沼に落ちる、という言葉を思いついた先人は天才だと思う。池とか湖とかではなく、沼。沼と言って想像するのは澄んだ水ではなくて濁った少し粘り気のありそうな、土混じりの汚水。底なし沼という言葉がある通り、沼に落ちれば簡単には抜け出せない。そこに落ちた住人達は、おいでおいで、と沼の淵で底を探ろうとする人間を手招きし、あっという間に捕まえて引き摺り込むのだ。
 私も、その一人だった。沼の淵に立って、でもうんうんと思案していた。別に底を見なくても良くない?だなんて釣れない態度をとりつつ、チラチラと視線を落として様子見。くるくると縁を歩き歩いてまた視線を落とす。
 そのうちに、沼の住人がそろりと差し出したブツに私と同じようにくるくると沼の周りを回っていた様子見人達は次々に沼へと落ちていった。え、待って落ちるの早くない?と目を白黒させていたら今度は落ちた人間が沼の住人となって手招きをしているのだ。なんだ、この恐ろしい空間は。ここになにがあるというのだ。
 そう思ってしまった私を、住人達は引きずり込んでしまった。あれ?と思った時にはもう遅く、気付けば私は住人として沼の中の世界を存分に楽しんでいた。

「いみ、わかんない…やばい、尊い」

 最近ずっとこれだ。ここ最近の私の口癖は、やばい尊いしんどい辛い、語彙力の消失甚だしい。いや、でも仕方のないことなのだ。言葉の海から適切な言葉を探し出そうとしても表現なんてできない。そんな表現ができるほど、彼は凡人じゃない。

「トリプルフェイスってなんなの。ほんと意味わからないから」

 昔から、スパイものの映画や小説、アニメが好きだった。秘密警察、諜報機関、スパイ、潜入、日の目を浴びずにしかし影で暗躍する人達のプライド、ストイックさには脱帽する。富や名声のためじゃない、ひとえに己の信念や自負のために危険な仕事に従事する人達には畏敬の念を払わずにはいられなかった。
 そんな中で出会ってしまった、現代日本が舞台となっているアニメの中の住人。所詮アニメ、されどアニメ。アニメといえどもかっこいいものはかっこいい。
 安室透、降谷零、バーボン。三つの顔を使い分ける公安警察のエース、たぶんキャリア組。現実にこんな人いたらもはや日本じゃなくてMI6とかFBIとかCIAに行くんじゃないんだろうか。しかし、彼は日本という国を愛している。ううん、やっぱりかっこいい。
 そんな彼が愛している日本、その首都東京がアニメの聖地となっている。正直、聖地が東京で良かった。他県だと一度どこかで乗り換えるとか空の直行便がないとか何かと不便だけど、日本全国東京との直通便は存在する。
 キャリーバッグには一週間分の旅行道具。片手には聖地巡礼用の資料。いざ出陣と空港で飛行機に乗り込み一時間。

「聖地巡礼〜、来ました!」

 やってきましたここは東京。地理は分からずともネットで聖地巡礼マップを作ってくださった都内の友人のおかげで、地下鉄の種類や乗り換え方法などは把握済み。ただ、〇〇区から〇〇区までどの程度の時間がかかるとかは、やっぱり住んでいない分把握ができない。
 会社の上司には、今期になって勤続年数5年経過となる社員に送られる特別有給休暇を申請してきた。1週間だけしか貰えないけど国内旅行としては十分な日数だ。初日は朝一、最終日は1番最後の便で帰れば一通りの場所は回れる。誰かと回るのも良いかと思ったけれど、旅行は一人の方が好きだ。想いを馳せながら時々悶えつつ巡るのは一人じゃないとできない。
 羽田空港に着いてモノレールに乗る。何これ超楽しい!なんてキャッキャと一人静かにはしゃいで、とりあえずキャリーケースを置こうと新宿にあるホテルへ向かった。チェックインをしたこのホテルに1週間滞在することになる。るんるん気分でホテルを出て、まずは新宿観光。テレビでよく見る人の波やビル群のほかに、よく事件の舞台にもなる都庁も見学してみた。展望フロアからの見晴らしは良くて、東京広い!ビル沢山!、と田舎丸出しの反応をしてしまった。
 続いては山手線に乗って、小五郎の事務所があるという架空の街、米花町付近とされる高田馬場に向かう。上りと下りどちらに乗れば良いか分からずに取り敢えず乗ったら逆方向に動いたから慌てて降りて乗り直し、ようやくたどり着いた駅のホームで大きく伸びをした。抜けるような青空、快晴が心地よい日で良かった。
 聖地巡礼はやっぱり楽しい。実際にキャラクターが生活している、その空気を感じることができるのが醍醐味だ。
ここら辺をコナン達も歩いているのかな、なんて考えながら付近を散策。地元とは違う都会独特の雰囲気を味わっていた、

 その時だった。

(あ、れ?)

