夢を見た。

初夏の匂いが漂う頃、深緑が街を彩り人々が純度の高い青空と煌めく緑の対比に空を見上げるような時節。
住んでいた街は山々に囲まれた土地だった。真ん中には一級河川が通っていて、それは海へと続いている。東側が住宅や行政施設が立ち並ぶ地域、西側には企業のビルやオフィス、工業地帯のほか、新興住宅地も整備されていた。
川にかかる橋から見る景色は、とても壮麗だったことを覚えている。夏を運ぶ風に髪が揺れ、肌を刺す日差しに目を細めながら東側に位置する街を見渡すと、高低差がわずかにあるため街を見下ろすことができた。
直ぐ近くには、山々が連なり、稜線と空は深緑とスカイブルーでくっきりと色分けされている。その鮮やかな自然色の下には、人々が息づく街が広がっていた。都会ほど喧騒に支配されていない、どこかのどかさを感じる地方都市。時間の流れがゆったりとしていて、いつまでもその景色を眺めていても飽きなかった。
脳裏に蘇る鮮やかな景色に、何故だか胸がひどく締め付けられて。見慣れた景色のはずなのに、その場所はどこか遠い。手を伸ばしても届かない郷里のように感じられる。

目頭が熱くなった刹那、一陣の風が吹いた。


「……懐かしいなぁ」

そんなに経っていないはずなのに、もう随分と昔の景色のように思えるのはそこに帰ることのできる保証がないからかもしれない。少しばかりシミが目立つ木目調の天井を見上げるのも何度目になるだろうか。
布団から身を起こしたら、ふわりと風が髪を揺らして視線を横へとずらした。そういえば、窓を開けたまま寝てた。朝駆けに今日は一日快晴だとお天気お姉さんが晴れやかな笑みで伝えてくれていたため、昼前に洗濯物を干し、そのままご飯も食べずに布団に身を沈ませて、気づけば昼下がり。陽気な気候が、あの夢へと誘ったらしい。
うすぼんやりとした思考で窓の外を見つめる。見えるのは、隣の住宅の白い壁、この土地から見えるのは建物群ばかりで、稜線が美しい山々の景色も、緩やかな時間が流れる街の景色も、どこにあるのか分からない。

「……ねえ、どうして」

分からない。分からない。どうして、それがそこにないのか。どうして。

「どうして、私は」

此処にいるの。

零れた言の葉に、世界は答えてくれなかった。





「大丈夫?」という言葉に洗い物をしていた手が止まった。一心に食器を磨いていた私は丸くした目を、尋ねてきた秋穂さんに向ける。きょとんと首を傾げて「何がですか」と聞けば、どうにも心ここにあらず、という感じだったらしい。焦点の合わない瞳がどこか侘しげで、寂寞感を感じさせたということだ。ご心配をおかけして、申し訳ない。
思い当たる節は大いにあるけれど、私の設定上それを公にするわけにはいかないので、すぐに口角を上げた。

「何でもないですよ。ちょっと考え事をしていただけで」
「そう?なんだか思いつめていたみたいだけど」
「まさかまさか」

へらりと笑って「そんなことないですよー」と軽口でひらひらと手を振っても、秋穂さんは怪訝な表情を崩さない。常の笑顔を繕っているはずなのに、眉根を寄せている秋穂さんはとても鋭い人だ。思わず垂れる冷や汗を無視して、私はそろりと視線を食器へと直す。

ここ最近、私の胸を支配するのは焦燥感だった。一刻も早く帰らないといけない。その一点だけを突き詰めて来た。
初めは、上手く馴染んでいたと思っていた。嘘と真を綯交ぜにしながらも、人の優しさを享受してこの世界を生きていたと思う。だからこそ、馴染んでいた自分が少し怖かった。
契機となったのは、奇しくも自分に懐疑的な眼を向けていた彼らとの邂逅と身に起こった事件。そして、帰ることを切望する決定打となったのは、店長が吐いていた嘘。

何が嘘で何が本当か。
何のための嘘で、何のための真実か。

正解も不正解も分からない。そんな現実がひどく殺風景に見えて、もう、どうでもよくなった。他人も自分も、どうだっていい。ただ、帰ることさえできれば全てが好転する。

理解して納得している事実を咀嚼したところで、けれど、ふとよぎった侘しさに胸がぎゅっとなる。その原因は、きっとあの悪意のない声にあるのだ。
ちらりと秋穂さんに視線を移す。テーブル席を拭いている横顔を見つめて、先日の彼女の言葉を脳裏に思い浮かべた。

