「そこらへんに座りなさい」

クールな雰囲気を纏う美人な女の子からそんなこと言われたら座りたくもなる。イエス、マム、と心の中で答えて私はテレビの前のソファに腰を下ろした。あ、このソファ凄くふかふかで気持ちいい。阿笠博士いいもの持ってるなぁ。というか、部屋の中お洒落だし、家広いし、清掃も行き届いていて素敵。

……じゃない。そうじゃない。

一人ツッコミを入れたところで、もう一度あたりをぐるりと見渡す。

(なんで私、阿笠博士宅に来てるの)

あの後、哀ちゃんに連れられて彼女が居住している阿笠博士宅までやって来た。右往左往する私を尻目に哀ちゃんは玄関を開けて入っていってしまった。お帰り、と出迎えた阿笠博士は突然来た私にたいそう驚いた様子だったけれど、哀ちゃんが一言、「この人と話があるの」といえば、おお分かったぞい、と奥に引っ込んでしまって、思わず「ええ…」と当惑した。分かったぞい、じゃない、分かるなよそこは、不審者かもしれないんだぞ、違うけど。

通されたリビングのソファに座りながらモジモジと足をすり合わせる。早く帰りたいけれど、それができないのは、哀ちゃんのほかにもう一人。

(きまずい)

目の前で顔をしかめて、渋面を前面に出した男の子が私を睨んでいるからだった。いつもの可愛らしい、江戸川コナン君、は鳴りを潜めて完全に工藤新一モードになっている。すごむとなかなか怖いあのモードだ。
さっさとトンズラしてまた歩き回らないと。何もせずにただ無為に時間を過ごしたくない。イレギュラーでい続けるのは、疲れるのだ。
どうやってこの場から離れようか思案していると、目の前の彼が大きく息を吐いた。はぁあ、と盛大なため息を見せつけられて目を丸くする私に、彼はじとりと視線を寄越す。

「お姉さんさ」
「うん」
「あの後、何かあったの」

何かあったろ、と副音声が聞こえる。目色から分かる問いかけに私は曖昧に笑った。

「何にもないよ」

私は、綺麗に笑えているだろうか。嘘つき、と別の私が私に嘲笑いかける。そんな冷笑を無視して、私はコナン君にニコニコと笑みを向けていたけれど、コナン君はやっぱり渋い顔を崩さない。
失敗したかな、と次の策を練ろうとすると、コナン君はため息を吐いた。

「何かあったの、て聞かれるとね、本当に何もない人ってなんていうと思う?」
「……ん?」
「《なんのこと?》て言うんだよ、質問の意味を相手が理解していないとね。でもお姉さんは、《何もない》て言った。何もない人は、そんな答え方しないんだよ」

あれ、こんなやり取りを私はどこかで見かけた。確か、あれだ楠田陸道のことを降谷さんがコナン君に聞いた時だ。あれは、知っているか、という問いかけだったけど。こんな感じで、問いかけに対する反応を見るやり方だった。
やっぱり聡明な子だな、とぼんやりとコナン君を見つめていたら、しびれを切らしたのか、彼が「お姉さん」と硬い声で私を呼んだ。

「僕も無理に聞きたくないよ。言いたくないことって誰にでもあると思う。けど、お姉さんは辛そうだ」

顔を歪めた彼が紡ぐ言葉はとても優しい。
ただ、今の私はそれを受け取る気力もなくて。

「……そりゃ、ね、コナン君。記憶が戻らないって不安なんだよ」

多分、と心の中で付け足す。実際問題、記憶喪失で不安なわけでも苛立っているわけでもない。
帰りたいのに帰れない。
此処にいるのに、いてはいけない。
自分ではどうしようもできない現実を、憂いているだけだ。それは誰のせいでもなくて、もちろん目の前の彼のせいでもない。
行き場のない感情に口の端が結ばれる。


「無くした方がいい記憶なんじゃない?」


私達の間に流れていた重苦しい空気の中に、晴れやかな声音が投じられた。明日の天気の話でもするかのような軽やかな口調でさらりとそう宣った哀ちゃんは、ウサギ柄のマグカップを片手に私を見遣る。クールビューティな彼女がウサギ柄のマグカップって可愛過ぎやしないか。
哀ちゃんは、コナン君の隣に座ると一口飲み物を口に含み、一度瞬くと、私に怜悧な視線を向けた。

「車に轢かれそうになるくらい思い悩むなら、いっそ無くした方がいい記憶だったと割り切ったらいいんじゃないの?」
「おい、灰原」
「記憶をなくしたままでも生活はできているなら、今のままで良いじゃない」

何だろう。哀ちゃんがやけに饒舌に喋っている。もともと、淀みなく自身の考えを言葉にするキャラクターだったけど、今の彼女は、寧ろ無理に言葉を紡いでいる感じがした。必要以上に他人と言葉を交わさない彼女にしてはやはり不可思議な行為。
何を伝えたいんだろう。小首を傾げた私に、哀ちゃんはふと瞼を少しだけ閉じた。顎を引いて、顔を下へと向けた相貌には、暗い影が落ちる。

