
信頼している工藤新一君が蔑ろにされたから怒っているのか。そういえば、意外と年相応の女の子らしい側面が彼女にはあったっけ。頭の構造は普通の社会人なんて比べ物にならないくらい複雑で優秀だけれど感情面ではまだまだ未成熟なキャラクターだったかな。無難に、もう一度コナン君に謝っとくか。怜悧な瞳を崩さない可愛らしいお嬢さんをどうにかしないと。

背を向けていた二人に振り返ってしゃがみ込み、視線を合わせる。目尻を下げた後に、私は口角を上げて口を開いた。

「本当に、ありが、」

とう、と紡ごうとした言の葉は、彼女によって遮られた。

「行くわよ」
「………へ……え、わ…え?」
「お、おい!灰原!」

唐突に進み出した身体に、思わず変な声が出た。
掴まれていた左手を強く握りしめられたと思ったら、哀ちゃんは私ごとずんずんと歩きを進めていった。ちょ、まってまって。なんで私まで連れていかれてるの?そこで呆けてるコナン君を引き連れて行くべきじゃないの、どうした。
目を白黒させる私は、え、え、としか言えなくて。まともな言葉を何一つかけることができないまま、私は哀ちゃんの背中について行かされた。


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