《洸ちゃんは、偉いね》

(……あれは多分、本心だ)

だからこそ、思い出せたんだと思う。秋穂さんの言葉は真実だったからこそ、私の記憶とリンクしたのだと、そう信じたい。耳に馴染んだ声音と秋穂さんの声が重なってそうして私は大切なことを思い出した。

でも、そうであるとしたらなおさら、秋穂さんには悪いことをしている。それを再認識して、胸がちくりと痛む。
秋穂さんは、私のことをよく見てくれている。人の心の機微をつぶさに感じ取る秋穂さんは私の心が曇らない様に配慮しようとしてくれている。そのことを、私は肌身に感じていた。

けれど、

(騙してるのは、私も同じ)

ふと、瞼を落とした。

秋穂さんが見ている私はコーティングされた私だ。嘘で塗り固められた身の上で私は秋穂さんに接している。
この世界は私のいるべき世界じゃない。私はメタフィジカルに論理をこねくり回す登場人物ではない、ただの旅行者だ。
旅には終わりがあって、旅人は郷里に帰らないといけない。気ままな旅なんて、現実ではあり得ないのだ。

『行ってみたいけれど、でも、それだけでいいんだよ』

(本当だね)

その言葉の真実性が、いまさら分かった気がした。
行った先がユートピアとは限らない。いつだって憧れるユートピアは、実際に地に足をつけたらただの現実に転がり落ちる。
ユートピアは、眩しいからこその存在なのだ。


「そういえば、休みを取るのは明日からだったかしら」

秋穂さんの問いかけに、思考の波に飲まれていた意識が戻って来た。顔を上げればいつも通りの笑みを浮かべてくれている秋穂さんと視線が合う。「そうですね」と手を動かしながら、カレンダーを眺めた。

少しだけ、思い出したかもしれません。

神妙な顔をして秋穂さんにそう言ってのが二日前。そこから、記憶を辿って旅行に行くと伝えたのはその日のうちだった。電光石火の早業で航空券を予約して、民宿もとった。我ながら行動が早かったと感心する。航空券も民宿も、連休とかにはかからなかったため比較的安く取れた。
三日ほど休みを貰って行くひとり旅。帰省とは言わない。だって、この世界のあの場所は私の故郷ではないから。恐らく、全く違うということはないだろうけれど、同じではない。
それでも、何かがあるかもしれないという曖昧な希望的観測は拭い去れなくて。どこまでもみっともなく私は願望に追い縋る。

思い出した情景を辿れば、そのまま向こう側に帰れるんじゃないか、なんて。

(あり得ないかどうかなんて分からないじゃない)

馬鹿馬鹿しいと嘲笑う自分がいる。そんな自分に冷眼を向ける私かいる。

ふと、秋穂さんに視線を戻せばかちりと瞳が向かい合う。すると、秋穂さんは少しばかり視線を彷徨わせた後に、「気をつけてね」とだけ弱々しい声で私に伝えた。
気を遣わせているんだろう。思い出したかもしれないから、行ってきます。だなんてなんといって送り出せばいいか分かるわけない。気をつけて、以外の言葉はどれも適切ではないのかもしれない。
「ありがとうございます」と仄かな笑みで応える。店の奥から顔を出した店長に、秋穂さんが駆け寄って何かを話している。店長とも視線が合ったので、ぺこりと会釈しといた。無言で頷いた店長に笑みを貼り付けたまま、視線を落として洗い物を再開する。

店長には旅行に行くことを決めた日にすぐに伝えた。店を休むのだから当然なんだけれど、私はもうひとつ確かめたいことがあった。





羽田空港から空の便を使って約一時間を要して着いた地方空港は相変わらずの過疎化の現実を如実に表している閑散ぶりだった。飛行機を一緒に降りた客はスーツ姿のビジネスマンが九割、席だって全部が埋まっているわけではない。悲しいかな、地方創生だなんて叫ばれていてもどこもかしこも現状は似たり寄ったり。インバウンド需要が高まり、個人旅行が増えたところで、こんなど田舎の地方都市に恩恵が波及するのは当分先なのだ。
故に、勿論空港内に利用客の迎えの家族や友人知人などはおらず、警備員や空港職員も手持ち無沙汰そうに談笑していた。キビキビ動いていた羽田空港の職員達と同じ仕事に従事しているのかと疑いの視線を向けたくなるほどの働きぶりである。都会の人ってやっぱり凄い。時間の流れが違う。