「誰にだってあるわよ。無くしたいほど、辛い記憶なんて」

ぼそりと吐かれた言の葉に、思わず目を見開いた。小さく息をのんで、哀切を語るその顔を見つめる。

その切なく、哀を秘めた瞳は、知っている。彼女が何故、その瞳に侘しさを湛えているのかを私は知っている。
無くしたい記憶、消したい記憶、その記憶を私は紙の上で見てきた。妹を守ろうとして死んだ彼女の姉の最期を私は見たことがある。
宮野明美。その存在は彼女にとってとても大きく、そしてその死は、彼女が最も消したい記憶の一つだった。姉の死に涙して、崩れ落ちた彼女の姿はしっかりと私の脳裏に刻まれている。
しかし、奇しくも宮野明美の死は、彼女が灰原哀として生きる契機となった。彼女の死が覆されていたら、きっと赤井秀一が自責の念に囚われることも、灰原哀が存在することもなかったはずだ。
自身への遣る瀬無い感情を吐露した哀ちゃんの心中を推し量ることはできない。記憶を無くして、灰原哀個人として生きることができたら幸せかもしれない。その想いを、彼女は何度抱いては畳んできたのだろう。

そんな哀ちゃんの言は、私の胸に少しだけ刺さった。

「……そうかもね」

記憶を無くすことができたら。誰も、私自身すら私のことを知らない、ただの刀海洸として生きていけたら、そんなあり得ない未来に自嘲する。
そうすれば、もしかしたらこの苦しみから解放されるかもしれない。先回りして思考することで、自分を傷つける必要も無くなったのかもしれない。

「なくしたまま。このまま、別人になってしまえば良いのかも、ね」

物語の中に組み込まれてしまえば、笑うことができるんだろうか。
ありもしない可能性に顔を歪め、苦笑した私にコナン君が首を横に振った。

「そんなわけないよ」

それは強い意思のこもった声だった。
気怠げな視線を彼に合わせれば、大きな瞳から意志の強い焔が溢れてて、思わずひとつ瞬く。

「それが最善なわけない」
「……どうして?」
「……決まってる」

真っ直ぐ、心を射抜く視線に捕らえられた。

「お姉さん自身、それを望んでない」

確信を持った瞳に胸が詰まった。嗚呼、この子は本当に聡明な子だ。こみ上げた情動をぐっと堪える。

わかっているのだ。まるで別人になるようなあり得ない未来があり得たところで、私はきっとそれを選択しない。
そっ、と左手に右手を重ね合わせて、私は自分の体温を確かめた。
今ここにいる私は、あちらの世界で構成された。数多の経験、出会い、感情、生きてきた凡ゆるものが刀海洸を形作っている。それらは記憶という形で私の中にあるのだ。
不測の事態により、私から記憶が削ぎ落とされてしまうのならまだしも、私が私である限り、私自身を否定はできない。否定することができていたら、そもそもこんなに悩んでいない。
思い悩んでいる今が、私がその選択をしないことの証明だ。

「コナン君は、凄いなぁ」

ぽつりと本音が漏れる。

彼は私がどれだけ取り繕おうと、どれだけ嘘を重ねようと、折り重なった虚言を一枚一枚剥がして真実に近付いてくる。その優しさが、とてもとても心に染み渡るけれど、間に受ける勇気なんて今の私にはない。
作られたはずのキャラクターなのに、今目の前にいる彼はひどく活き活きとしていて、というより私よりずっとずっと、生きている感じがした。死んだ魚のような目になってしまった私の方が今は活力がない。それもそうか、この世界は現実であって現実でない、まるで仮想空間のような世界なんだから。

大きな瞳が私を見つめる。逃げたくて、帰りたくて、向き合いたくなくて、此処にいるべきではないと思い込んで殻に閉じこもろうとする私のことなんて、彼は、その大きな眼(まなこ)で全部見通している気がした。

「……ねえ、お姉さん」
「ん?」

私が小首を傾げると、コナン君はポケットをごそごそと漁った。何だろう、と見遣った私にコナン君は、スマートフォンを向ける。

「これ、僕の番号」
「……うん?」
「アプリに登録しといて欲しい」

ずい、と身を乗り出す彼に少しばかり驚いて、ぱちぱちと瞳を瞬かせて固まってしまった。急にどうした。
「えっと、」とコナン君の意図を汲み取ろうと思考を巡らせようとしたけれど、それに被せるようにコナン君が続ける。

「僕からはかけないから」
「え?」
「お姉さんが助けて欲しいと思った時に、かけて欲しい。必ず力になるから」

きちんと視線をそらさずに、でもその瞳には彼の人柄の良さ、優しさが映っている。
僕からはかけない。その意味に彼の人柄が垣間見えた。盗聴器の件の時も、彼は怪し過ぎる私の素性を追求することもなく、こうやってきちんと逃げ道を用意してくれた。今回もそうだ。あくまで私の意志を汲んで、その上で提示する。
何かあって、その手を伸ばす時、必ず手を掴んで引き上げる。

