『洸ちゃんはこの本が好きだね』
パタンと閉じられた絵本の世界と同時に頭上から降ってきた声に首をこてんと横に傾げる。その言葉の意味を考えたけれどよく分からなくて、傾げた首を元の位置に直した。
本は好きだ。色んな世界を見せてくれる。本の中では、小さな子どもでも主人公になれるし、強くて勇気ある大人にだってなれる。沢山の世界に入り込んで、自分も文字の中で浮遊して世界に浸るのはとても楽しかった。
特に、この本は特別だ。すりすりと背表紙を指の腹で擦ってにんまり笑う。
冒険譚は私の心をひどく擽る。物語の主人公達はいつだって色んなところに飛び出していく。大海原に、大草原に、時には、そう全く違う別世界へと。そんな話に、ウキウキドキドキ、わくわくが止まらないのだ。
私も、此処じゃない何処かに行ってみたいな、なんてくすくす笑う。
『違う世界に行きたいの?』
うん。きっと楽しいよ。
高鳴る胸を全身で表現する。パタパタと足を動かして、高揚する気分を伝えた。むしろ、憧れたことのない人なんているの?
『そうだね、外の世界には行ってみたかったね』
ほら、やっぱりそうだ。誰だって、いつもの自分と違う主人公に憧れるし、全然知らない世界に飛び込んでみたいんだ。
夢を見るような世界に憧れて手を伸ばす。何にだってなれて、何だってできて、そんな世界はひどく眩しくてキラキラしてるんだ。
『でもねえ、洸ちゃん。隣の芝生は青い、て知ってる?』
芝生が青い?どういうこと?
聞いたことのない言葉に首を捻った。顰められた私の眉にくすりと笑みが向けられる。
『いいな、て思ったものは、手に取ってみるとそうでもないことが多いんだよ』
そうなの?でも、いいな、て思ってたんだよ?いいな、て思ったものが良くないなんてあり得るかな。
むすっと剥れると、頭に暖かな掌が乗せられた。
『行ってみたいけれど、でも、それだけでいいんだよ。きっとそれがいい』
嘘、嘘だ。行かないほうがいい。夢を見ているだけで幸せなんて、そんなの嘘。見える位置にご馳走があるのに食べられないなんて絶対に嫌だし、きっとつまらない。
そうだ!
くるりと振り返って、見上げた相貌に笑いかける。
「あのね!───ちゃん!」
「なんだい、て言っても意味ないか」
はぁあ、とため息が溢れた。相変わらず、目を開けたら木目調の天井がこんにちは。今日もよく寝てたね、と歳月を感じさせる言葉をかけられている…気がする程度にはこの部屋に居着いている。
こちらに来てから、時折見る夢があった。確かこれは、あの熱に呑まれていた日くらいからよく見るようになった夢だ。懐かしいと感じる景色、人、溢れているのは陽の光のように穏やかな日常。
何回目だ、この夢。本当に毎度毎度飽きることなく私の脳は見せてくる、そのくせ、割と朧げなのだ。何となく祭りのような華やかさがあったな、とか、笑っている人がいたな、とかそんな曖昧なビジョンにため息しか出てこない。もうちょっと明瞭に覚えていないものか。まぁ、夢は覚えていないことも多いから仕方ないかもしれないけれど。
ただ、ひどく懐古の念を感じさせて、そして、柔らかな感情に包まれるような心持ちになる。そんな夢だったことだけは、感覚として分かる。
思い出せそうで思い出せない。元の世界の情景なのに、どうしてこんなに曖昧なんだろう。懐かしくて、暖かくて、でも少し胸が痛くなる。霞がかかった誰かを記憶の海から手繰り寄せたいのに、深海に沈んでいるのか幾ら浅瀬を探したところで見つからなかった。