小型のキャリーケースを引いて空港の外に出る。バスの時刻を調べて、まずは一番大きな駅へ向かった。バスターミナルも隣接されている駅はこの地域で唯一交通の便が良い場所だ。
二十分ほどでついた駅の外観、そこから見える風景は何一つとして私の知っている地元と変わっていない。風の湿り気具合、行き交う車、人、凡ゆるものが既知の場所。記憶と違わない光景が逆に私の心を締め付ける。ちょっとくらい違ってくれた方が救われた気がした。

(まずは荷物かな)

駅の近くの民宿に予約は取っている。私が住んでいるマンションにほど近い民宿だった。ちなみに、マンション名はカタカナ一文字だけ違う名前だったから、たぶん、私の部屋は誰か他の人間が使っているんだろう。

似ているようで、別物のこの世界にやっぱり私はいない。

見せられる現実は私に事実だけを突き付けた。

民宿に荷物を置いて、私は取り敢えず自分の足跡を辿った。この世界に私は生まれていないのだから足跡を辿るというのはおかしな話なのだけれど、思いのほか私の知っている地元の風景だったのだ。
思い入れの薄い場所から足を運んでいく。通っていた幼稚園、小学校、中学校、高校。どれもこれも確かに私の世界にあった学校だった。おそらく私にまつわる部分だけが綺麗に何かにすげ変わっているんだろう。確かにそこで遊んで学んだはずなのだけれど、正直薄い記憶を手繰り寄せたところで大した思い出が蘇ってこないため、感慨もなく歩き去る。
自分のいた世界と何が違うのか確かめる術はないので、校舎は遠目で見るだけで終わった。

続いてやってきたのは、

「家の作りまで一緒かー」

間延びした声で見上げたのは、ごく普通の一軒家だ。ベージュを基調とした外壁、庭には桃色、黄色、色鮮やかな薔薇が咲き誇り来訪者を出迎える。
母は植物の手入れが好きだった。季節の花々を庭に目一杯遊ばせて甲斐甲斐しく世話をする。一度、世話を自分もすると申し出ると丁重に断られたことを覚えている。危ないから、という理由だったが後で父に母が愚痴をこぼすのを聞いた。折られては堪ったものではない、とのことだ。失敬な、誰がそんなヘマをするか。今思うと、大変失礼な話だけれど、当時の私はストンとそれをのみ込んだ。

あれ、こう思うとロクな記憶がないな。

さっさと離れてしまおうと踵を返して一歩踏み出した刹那、カランカラン、と馴染みのある音が耳に届いた。玄関扉を開けるときに必ず鳴る鈴の音。十八年間は聞き続けた音に、背を向けた身体が思わず百八十度回転した。反転した身体が、扉と向き合う。

(あ…)

そこから出てきた人物に私の身体は一瞬で緊縮した。

薄茶色の細長い髪は艶やかで、年齢を感じさせない相貌の一部となっている。薄化粧だというのに、皺なんて目立たない。陽光が降り注ぐ姿は、まるで太陽が彼女を祝福しているようで、シャワーホースを手に持って草花と戯れる様は女神のように可憐だ。

出て来たのは、寸分違わないあの人、私の母親だった。
家族から見ても美人な母親だ。相変わらず、一歩外に出るだけでも完璧に美麗な女性をコーティングする。その技術と執念には舌を巻いたけど、残念ながら私は母のパーツの何一つとして受け継いでいない、不良品だった。

思わずその場に佇立していると、ふと長い睫毛が上向いて、かちりと私に向けられた。視線が、交錯する。
何秒間か互いに見つめ合った。妙に心臓が早鐘を打つ。

───あれ、もしかしたら。

僅かな期待に胸がざわりと波打ち、しかし、すぐに凪いだ。


「……あら、どちらさま?」


ドチラサマ。どちら様。きょとんとまあるく円らな瞳が私を写して首を傾げる。嗚呼、相変わらず仕草まで可憐な人だ。
僅かに引きつった片頬を宥めて綺麗に口角を上げる。目尻を下げて、穏やかな様相を醸し出してみせた。

「いえ、素敵な薔薇だと思って見取れていたんです」
「あら、あらあらそれはありがとうございます。とっても嬉しいわ」
「ええ、とても大切にされているのがよく分かります」
「そうなの。花ってとても素直だし、綺麗だからついつい我が子のように思えたりして」

うっとりと熱視線を花弁に送る《夫人》に微笑む。側から見れば、美人と花なんて絵になる光景だけれど私の目から見るとそれはとても殺風景で。

(どっちが我が子だったんだろうね)