 一瞬、ほんの一瞬だけれど、ジジッと視界が揺らいだ。揺らいだ、という表現が正しいのかは分からない。なんせ一瞬だ。色の付いていた世界が僅かにモノクロになって、同時に、雑多な音が入ってきていた耳には無音が広がった。
 まるで、世界から自分が隔絶されたように錯覚する。
 え、なに、と瞬いた刹那、その妙な違和感は跡形も無くなっていて、先ほどと同じ光景が目の前に広がっていた。人の喋り声、車の音、信号機の音、雑多な生活音が耳に届く。網膜に映し出されるのは色鮮やかな街並みと純度の高い青空だった。
 一体なんだったのだろう。首を傾げても目の前の光景に変化はなくて、天気が良いから日差しにやられたのかな、なんて思いながら足を進めた。

「んー、ここ何処?」

 おかしい。私は地図を片手に唸った。詳細な地図にもかかわらず、建物の配置や道が何故か違っているのだ。最新の地図用意しとくね、なんて言われて作ってもらったものだ。間違いはないはず。だというのに、建物の場所が絶妙に違う。
 これは弱った。東京の地理なんて分からない。地名なんてもっと分からない。今自分がどこにいるかすら明確に分かる情報は、スマートフォンのGPSだけだ。
 取り敢えず、少し大きな通りに出て確認しようと細い路地を抜け出て画面から顔を上げた。


(……え?)


 上げた視界に、あり得ないものが映った。眼に映る情報が脳に伝達されて、それを拒絶するように首が振られる。あり得ない、嘘、と唇が震えた。紡ぐことのできる言葉はその程度だった。
 だって、そうでしょう。あり得ない、嘘だよ。


「米花町…?」


 《毛利探偵事務所》《喫茶 ポアロ》《米花町》
 建物の窓ガラスに書かれた文字が、道路標識に記されている場所が、あり得ないもの、だった。
 夢か何か?さっきのよく分からない違和感の時にもしかしたら私は倒れてしまってここは夢の世界になっているのか。何度見てもそれは視界から消えることはなくて、信じられない光景に思わず事務所の前まで近付いた。コンクリートの部分を触って、大きな窓ガラスを触って、肌でその感触を確かめる。指先に伝わるのはガラス特有の無機質な冷たさで嫌にその感触が現実を告げていた。

「……そう、だ。ケータイ」

 徐に片手に持っていたスマホで位置情報を確認した。なぜか位置情報は取得できて、でも、その位置情報に記されている現在地はやはりあの物語の舞台の名称だった。
 目の前の光景と、画面に記される情報が、なんだかよく分からなくて。意味がわからない。何が起こって、どうして私はここに居て。だって、聖地巡礼のためにここに来たのに、ならここは聖地?時空でも飛び越えた?馬鹿じゃないのあり得ない。
 こんがらがる頭でもとりあえずケータイが機能していることだけには安堵して。そこで思い当たる。
 急いで電話帳やメール、電話の履歴を確認した。

「よかった。ある」
 
 そこにはたしかに今までのこのケータイに入っている情報があった。友達からのメールも、親からの電話の履歴も、何もかもある。
 その事実に、ほっと胸をなでおろし、息を深く吐いたのもつかの間だった。

「……なに、これ」

 ジジ、と画面にブロックノイズが散りばめられた。日本語で書いてあったはずの連絡先が意味のわからない記号に変換される。
 なに、なにが起きているの?
 混乱する頭のまま慌てて画面をスライドさせるけど、タッチパネルが馬鹿になっているのか全く反応しない。待って、待ってよ。焦りで思わず声に出た言葉は無機物に届くことなく、プツンと無情な音とともにノイズがやんだ瞬間、画面に出てきたのはまっさらな連絡帳だった。
 心臓が早鐘を打ってうるさい。嫌な汗がこめかみを伝った。慌てて電話履歴とメール履歴、私や私に関係する人との繋がりを探そうにも、どこにもなにも見つからない。まるで、今このケータイを渡されたかのように、なんの痕跡も見つけることができなかった。

