何時間経ったろう。とうにバスの時間は過ぎているため、取り敢えずトボトボと一本道を歩いた。歩き疲れたらどうしよう、取り敢えず野宿をするかそれとも民家に泊まらせてくれるよう頼むか。現実的なのは民家だ。年若い女が泊まらせてくれと頼んだら、一軒くらいは「はよ入りなさい」といれてくれる。
ただ、残念ながら今の私に民家の主に交渉しまくる気力は残されていない。
──まあ、どうだっていいか。
なんだか妙に、疲れてしまったのだ。
胸に残っていた僅かな期待が呆気なく散って、突きつけられた現実を否応なく受け止めて、そうして現在の自分を俯瞰してみると、気の持ちようは自ずと見えてくる。
世界に抗うことも、溶け込むことも、とても負担が大きいのだ。凡ゆる思惑と心情を受け止め続けて、且つ、この存在の異常性を秘匿し続けるために嘘を重ねることは、しんどい。一言で言おう、しんどいのだ。
元来、私は楽な方に流れる性分だ。この道がだめならあっち、あっちがだめならそっち。潰されていく道をどうにかしよう、というそんな気骨溢れる若者ではなく、潰れているのなら仕方ない、と別のルートを探していく。そうして、一番楽な道を選んで通る。石橋を叩いて渡る?頑丈な橋を選べば良いじゃない。
だから、今回だって同じ。
帰らなければいけない。でも帰れない。それならば、全部諦めれば良い。このあり得ない世界でのあり得ない存在。そんなもの、生きているのか死んでいるのかすら曖昧な、まるで人形のようで。
「なんだってできる、なんにだってなれる」
ふと、祖母と交わした在りし日の会話を思い出す。
この世界の私は誰にも知られていない、真っ白、いや無色の存在だ。まさに夢の中の登場人物。刀海洸という存在は、この世界に《存在しない》。存在しないのだから、希望も絶望もなくていい。
色のない人間になにが必要だと言うのだ。
ふふ、と自嘲が漏れる。こんなのただの諦念だ。すれた女の戯言に過ぎない。言葉を連ねて、心の中にある澱みを浄化しようともがいているだけ。
ため息を一つ吐き、ふと見上げた空には無数の光が煌めいていた。
(変わらないね)
胸にこみ上げた寂寞感に鼻がつんとする。瞳が揺れて、薄い膜が張ると視界が揺らめく。水膜が夜空の光を反射した。
変わらない空の風景に、目を細める。溜まっていた雫はそれだけで決壊して、頬が濡れた。無風の光と同じように溢れる雫を拭うことはせずにただ口の端を結んで天を仰ぐ。
溢れて、零れる雫は、私の懇願と共に外に流れて行くようだった。泡沫の夢となった帰郷、その切望を、一緒に流して落としていく。縋っていたその願いは、もう捨てないといけない。
泣くのは、これで最後だ。
帰れないと嘆くのも、帰りたいと懇願するのも、意味のない行動だと理解した。自分がどれだけもがこうと、この世界は否応なく私を絡め取る。運命線という糸を私に括り付けて、人形師のように動かすのだ。さながら、私はマリオネットというところだろうか。
人形は泣かない、いや泣けない。
だから、これで最後だ。
──もう、泣かないから。
ひとり、どこの誰でもない、この地に誓う。
焦燥も、憂愁も、哀願も全部ここに置いていく。今までの私を作り上げてくれた全ては、この偽りの郷里に沈めてしまおう。人形が流した涙は誰にも知られることなくこの地に染み込み、見つけられない。
さようなら。
紡いだ言の葉は音とならずに消えた。
最後の雫が頬を落ちて、私はひとつゆっくりと瞬いた。落涙の後を拭き取り、夜空から視線を闇夜に広がる一本道へと戻す。視線の先を見据えて耳をすませば、どこからか、静謐な空気に相応しくない機械音が聞こえてきた。
この時間、地方の田舎、それもど田舎の山間部に来る人間なんていない。車移動必須の地域、さらには後期高齢者の居住区なんて、深夜の老人徘徊以外でひと気があることはまずない。
ましてや、夜道を煌々とヘッドライトで照らして走って来る国産スポーツカーなんてあるはずがない。
けれど、その可能性が一欠片ほどはあることを私は知っていた。自分の身の上と、周りの人間関係を総合すればこの可能性はなきにしもあらずだった。
監視対象の遠出、なんて報告する以外ない事案だ。
闇夜を切り裂き進む攻撃的な光。その迫り来る光に目が眩んで顔を背ける。歩道を歩く私の真横に停まったそれの運転席から声がかけられる。夜半のこんな時間に声なんてかけられたら普通は慄いて逃げ出すところだけれど、掛けられた声に、私はたいして驚きもしなかった。
「何をしているんですか、こんなところで」
そりゃ、こっちの台詞だ。
心の中で毒づきながら、私は、曖昧な笑みを安室さんに向けた。
*
スポーツカーの助手席に乗るなんて初めての経験だ。だいたい、現実でスポーツカーに乗っている一般人なんて良いところの坊ちゃんか企業の重役、要は高級取りの部類で、つまりは私の日常生活の中で無縁の人間達だった。関わり合いになる機会なんてミリ単位もない。私が安心するのは、ファミリーカーや軽自動車を運転する一般的なサラリーマン。目の前に国産のスポーツカーが停まってみろ、秒で逃げる。
であるにも関わらず、私は今、国産のスポーツカー、それも良く手入れされて闇夜にその白亜とも形容できる白さと美麗なフォルムを浮かび上がらせる、まごうことなき高級車に乗せられているのだから人生とは不思議なものだ。
いや、現実世界ならあり得はしなかったのかな。
脳内でひとりごちた私の浮遊している意識に気付いたのか、隣の運転手は僅かに眉を潜めた。
「もう一度聞きますが、なぜあそこにいたんですか、刀海さん」
「なんとなく記憶にあるようなないような場所を探してたらあそこに辿り着いて、気がついたら最終のバスを逃してました。WiFiも繋がらない地域でタクシーも呼べなかったので歩いてた、て感じです」
淡々と事実だけ述べて後はだんまりを決め込む私に、彼、安室さんは軽くため息を吐いた。確かこれで五度目のため息。一番最初は、あの道で見つけられた時。「何をしているんですか」という問いに対して、「散歩がてら星を見てました」と言ったらため息を吐いた後、目を眇められたのだ、やだ怖い。
はっきり言って、何をしているんですか、はこちらの台詞だ。そりゃそうだ。旅行先のしかもこんな超がつくほどのど田舎に、愛車を吹かせてやって来たのだ。此処は東京から陸路でとばしても六時間はかかる。わざわざ、此処までそれだけの時間をかけてきたのだ。
何をしているんですか。もちろん私も聞き返した。けれど、返された言葉は綺麗な嘘で塗り固められていた。
(探偵の仕事の一環。店長からの依頼、ね)
嘘と真を糸を結うように絡ませて、同じ太さの縄にしてしまうような感覚。混ざってしまえば嘘も真も同じ縄になる。
店長の言葉を受けて来たことは事実だろう。だから、わざわざどこに行くかを店長に伝えたのだ。私を監視しているのなら、私が取る不可解な行動を必ず監視する。
来るとしたら、風見さんではなく彼だろうということも予想していた。店長と風見さんの関係を私は知らない設定だ。であるならば、あの私を看病した時、接触している安室さんが来るのが自然な流れだろう。あの時の裏話も、梓さんから言質は取れている。
ふと、数日前の梓さんとの会話を思い返した。
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