思いの外、私は家族という存在に不満があったのかもしれない。
私の目色なんて気にせず喋り続ける夫人に、情動を感じることはなかった。





思い入れの弱いところに行ったところで、何かが起きるとは露ほども考えていない。昂ぶった感情と共に私はこちらへ来てしまったのなら、それ相応の感動でもない限り戻れないんじゃないか。確証なんてないけれど、可能性はゼロじゃない気がする。
そう考えた私が行き着いたのは、地元でも特に過疎化が深刻な地域だった。バスの本数?一日数本。時刻表を見たら最終便が十時頃にあるということでひとまず安心した。
降り立った場所には申し分程度の街灯。チカチカいつ消えるかわからないそこに、無数の虫が光源を求めて喧嘩し合っている。バチバチ聞こえるこの音も懐かしい。

不夜城たる東京の街の正に対極に位置する場所に私は来た。そこは山間の町で、町といっても集落の感覚は五百メートルはある。清流が穏やかに流れる両脇、山の麓に点在する集落は一つにつき五、六戸の家々が密集していて、そこだけは一つ二つ街灯が存在する。が、基本的にまっすぐ伸びる一本道に明かりはない。

とりあえず、闇に向かって歩き出す。猪と鹿にあわないことだけを願った。
辺りは街灯すら機能を果たせないほどの明るさで、自分自身が漆黒に飲まれるような感覚に陥る。この地域の夜にはどこか畏れを感じるほどの深い闇が広がっていた。

それでも、私が感じるのは畏怖の念でも何でもない。

「なっつかしいなぁ」

両手を広げて、めいっぱい肺に息を吸い込む。雑味の含まれていない純度の高い、澄み切った空気を吸って吐いて。肌に感じる風は心地良く、広がる無音が私にとっては幻想的だった。
昼と夜で見せる顔が違う、片田舎。それは、まるで違う世界を私に見せているようでその顔に、いつだってわくわくした。帰省するたびに、私は、この景色を見たくて呼び出したのだ。

大切で、懐かしい人。

(おばあちゃん、だったんだね)

もう朧げではない。明瞭に脳裏に浮かぶのは、柔和な相貌の祖母の姿だった。

昔、祖母の家がこの地域のある集落にあった。県境に位置する集落、私が生まれた時には既に後期高齢者しか住んでいないような限界集落で、成人した頃には、Uターンで戻ってきた若い、それでも六十代の夫婦が住み着いたお陰で少しは平均年齢が下がったとのことだった。

集落は、バス停からの一本道をまっすぐ歩いたところにある。
湿り気を含む風を肌に受けて、歩みを進める。懐かしい、記憶に残る道と、あるかわからない私の故郷を見つけるために。


「道は変わってないんだ」

歩き始めて数十分。景色は代わり映えせずに、ひたすら闇夜が路を支配する。天空の星々と月が見下ろす地上には、彼らが零す僅かなおこぼれ程度の光だけが夜目を助けてくれる。
記憶の中と大差ない道だった。足が覚えているその路をまっすぐに歩く。

その中で、ふと、祖母との記憶が蘇る。

『洸ちゃん』

手を引いてくれたその柔らかな掌の感触が忘れられない。

父母と兄弟との関係が家族の絆なんて曖昧で不確かなものではなく、社会運営上の関係でしか語られなかった一方で、祖母は私に惜しみない愛情を注いでくれた。

いつだって、私の手を引いてくれて。
離れて泣いたらまた繋ぎ直す。

それがまるで、心の在り方を教えてくれたようだった。結んで解かれても、また結び直す縁のように、心の繋がりが掌に現れている。そんな、優しくて慈愛に満ちた、自慢の祖母だった。

(……この川)

足を進めていると、川のせせらぎが聞こえてきた。目を凝らして、音の方向へと足を進めると、一本の小川が見えた。月明かりが水面を照らしている。
夜目を凝らしてその川を見ていると、記憶の扉がまた開いた。

家族との関わりがビジネスライクになった私にとって、無償の愛、という概念を体現してくれた祖母は、親同然の存在だった。
ある日、川遊びをしたいと私は両親に相談した。川のせせらぎを聞きながら、清流に住む虫、自生する草花を見たかったという子供心を親は冷めた目で見つめた。

川で遊ぶなど、面倒で危ない。

妥当な判断だった。最もであると思う。危険なことに子どもを近づけさせないのは親の義務だ。
けれど、子どもの面倒を見ることを殊更に嫌った両親の返しに、素直に頷いておけるほど私は残念ながら良い子ではなかった。まだまだ、子どもだったのだ。
結果として、私は川へ一人で遊びに行き、足を滑らせた上、深堀にはまった。死ぬかと思ったけれど、雨による増水もなかったため、幸い、溺れはしなかった。
けれど、びしょ濡れになって帰宅した私に対して両親の反応はやはり冷めていた。

