「え、あの時のこと?」と、私の問いかけに梓さんはきょとんと目を丸くした。
その日は安室さんが休みの日で、空に八雲が広がり、そこに茜色が淡く塗られた穏やかな日だった。
「梓ちゃんが店長からに頼まれたんだよね?安室さんみたいな美形がくるより、気心の知れた梓ちゃんがよかったな」
聞き出したい事実を隠して、邪気のない笑みと含意のない問いかけを装って梓さんに向けた偽りの顔。自分も大概、ろくでなしだなぁ、と理解しながらそれでも真実を知るために手段を選ばない程度には、もう私の心は荒んでいた。
はぁ、と頬に手を当てて困り顔で梓さんを見た私に彼女はくすくすと微笑んだ。
「だって、安室さんびっくりなんですよ」
無垢で可憐な相貌が紡ぐ事実は、強烈だった。
「わざわざ、自分が行くから買い出し変わってくれだなんて、きっと刀海さんに気があるんですよ〜」
年頃の女性らしい話題に、私もその人格を演じた。「そんなわけないですよ」なんて甘ったるい話題に応えつつ、内心ブラックコーヒーでそれを腹の底に落とし込む。胃の中でぐるぐるとのたうち回る情報にため息がこぼれた。
《梓さんは、買い出しで来れなかった。代わりに自分が来た》
存外、ツメが甘いのではないか。
梓さんの甘い勘繰りを右から左へ受け流して、私はひとり冷めた心内で彼女から聞いた情報を俯瞰していた。
(店長と安室さんは、やっぱり繋がっているのか)
確認したい事項はそこだった。
私を看病した際は、梓さんを介しての接触だったけれど、今回は違う。完全に、安室透、もしくは降谷零として店長は彼に私のことを伝えている。
店長は風見さんの協力者だ。降谷零の協力者としては、些か人が良すぎるし、嘘も下手。それに、ひとりの協力者を二人で管理するなんて無意味なことをあの降谷零がするとも思えない。風見さんの手駒の探偵、とでも言っているのか。
思案を巡らせようとして、そっと目を閉じる。そのまま思考を霧散させた。
(分からないから、意味ない)
考えたところで決定的な証拠が出て来るわけじゃない。なら、考えを巡らせたところで仕方がない。
事実を確認して、私はふと視線を車窓から外へと向けた。
散りばめられた光の粒は、闇夜を彩る。どこまでも続く高い空と壮麗な光の絨毯に視線は焼き付いて離れない。静謐な空気が流れる、不純物なんて何一つない世界。穏やかで、緩やかな、時間が止まったような感覚に陥る幻想的な空間は私の心を打つ。
変わらない美しさ。
変わらない静けさ。
それは、決して戻ると望んではいけない。
律しているはずの心は、まだ少し駄々をこねてしまうらしい。また、胸がギュッと締め付けられそうで、視線を外から中へと戻した。
「……綺麗ですね」
「え」
「星ですよ。ずっと見られていたでしょう」
ちらりと安室さんの視線が空へと向いてまた前方に戻る。この人、運転しながら私の視線を横目で追っていたのか、凄いな。
「そうですね」と他人事のように相槌を打った私に安室さんは続けた。
「東京だと光害の影響で見えにくい星が此処ではこれほど見れるとは驚きです」
「田舎なんて、どこもこの程度は見れますよ」
他愛のない話をしながら、ちらりと安室さんの横顔を眺める。
ベビーフェイスの端整な顔立ちがすぐそこにあって、その相貌からは彼が何を思案しているのかは見当もつかない。先ほどまで私との会話で多少の苛立ちを見せていたのに、既にその色を塗り替えてしまっている。切り替えの早さはさすがというべきか。それとも、内心腹に据えかねる想いを抱えながらこの澄ました顔を演じているのか。
駄目だ、また無意味に考えてしまう。
「僕の顔に何か付いてますか?」
朗らかな笑みと共に、揶揄うような声音が掛けられて、思わずまじまじと彼を見つめてしまった。
アイスブルーの瞳が私を捉える。長い睫毛がぱちりと揺れて、うっすら細められた。闇に溶けずにその色を主張する淡い金髪、褐色の肌。確か、彼はハーフだったか。両親の情報は公式から出されていなかったから、どこのお国のハーフかは分からない。端麗な容姿と甘さを醸し出す仕草、声音、どれもこれも安室透を演じる上で必要な要素だけれど、降谷零はどうだろう。バーボンならもう少し裏の顔を覗かせるだろうか。
三つの顔を使い分ける目の前の男の真意を計ることなんかできなくて、薄ぼんやりと彼を瞳に収めてそして思惟に浸る。
眼前で私を見つめる彼は、確かに私があの世界で憧憬したキャラクターだ。寸部違わない精巧な作りの別人ではなく、降谷零、安室透、バーボンの三つの顔を使い分ける公安警察官。
こんなことが、あり得てしまっている。
それはまるで─
「刀海さん?」と安室さんの瞳が怪訝に揺れた。問い掛けに呼応するように、ぽつりと、言葉が漏れる。
「夢、みたい」
「え」
「夢みたいなんです」
まるで、夢みたいだった。彼に会えたことがじゃない。今、この世界に私がいて、彼がここにいる、その事実そのものが、夢みたいだと思った。
魔法が使えたら、空を飛べたら、時間を巻き戻せたら、一度は誰もが考えるあり得ない事象が目の前で起こったら誰だって考えるだろう、夢みたい、と。
どこまでも、此処は、現実なのに。目の前の彼はこんなに非現実的だ。現在を生きている筈なのに、本当に生きているのか。むしろ、彼は本物なのか、なんて。
──馬鹿馬鹿しい。
夢想しかけた自分を叱責するように、瞳を伏せた。いくら思案に暮れたところで、それは現実問題への解決にはならない。
自嘲に乾いた笑いが漏れて、彼から視線を膝へと落とす。すり、と掌を擦り合わせて、その感触を退くに伝達した。
夢は夢でしかない。現実に落とし込むことは不可能だ。掌の感触にそっと目を細める。
──なら、此処はいったいどこ?