仕方なく、上体を起こして意識をしっかりと覚醒させる。今日は出勤して、途中で秋穂さんが透析の為に抜けるから、片づけと仕込みの手伝いをしないといけない。米花町に行くのは夜でもいいだろう。夜道を女一人で歩くなという安室さんの忠告は記憶には残っているけれど、心にはもはや欠片ほどしか残されていない。
新しい一日は否応なくやってくる。こちらが何に悩んでいようと、何を感じていようと、何が日常で起ころうとやってくる。幸、不幸、どちらも平等に引き連れてやってくるのだ。
*
「……あの、秋穂さん」
「なあに、洸ちゃん」
「私はあまり行く意味がない気がするんですけど」
「そう?でも、気分転換って大切だと思うわ」
「はあ」
真っ昼間、おやつ時の午後三時。店から最後の客が姿を消して十分と経っていなかった。
洗い物がもうそろそろ終わる、という時に秋穂さんはバッグを片手に現れた。少しばかりお化粧をして、身支度を整えた秋穂さんが向かうのは病院だろう。透析治療の施設がある個人病院。いつも通りの時間だ。
「行ってらっしゃい」そう声をかけた私を秋穂さんがじっと見つめた。店長が口説き落としたと言われる漆黒の双眼が私に向けられて、思わず目を瞬かせる。え、なになに、私何かした?怪しい行動でもとった?怪訝な表情はおくびにも見せず、どうかしましたか、と朗らかな笑みで表層をコーティングしたら、秋穂さんが一言、
「洸ちゃん、一緒に行きましょうか」
コーティングされた表層にヒビが入った。
そんなわけで、現在私は病院への道をずんずん歩いて行っている、秋穂さんと共に。
どうしてこうなった。最近、人に連れられていく事案が多すぎる。私は決して犬猫ではないし、愛玩動物でもなんでもないのだけれど。ただ、こうして見目麗しい女性陣につれられるのは不幸中の幸いか、むさくるしいおっさんではなくて良かったのかもしれない。
……と、いうのは冗談だ。
「……秋穂さん」
病院の時間があるため、歩みは止めずに私は秋穂さんに硬い声で語りかけた。
「何か、話があるんですか?」
だからこそ、こんな半ば強引に連れだしたんだろう。おっとりとして、自己主張をあまりしない秋穂さんにしては不可解な行動だった。
秋穂さんはぴたりと足を止めた。前を向いているため、後ろにいる私はその表情をうかがい知れない。答えを待つように、私も歩みを止めて沈黙を保ったら、秋穂さんがくるりと振り返った。
「透析ってね、けっこう長い時間一人なの。だから、とっても暇なのよ」
爛漫な笑顔に思わず毒気を抜かれる。ぽかんと口をあけた私に、秋穂さんは構うことなくまた歩き出した。慌ててその背を追いかけるけど、私の心中には動揺が広がっていた。
相変わらず可愛らしい笑顔を浮かべる人だな、とかそんな月並みな感想を抱きつつ、言葉の真意は計りかねる。暇だから一緒に来い、なんて人を慮る秋穂さんが本心から言うとは思えない。
店長よりよっぽど取り繕うのが上手な人だな、と半ば感心しながらそれでも不信感は拭えない。
秋穂さんの行動の意味が分からないまま、私は彼女の後をついて行った。
病院の透析治療室は個室だった。患者のプライバシーや病態に配慮している病院ならしく、治療中の面会も許可されているとのことだ。秋穂さんは受付を済ませると、私を手招きして病室へ連れて行ってくれた。