「面倒をかけさせるな、てなかなかショッキングなことを言うよね」

ケラケラ一人笑う。虚しい。

心配、という台詞は親から子にかけられることがあるということを私はテレビや漫画の世界で知った。心配したでしょ、なんて言う母親や父親のキャラクターに首を傾げた日々が懐かしい。
面倒をかけさせるな。両親は、口を揃えてそう言った。私も、ごめんなさい、と謝った。それが普通だったからだ。
社会の上位に位置する人間に、下位の人間が面倒をかけた。被扶養者は、扶養者に対して面倒をかけてはいけない。扶養者が被扶養者を扶養するにおいて、被扶養者は不必要な厄介ごとを持ち込んではいけない。
当然のようにその認識を刷り込まれていた私は両親の言葉を特に疑問に思うこともせずに聞いていた。ごめんなさいと謝る私の心に、感情はさしてなかった。
しかし、祖母は違った。温かなのは掌だけではなかった。
しっかりと抱きしめられた体躯。心臓の鼓動が耳元で響き、祖母の鼓動が早鐘を打っていたことを教えてくれた。夕餉の支度で忙しなく動いていた祖母は、全てをほっぽり出して私を探し、そして抱き締めてくれた。

大丈夫?怪我はない?痛いところはない?

《心配したのよ》

心配、という単語を掛けられたのは生まれて初めてというレベルで、当時の私はぽかんと口を開けて祖母を見ていたと思う。何をそんなに焦っているの、おばあちゃん。あまりに無神経な思考は幸い言葉となって口を出なかったけれど、今思えばひどく頭のネジが飛んでいるガキだ。
それでも、泣きそうな顔で私を撫でてくれる祖母の相貌に胸が軋み、そして暖かい心地を感じたことも、確かだった。

就職を機に都会へと羽ばたかなかった理由は、ここにあった。
親元を離れたくなかったわけではない。ただ、祖母と過ごした土地を手放したくなかった。
親を恨んでいるわけでも憎んでいるわけでもない。あの人達は、あの人達なりの愛情というものがあったからこそ、とりあえず、子どもの育成を全うできたのだろう。
ただ、あまりにも祖母の愛は私にとって眩しかった。

あながち、蘭ちゃんの言葉は馬鹿にできないと苦笑する。
おばあちゃんが懐かしい。もしかしたら、秋穂さんに孫みたいと言われた時からずっと心の片隅に追いやっていた子ども心が再び顔を出してきたのかもしれない。どこかで切望していた、誰かの温もりを無意識に求めていたのか。

(大人だから、て言ったのになぁ)

気持ちを言葉にしたくないのは、それでも私は大人だと自覚したいからなのか。自嘲した私は近くにあった小石を川に投げた。ぽしゃんと石が川面に跳ねた音の後、川魚が驚いて跳ねたのかもう一度、木霊のように音が響いた。


昔を思い起こしながら歩く道すがら、懐かしい思い出が蘇る箇所がいくつかあった。おばあちゃんと歩いた道、走った坂、虫取りをした林。沢山の思い出の欠片が散りばめられている景色に心が躍る。
違うところを見つけることに苦慮する状況に苦笑した。

集落の下手に位置するお宮の階段付近に、日露戦争の戦勝記念碑がある。そこでの思い出もあって、歩き疲れた私はおばあちゃんとしりとりをして遊んだのだ。

「……こんなところまで、同じなんだ」

苔のついた石碑、字体も同じで、場所だって同じ。その冷たい石触りは妙にリアルで、何度もそこを擦る。
此処で、おばあちゃんと遊んだ。話をした。昔話を聞いて、私の話を聞いてもらって、沢山撫でてもらって、キラキラした感情が駆け巡る。

そう感じた矢先、私は首を振った。

(違う、此処は、ちがう)

違う、此処じゃない。似ているようで、でも違う。
だって《此処》には、いない。存在しない。私はここで生きていないんだから、あの人だってそう、他人の空似。精巧に作られた人形だ。あれは母親なんかじゃない。

「誰も……」

───存在しない。

思い込もうとする事実を嗤うように、掌の感触が現実を伝えている。


帰れるかも、と思った。


此処は、私が一番思い入れのある土地だ。この場所はおばあちゃんとの思い出の場所だ。
なら、帰れたっていいじゃない。

「ひどいね、本当に」

冷たい石碑がリアルを伝える。重々しく呟いた声音に、感情が吐露される。

何も起こらない現実は、ただ私に現在を突きつけていた。



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