──夢の中、それとも現実?
頭の中でリフレインした自分の声に、徐に口が開いた。
「現実じゃなくて、夢みたいなんです」
不可解な私の言に安室さんは「夢?」と聞き返してきた。こくりと頷いて、紡いでいく。
「ずっと夢の中にいる心地なんです。ちゃんと此処にいるのに、夢を見ているようなんです」
何を言っているんだろう。どうしてこんなことを私は安室さんに話しているんだろう。話さない方が自分の為になるのに、どうしてか話すことをやめられない。ポロポロと溢れてしまう心内を今更隠そうとしたってこの人には無意味だ。
心ここに在らずという風に、訥々と語る私を彼はどう見るんだろう。視線を彼に向けて、でも怖気づいてまた逸らす。
安室さんは私を見て数度瞬くと、視線を前方へ戻した。そして、ひとつ間を置いて思い出したように「あぁ」と声を漏らした。
「マトリックスのようですね」
「……映画の、ですか?」
「おや、ご存知なんですか?」
「………そう、ですね。なんとなく、昔見た記憶があります」
しまった。時々、記憶喪失設定を忘れそうになる。うっかり口を滑らせて、ないはずの記憶を零すなんて笑えない。ひくりと頬が引きつった私を見る安室さんの双眼に背筋がぞわぞわして、口の端をきゅっと結んだ。やだな、怖い人だ。
視線を彷徨わせた私に、安室さんはくすりと微笑む。
「随分昔の洋画ですから、若い女性は知らないものかと思っていました」
「若いって…いや、私そんなに若くない…と思うんですけど」
歯切れが悪い。そもそも、なんと言い返せばいいか分からない。ちなみに、私は安室さんと大差ない年だ。ピチピチの大学生でも、入社したての社会人でもない。ごく普通の人生を辿った、どこにでもいる凡庸な社会人。
考えの読めない彼の視線に乾いた笑いを数度漏らした後、私は改めて、その言葉を反芻した。
マトリックス。子どもの頃見たその映画の内容は大人になった今でも私の記憶に鮮烈に焼き付いている。
君が見ているのは、本当に現実なのか。
幼い頃、この映画を見た衝撃は計り知れなかった。実存在、自分という概念が大きく覆った。
私が認識している範囲外に世界がある可能性、私個人すら認識し得ない私がいる可能性なんて一ミリたりとも考えたことなんてなかった。
人間が知覚している世界は、実は仮想現実で、現実の世界の自分はカプセルの中で眠っていた。
そんな、ありえないと一蹴してしまうような世界観に子どもながら私は慄いた。
そして同時に、ふと、思ったのだ。
夢の中の自分が、本当の自分で。現実の自分こそ夢の中の住人なんじゃないか、と。
子どもの遊び心だ。そんな夢物語を本気で信じて、夢を見るたびに細部を必死に思い出そうとした。あちらが本当の自分かも、だなんて幻想を抱いた時期もあった。
「刀海さんにとって、今見ている世界は現実ではないように感じるのかもしれませんね」
ぽつり、と安室さんが漏らした言葉にぴくりと肩が揺れた。心臓が一瞬跳ねる。確信を持って言われた言葉だったら、もっと動揺していたかもしれない。なるべく外身にはその動揺が伝わらないように、きゅっと体躯を引き締めた。
アイスブルーの瞳が鋭く光った気がした。
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