ベッドに横たわった秋穂さんの腕に針が刺される。針に繋がった管を通して血液を専用の機械で浄化させ、また体内へと戻していくのが透析治療だ。腎機能が一定の値まで下がった人に必要となる治療で、秋穂さんは週三回、およそ四時間の治療を受けている。
ぐわんぐわんと機械が音を立てて、電光板に数値が示される。看護師さんはそれを確認すると、何かあったら呼んでください、と言って部屋を後にした。
会釈をして見送ったところで、改めてぐるりと部屋を見渡す。暇つぶし用なのか、テレビのほかにはDVDプレーヤーもある。四時間ここに缶詰なのだから、確かに暇といえば暇かもしれない。
「良い病院でしょう。ゆっくりできるし、何より皆さんとても優しいのよ」
秋穂さんは、きょろきょろと室内で視線をさまよわす私を見て柔和に微笑んだ。そうですね、と反射的に笑みを零した私は秋穂さんの方に顔を向ける。
しかし、視線が交錯した瞬間、秋穂さんは微笑みは崩さず、しかし、含意のある瞳を私に向けた。視線は饒舌に人の心を語る。
──やっぱり、ただの暇つぶしなんかじゃない。
外されない視線に、私は確信した。
「あの、秋穂さん」
震える声音で、その名を呼ぶ。何か言わないと、と思わず口を開いた。
けれど、一向に言葉は出てこなくて、「あの」とひとつ漏らした後に私は閉口してしまった。
言葉が上手く思いつかない。その場凌ぎでも良い、何か話題を振らないと、と思っても、焦燥感が募るだけで具体的な台詞は何一つとして私の頭に降りてはこなかった。そつなくこなすのは上手かったくせに、どうしてこうした肝心な時だけポンコツになるんだ。
紡がれない言葉に居たたまれなくなって、私は視線を落とした。
いったい何の話だろう。世間話なら良い。そう思いながらどこかで私の胸の奥に不安が渦巻いていた。
店長と風見さん、公安の協力者、密入国者を出入りさせていた過去、私への不信感、嘘。
いろいろな事実が私を取り巻いていて、心が黒く塗り潰されていく。
何を聞かれるのか、何を話されるのか。
全て割り切って、帰ることだけに集中して、この世界との繋がりなんて裁ち鋏でぶちぶちと切っても良い、そんなすれた思考で過ごそうとしていたのに、いざ目の前で秋穂さんから言葉を受けるとなると、途端に気の弱い私が姿を現した。
秋穂さんの唇が動く。発せられる言葉に私は身構えた。
「洸ちゃんは、偉いわねぇ」
……偉い?偉い、て、あの偉い?
それは、思っていた言葉とは違って、構えていた私は目を丸くする。うんともすんとも、感嘆文のひとつも口から出すことができずに、私はぱちぱちと目を瞬かせることしかできなかった。
きょとんと小首を傾げると、秋穂さんは困ったように笑う。
「なんにも知らないところに来て、働いて、でも、一度も泣き言なんて言ったことはないだなんて、偉いわ」
穏やかな口調で確かに私を褒めてくれる秋穂さん。でも、私の頭の中はそれを素直に受け取るほど真っ白ではない。すぐさま、言葉の意味を真意を無意識に脳は探っていく。
なんで秋穂さんはそんなことを言うんだろう。何の意図があるんだろう。何かを探りたいんだろうか、知りたいんだろうか。店長から頼まれたんだろうか。それとも独断だろうか。
憶測が巡って、でも猜疑心に埋め尽くされた思考に首を振りたくなる。違う、秋穂さんはそんな人じゃない。でも店長は嘘を吐いていた。公安の協力者だった。なら秋穂さんだって何か知っているはずだ。ならこの言葉の意味は?