「嘘、でしょ」

 なにがなんだか、分からない。自分の存在を証明する全てが消されているようで、焦りと不安が一気に押し寄せた。
 怖い。こわい、こわい。
 自分の存在、という部分にハッとする。慌ててバッグの中にある免許証や保険証、社員証を取り出そうとしたけれど、嫌な予感は的中した。
 ない、のだ。肌身離さず持っているそれらのものだけがカバンからなくなっている。
 財布に入っているのは多めに持ってきた現金だけ。キャリーケースにも割と沢山の額を現ナマで入れているけれど、足りない分はカード支払いにしようとしていたのに、ない。通帳もカードもクレジットカードまで、全てなくなっていた。
 血の気が一気に引いて、呼吸が荒くなる。とりあえず大切な現金だからとバッグにしまったけれど、どうしよう、と不安だけが募った。スマートフォンの画面に、ドッキリでした、なんて表示されて夢から覚めたらどれだけ、良いのか。

「どうしよ…」

 私はいったい、どこへ巡礼に来てしまったの?

 途方に暮れていた私の耳に、からん、と鈴の音が聞こえた。



「あの、大丈夫ですか?」



 背後からかけられた声に身体が異常に反応した。いや、反応せざるを得なかった。
 だって、聞いたことのある声だ。その声音はハマった時から散々聞いていた。あの相貌、唇から紡がれる音のひとつひとつを聞き逃さまいとテレビにかじりついていた。
 どうしよう、どうする。思考がまとまらない。分からない。ゲームなら正解の選択肢があるのに、今ここにはそれがない。選択肢が何なのかも分からない。もう一度、大丈夫ですか、と、聞かれてまとまらない思考で咄嗟にできることといえば、

「は、い。大丈夫です、たぶん」

 緩慢に振り返る。視界の先におそらくいる彼に動揺しないようにゆっくりと視界の端に捉えてから、彼に向き合った。
 嗚呼、大変見目麗しゅうございます。

「そうですか?なんだかとても気分が悪そうだったので、体調が悪いのかと」

 目の前に広がる光景が、現実を伝えている。
 褐色の肌、淡い金髪、物腰柔らかな青年はひどく心配そうに私を見ていた。
 ドクンドクンと大きく脈打つ心臓の音が目の前の彼に聞こえてるんじゃないかと思う程度には動揺していた。

「いえ、その…ちょっと落し物をしたみたいで、どうしようかと思ってただけです」

 落としたものが多すぎてキャパオーバーなのは伏せておこう。

「それはお気の毒に。どこで落とされたか分かりますか?」
「えー…と、うーん、ここの地理分からないからあまり…ですけど、まあ大丈夫です。大したことないです。お気遣いありがとうございます。それでは」

 じゃ、と相手の反応も見ずにスタスタと歩き去る。どこへいくわけでもないけれど兎に角此処から離れたかった。「あの、」という声が聞こえた気がするけどごめんなさい振り返っちゃいけない気がする。
 歩いている場所がどこかわからないけれど闇雲に歩きまくった。歩いて歩いて歩いて、ようやっと辿り着いたのはどこかの公園で、ひと気のないそこのベンチにへたり込んで、大きく息を吐いた。
 心臓に悪いにもほどがある。
 意味わからない現状の把握さえできてない時に、目の前に出て来てほしい相手じゃなかった。

「なんで、いきなり出てくるの…」

 顔を覆って、あーとか、うーとか、わけのわからない擬音を吐き出した。
 降谷零、が演じている探偵、安室透。
 まさか聖地巡礼のきっかけになったキャラクターが目の前に現れるだなんて予想していなかった。よくよく思えばふらふらとあんな場所に来て、建物を触っている人間なんて怪しいことこの上ないから不審に思って出て来たんだろうけど、それにしても心臓に悪すぎる。
 咄嗟に出て来た言葉は無難なものだった、と思う。下手にペラペラ喋るよりさっさとその場を離れたかった。状況把握ができてなかった状態で、すぐさまあそこを離れる言葉を思いついた私を誰か褒めてほしい。
 はぁあ、ともう一度長く深いため息を吐ききって、パチンと両頬を叩いた。痛い、ヒリヒリする。次いで、もう一度カバンの中身を確認した後に、ケータイの履歴などを確認。更に、GPSで現在地と周辺地域の地名を確認したあとに、電柱に記された地名を合わせて確認する。
 全てを確認し終えたところで、私の中での仮説が現実のものとなっていることを確信した。


「リアル聖地巡礼かよ」


 沼の住人は、聖地へと足を踏み入れてしまったようです。


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