「……ありがとね、コナン君」

でもごめんね、という言葉は口に出さずに胸にしまった。
その心遣いが、やっぱり私には痛くて。眉尻を下げて、罪悪感と共に吐き出された感謝の言葉に、コナン君はそれでも強い意志のこもった瞳を曇らせなかった。

眩し過ぎる光は、時折、目が眩んで直視できなくなる。今のコナン君は私にとってそうだ。
帰りたくて、帰る方法を探していて、そのために嘘を吐いて世界に順応しようとした。けれど、店長の嘘が発覚して私の認識は変わった。

きちんと向き合うのは、怖い。

彼の言葉に嘘偽りはなくて、述べていることが真実しかなくても、私が纏うのは虚言のレースだ。暴くのも、暴かれるのも、どちらも良い結果を生むとは限らない。

何かに縋るのも、向き合うのも、ましてや大切なものを作ることなんて。

この世界と私の関係を繋いでしまうものを持ってしまうのは、怖かった。





「じゃあ、またね」
「うん」
「……君も、ありがとうね」
「………ふん」

ツン、とそっぽ向いた哀ちゃんに力ない笑みを浮かべる。そりゃそうだ、小学一年生に八つ当たりをしたんだから当然だ。
内心肩を落としつつ、でも、しゃがんで彼らに視線を合わせる。

「本当に、ありがとう」

優しさを受け入れられない私を気にかけてくれて、手を差し伸べると誓ってくれて。
そんな思いを込めて精一杯の笑顔を作るとコナン君は何か言いたげに瞳を揺らしたけど、結局口の端を結んだ。

確かに嬉しいと感じた心を置き去りにして、立ち上がる。「じゃあね」と二人に手を振り、阿笠博士に深々と頭を下げた。博士は辛気臭い私の相貌が気掛かりなのか、じっと私を見ていたけれど、最後には一言「いつでも来なさい」とこれ以上ないくらいの労りの言葉を送ってくれた。できた人だ、さすがこの子供たちの面倒を一手に引き受けているだけある。どれだけ邪険にされたり、揶揄われていてもきちんとした大人とはこういうものだ、見習いたい。

もう一度、頭を下げてから私は三人に背を向けて歩き出した。脳裏に蘇るコナン君の釈然としない表情にやっぱり胸がちくりと痛んだけれど歩みは止めない、止められない。ここで振り返って、やっぱり助けて、なんて手を伸ばすほど私は素直な人間ではないし、清い心も持っていないのだ。
ただ今一度、誠意ある優しさに胸中で感謝の言を述べようとしたら、がしり、とまた左手首を掴まれた。

「……どうしたの?」

そろりと振り返ったら、視界の奥に目を丸くしている阿笠博士とコナン君、下へと視線を移せば、クールビューティな彼女がこちらを見上げていた。その手の先は私の左手に続いている。
私を引き止めた哀ちゃんは、一切私から視線を逸らさずに紡いだ。


「貴女、気をつけないと本当に死ぬわよ」


小学一年生の忠告にしては重過ぎやしないだろうか。しかも美少女から言われてみろ、心臓が一瞬縮こまる。
そんな軽口を脳内で交わしてみたけれど、哀ちゃんの瞳に戯れは含まれていない。怜悧な瞳が私を射抜いた。
その言葉は、哀ちゃんからの紛れもない警告だった。一線を引く弱い私への警鐘。孤独を知っている彼女からの警告は真に迫るものがあって。

(そういうことか)

嗚呼、だからこの子は私を連れて来たのかと得心がいく。
元来、彼女は心優しい性格だ。自責の念にかられやすく、また、自身が絡むことで他人に危害が及ぶなら、その身を危険に晒すことを厭わない。強い子で、でも、とても脆い子。黒の組織に利用され、肉親を奪われて孤独になれてはいるけれど、非情なわけじゃない。
孤独を知る彼女だからこそ、私をここに連れて来てくれたのだろう。

小さな女の子の心遣いに、ふと笑みをこぼして私は彼女と視線を合わせた。

「……名前」
「……は?」
「名前、教えてもらえる?」

私は、刀海洸。
そう言って、答えを請う視線を向ければ、彼女はぴくりと眉をひとつ動かしたけれど、ため息を吐いて答えてくれた。

「灰原哀よ」
「そっか、哀ちゃんか。……そうしたら、哀ちゃん」

私は道路に膝をついた。そうして、目の前の幼い肢体をゆっくりと己の腕の中に収めて、抱き締める。「ちょっと!」と上がった抗議の声は聞かないふりをして、少し腕の力を強めた。

「ありがとう、大丈夫」

ぽんぽんと背中を叩いて、頭を撫でて、紡ぐ。

「大丈夫だから、ね。ありがとう」

何が、大丈夫なのか。何に対して、ありがとうなのか。それを言葉にすることはできない。喉元まで出かかっていたとしても、それは吐露してはいけない心情だ。

大丈夫、大丈夫。
私は大丈夫。

自身に言い聞かせるように、幼い彼女の身体を抱き締めた。


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