堂々巡りな意味のない問いに答えはない。真実は聞かないと分からないけれど、それを聞く勇気すらない。秋穂さんが何も知らなければ、私のこの疑心暗鬼な心はひどく醜いものになる。それを認めてしまうことすら怖いなんて、都合が良いにもほどがある。
シロの人をクロと疑って、穿った見方をすることは嫌なのに、やめられない。
嗚呼、いやだ。
「洸ちゃん」
秋穂さんの空いている掌が私の手の甲に乗せられた。「そんなに強く握っちゃ駄目」と諭されてハッとする。爪が手に食い込むほど、ぎゅっと自分の拳を握りしめてしまっていた。
「あ、の……はは、すみません。なんか、びっくりして」
びっくりして握りしめるなんてありえないだろうと自嘲する。言い訳にしては雑すぎた。
視線を秋穂さんに合わせられなくて、心臓はばくばく鳴っている。乗せられた柔らかな掌は暖かくて、心までその温度が伝わってくるのに、怖がりな私はそれを享受することができない。
半笑いになった口元を隠すように、深く深く俯く。顔を見られたくなくて、見たくなくて、もう一度、ぎゅっと手に拳を作った。
「大丈夫よ、洸ちゃん」
そんな私の矮小さなんて、どうだっていいという風に秋穂さんは穏やかな声音を向けてくる。大丈夫、大丈夫、と不安を溶かす陽光のような声に、緊縮していた体は弛緩して、掌の力が徐々に弱まっていった。鼓膜に響く音になぜかとても瞳が潤んで、それでも、決して一粒たりとも落涙はしたくなかった。
ひとつ、ゆっくりと目を閉じて開く。同時に、浅く息を吐いて、顔を上げた。
「不安に思うことなんて、ないんだよ」
「……っ」
微睡みに呑まれるような言葉。優しくて、ひどく瞳を揺らしてしまう声音。
私の不安、焦燥、全部分かってるかのような秋穂さんの言葉に、全てをさらけ出したくなる。
私は、此処にいて。でも、帰らないといけない。
くらりと傾きかけた理性を繋ぎ止めることに必死だった。
秋穂さんの目尻が緩んで、皺の寄った口元が嫋やかに笑んで、美しくそして陽光のような相貌が、ひどく眩しくて─
けれど、その微睡みは唐突に絶たれた。
「『洸ちゃん』」
「ッ、?!」
秋穂さんの唇が私の名を紡いだ刹那、キィン、と何かが頭の中で明滅して、金属音のような音が鼓膜を刺激した。明滅した光が視覚にも影響して、思わず呻き声を出す。
(な、に?)
かちかちと何度もフラッシュが炊かれたように見えては消えるその光景に思わず頭を抱えた。秋穂さんの輪郭に何かが重なって、二つがダブってぶれて、更に声まで重なる。
なに、これ。何の映像?
空いている左手で頭を押さえた私を、秋穂さんが「洸ちゃん?」と不安げに呼んだ。何度も呼ぶその声が遠のき、代わりに聞こえてきたのは似ているけれど違う、懐かしい声。耳に優しく、馴染んだ。
そう、懐かしい、声だ。
『洸ちゃん』
知ってる、これは知っている。聞き慣れたその声音に目が見開かれた。
ぐるぐると思考が渦を巻いて、膨大な記憶が脳裏を巡る。鮮やかな情景が視覚と聴覚を満たしていって、同時にそれは私の胸を締め付けた。
──嗚呼、そうだ、そうだった。
どうして、ずっと思い出せなかったんだろう。どうして、あんなにも夢の中で私に微笑んでくれていたのに分からなかったんだろう。
徐に、胸のあたりをギュッと掴んで、唇を噛む。秋穂さんと重なっていた影がやがて一つになって、朧げだった相貌が、今、鮮明に見えた。
秋穂さんに、孫みたい、と言われた時に感じたむず痒い感覚。それが何に起因しているかなんて、私には当然分かっていた筈なのに、なぜかそれが頭から抜け落ちていた。どうだっていい希薄な家族との関係は嫌というほど鮮烈に記憶されているのに、どうして一番大切な人のことを、私は思い出すことすらできていなかったんだろう。
熱にうなされたあの日から、繰り返し夢を見ていた。懐古の念に落涙するような、夢だった。過去を追想して、そこで思い出すのはいつだって一番濃い血縁の両親ではなく、いつだって、そこにいたのは私にとって忘れ得ない大切な人だった。
秋穂さんの声が届く。眉尻が下がって、心配そうに私を見る秋穂さんに、口角を上げて大丈夫と微笑む。その表情を自分の瞳に映して、記憶の中の大切な人を今一度呼び起こす。
そう、あれは──
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